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ACCUMU Vol.2 1990



 
 

若き日の長谷川繁雄初代学院長


松村隆雄 MATUMURA TAKAO

読売新聞大阪本社
新聞製作工程委員長


 
前列左端が初代学院長
  長谷川繁雄初代学院長には学生時代、とくに親しくさせていただいた。社会に出てからは、お互いの仕事に追われて疎遠になりがちだったが、亡くなられる一年程前、何年かぶりに百万遍の学院を訪ねてお会いしたのが思いがけぬ最後となった。少しは余裕もできて、これから旧交を温め、長年言い合って来た同人雑誌もあわよくば実現したいと思っていた矢先の急逝は衝撃だった。
 戦後の混乱がなお続いていた49年(昭和24年)の春、共に新制京大の文科系で机を並べた私たちは、寄宿した寮(当時、百万遍にあった学生会館)が一緒だったところから、”同じカマの飯”ならぬ、同じ飯盒の飯や鍋の味噌汁を分け合い、フロ屋では、人生について、まさに”裸の議論”を交わし、東山界隈の路上では文学や夢を語り、時には喧嘩もやる、今から思えば懐かしく貴重な一時期を持った。豊かになった今日の学生からみれば、食糧事情の悪かった当時の自炊生活など想像もつきにくかろう。お互いにゲル欠で、文学青年という点では似ていたが、大まかな私などと違い、非常に精細な神経と鋭敏な感情の持主であった反面、誠実で純粋、強固な意志と行動力も併せ秘めた詩人だった。
 学生時代はその繊細な面が強く出て、様々な人生上の悩みにノイローゼ気味で、睡眠薬を飲み過ぎて難聴をきたしたり、腫れ物で寝込んだりして、私が医者を突然引っ張って来て、びっくりさせたこともあったようだ。しかし、当時の左傾的な時代の雰囲気の中でも、詩を作り、哲学書をひもとき、大学の新徳館のピアノをひくという芸術、哲学の徒の立場を一貫して守り、浮ついた政治色には染まらなかった。
 3回生のとき、東京へ転学した私は、54年に再び京都へ戻り就職した。その年の春、四条河原町の喫茶店だったと思う。”フィアンセ”として紹介された女性が京大の宇宙物理を専攻されていた現学院長だった。その時の話では、お互いの詩を通じて、すっかり意気投合された様子で、そのお熱いカップルぶりは羨ましい限りだった。この詩と宇宙の合体から何が生まれて来るのだろうと思ったものだった。
 55年の9月、奈良県の川上村の中学に国語教師として一時就職したと手紙をいただいた。大台ケ原に近い山間の美しい風景をバックにした、純朴な学童たちとの心の触れ合いに、教育者としての意義を深く感得されたようで、この時の経験は、翌々年、和歌山で予備校を始められ、更にその後の教育事業に連なって行く動機の一つともなったと思われる。その手紙の一部を紹介させていただく。
 「授業を始めてから、毎日幼い純朴な心に触れていると、こちらが熱意を示せば示すだけ、それに応えてくれるのが嬉しく、今更ながら、教師という職の良さがわかり、他の職に就こうという気持を放棄するに至りました。受持ちが国語であるからかも知れませんが、他の学科を受持つより以上に幼い心の成長の過程に触れることができるので、僕自身の勉強にもなるのです。それより以上に、愛の実践としての教育に、人生の意義を感じています。(中略)
 この村は大台ケ原登山口の柏木という所と吉野川を挾んで相対しています。その両所を長い吊り橋が連絡しており、ずい分下に見える渓流は深山特有の薄青い色を湛えています。周囲はかなり高い山々に囲まれ、空は青く大変高く見えます。夕暮れになると、雲が下りて来て、山々は隠れてしまい、朝になると、雲の退くに従って山々が、頂上を出したり、山腹を見せたりして、その美しさは、ヘッセならずとも、あの「雲」の様な名文を書けそうです」
 68年6月、京都の路上でたまたま出会った折り、全日制のコンピューター学校を開設するので、協力してほしいという話を聞いた。その半年程前に会った時には「世の中は自分の思ったのとは違っていた」と悲観的だった氏は一転、希望に燃えていた。コンピューター学校の計画があることは風の便りに聞いてはいたが、まだ当時ではよその世界のことだと思っていた私は驚きと共に、いよいよ”宇宙と詩の伴走”の夢が現実にスタートするのかと、その先見性に目を見張ったものだった。私はその後、住みなれた京都を離れたのでお会いすることも少なくなったが、その直前に、山科の家を新車で訪ねて来て、夜の鴨川べりのドライブしながら、開通して間もない「高速道路を背景にした現代的な小説を書くのだ」と張り切っていたことも懐かしく思い出される。
 亡くなる一年前、何年かぶりにお会いした学院長は、大きく発展したコンピュータ学院の経営者として貫禄も風格もすっかり板につき、なお文学青年のイメージを抱いていた私の目を開かせた。話しているうちに、親しみ深く、率直で誠実な人柄は昔と変わらなかった。その上に、以前から併せ持たれたいた固い意志と実行力、それに凡庸な常識に左右されない直観力が、厳しい事業経験の中で鍛えられながら、先見的な着想を次々に呼び起こし、夫人の専門的な識見と示唆に支えられて、今日の信念ある教育事業家を誕生させたのであろうと、ひとり想いを回らした次第だった。
 だが不幸にして多くのことを語り合い、学び取る機会は、突然に永久に失われてしまった。あの人なつこい笑顔と共に。



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