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Accumu Vol.1

同志社(キリスト教学校)はこうして京都(神仏の街)に誕生した

近江 良

新島襄と山本覚馬

重文クラーク記念館
重文クラーク記念館 1893年(明治26年)建設

東山や嵐山の桜は,例年どおりあでやかに咲き誇っていたが,洛中の空気は重苦しく沈んでいた。事実上の東京遷都で,京都の街は“第二の奈良になるのでは”と,人々は不安の日々だった。1875年(明治8年)4月である。

その前年に,晴れてアメリカから帰国した新島襄は,河原町御池下ルの京都府顧問私宅を訪問した。初対面ではあるが,アメリカで勉学中,通訳をつとめた岩倉使節団の一員,木戸孝允の紹介状を携えていた。

この家の主,山本覚馬が若い女性に抱えられるように座敷へ入ってきた。眼が不自由なばかりか,足もとも覚束ないようである。

「八重,紹介状を読んでおくれ」

「はい,兄上」

若い女性は,覚馬の妹であった。

山本覚馬は,この時新島より15才年長の48才であった。

もと会津藩士-戌辰戦争では賊軍と呼ばれた彼が,薩長新政府要人に認められ,長州出身の槙村正直京都府知事の顧問(補佐官)として迎えられたのは,薩摩藩邸に幽閉中の建白書にさかのぼる。

青年時代,佐久間象山らについて蘭学と洋式砲術を学んだ覚馬は,京都守護職に任命された藩主松平容保に従って,京都御所警護の砲兵隊長となった。当時幕府と対立していた長州藩が,“朝廷に申し上げたき議あり”と軍兵を率いて上洛した「蛤御門の変」(禁門の変)の折は,友軍薩摩勢と共に砲兵隊を指揮して,長州兵を天王山に追撃した。しかしこの頃から次第に眼疾が悪化し,やがて鳥羽伏見の戦いが始まるや,かつての友軍薩摩勢に捕えられて藩邸に軟禁された。このころ両眼は殆ど視力を失っていた。今でいう白内障かも知れない。

しかし,かねてより勝海舟を訪ねては時勢を談じ,その紹介で,京都に塾を開いていた西周からヨーロッパの教育事情を聞いていた覚馬の見えぬ眼は,新生日本のあるべき姿に向けられていた。

彼は,同じく捕われていた同藩青年を呼んで,政治・経済・教育・文化など21項目にわたる提言を口述筆記させ,藩主に差し出した。“近代国家の建設を急がねば,英仏露先進諸国に侵される”という憂国の情とその建策が,家老を通して木戸孝允らの眼にとまったのである。

「新島さんは,『天道溯源』という書物をご存じかな。わたしは,宣教師のゴルドンから紹介され,45冊も買いました。」

(※清国で出版されたキリスト教入門書)

新島の顔が輝いた。実は,母国にキリスト教精神に基づく学校を開くため,5000ドルの寄付金を得て帰国した新島は,外人宣教師の住む大阪か神戸に開校すべく,2ヵ月前大阪府知事に面談したが,「宣教師が教壇に立つことは認められぬ」と拒否された。京都は,日本でも,神社と寺院の最も多い宗教都市である。禁制が解かれたとはいえ,ヤソ教に対する拒否反応は依然根強い。宣教師たちでさえ,京都開校は無理だという意見が強かった。

ゴルドン(ゴードン)は新島の知人で,大阪では彼の家に逗留していたのである。

新島は,頬を紅潮させながら熱っぽく語りはじめた。

“キリスト教主義の英学校だが,教科は英語の他に,数学・地理学・天文学・ 物理化学・経済学・世界史などである。教師は外国から招へいするには資金がないので,宣教師を雇いたい。そうすれば授業料を低く抑えることができる。将来は大学にするのが理想である云々。”

覚馬は,時折大きくうなずく。

八重はかたわらで,新島の横顔を見つめていた。口ひげを蓄えたこの人が,まさか自分の夫になるであろうとは知る由もなかった。

新島の計画に賛意を示した覚馬は,知事に働きかけることを約束し,学校敷地として自分の所有地を提供しようと申し出た。京都御所の北,今の同志社大学本部校地である。

2ヵ月後,新島は覚馬の家に住まいを移し,覚馬が文案を練って「私学開業願」を京都府に提出した。同志社社長新島襄と,結社人山本覚馬の連名である。同志社は「二人の同志」によってスタートした。

八重が洗礼をうけ,新島と結婚式を挙げたのは,その翌年である。こうして山本一家は,あげて同志社教育の確立と発展につくした。新島が長期不在の折は,覚馬が校長代理をつとめ,同志社女学校が開校すると,覚馬の母さくが舎監に就任した。このころ覚馬は,脊椎障害から全く歩行の自由を失っていたが,創立10周年記念会には,駕篭のまま登壇し,「学校教育」と題して蘭学者の苦心について語っている。一方,新島は東奔西走して,仙台に英学校,京都に同志社病院と看病婦学校,大学用地として彦根藩屋敷跡6000坪の買収と,席のあたたまる暇とてないまま病に倒れ,1890年(明治23年)1月,八重に看取られて昇天した。享年48才であった。

「最上の教授法。私は教室でいちばん出来の悪い学生に特別の注意を払うつもりだ」「(同志社)社員たる者は,生徒たちを丁重に取扱うべき事」-新島襄

最後に,覚馬について少し触れておこう。彼は,槙村知事のもとで,京都の近代化,活性化に次々と施策を行った。このころの京都には,「日本最初の」という形容のつく施設や事業が多いのは,槙村・山本コンビの指導力と,その登用した内外の人材による。

小学校・中学校・女学校……。殖産興業のために製革場・勧業場・養蚕場・博覧会……。

英学校開設後,間もなく京都府顧問を辞任した彼は,1879年(明治12年)京都府議会が開設されると,上京選出の議員に当選。第1回府議会で議長に選出された。

書生に抱えられて議長席についた盲人議長は,「自分は体が不自由なので,議長としての定められた動作については,副議長に代ってもらうことがあるので了解されたい」旨,堂々と述べたと議事録に記されている。

今日,視覚障害者の各分野への進出は目ざましいが,政界はまだ稀である。100年以上前のこの時代に,盲人議長を生んだ京都府民は,覚馬の識見と業績に1票を投じたのであろうか。

また議事運営規則制定にあたって,「休会は大祭日と祝日」とあった原案に,「日曜日」を付け加えるよう提案し,修正可決したのも覚馬議長であった。この主張の背後には,キリスト教の安息日を守って,神に感謝しようという覚馬の信仰があったのかも知れない。

議長・議員は1年で辞職するが,58才の時洗礼を受け,新島没後は同志社臨時総長に就任。翌年死去した。葬儀は同志社チャペルで行われ,新島と同じ東山若王子墓地に眠る。

参考

J・D・デイヴィス著 北垣宗治訳「新島襄の生涯」 京都ライトハウス刊「山本覚馬伝」

アーモスト館
アーモスト館 1932年(昭和7年)建築