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Accumu Vol.10

はるかなるうみのはて

アラスカ州立大学卒業 野生生物学専攻

アラスカの自然を対象にする新進気鋭の若手写真家

松本 紀生

早起きと心地よい寝覚めが日常になってゆくいつもの夏。今日も目覚めると何かに促されるように素早く身仕度を調え,テントの外へ。森に滲み入る凛とした冷たい空気がやさしく頬を撫で,その清らかさは,深呼吸をする僕にその日一日の元気を与えてくれます。

「ゴォー・・・・・・。ゴォー・・・・・・。」

いるいる。今日もいる。森の中からは姿こそ見えませんが,あたかもすぐそばに居るかのような大音響で森中に響き渡るこの音。そうです,ザトウクジラの呼吸音です。はやる気持ちをそのままに,草木をかき分け小走りに浜辺へ。目の前には絹のように滑らかな海の広がりと,そこをゆったりと漂うクジラ達の姿が見えます。彼方の山の端が次第に明るみを帯び,それと呼応するように,辺りをやさしく包んでいた朝もやが大気の懐へと姿を消してゆくこのひととき。こんな朝,凝り固まっていた心のどこかがゆっくりと溶けていくのを素直に感じられると同時に,一緒にこれを見せてあげたいなあ,なんて大勢の人達の顔が自然に浮かんでくるときでもあります。ああ自分は幸せなんだ,なんていう純な気持ちが少しの躊躇いもなく心を満たしていきます。

ここはアラスカ南東部,通称サウスイースト・アラスカにあるポイント・アドルファスという所です。森と海と氷河に囲まれた南東アラスカ。この土地が持つどこか穏やかで優しい空気に惹かれ初めてここを訪れたのが5年程前のことになります。そしてすっかりこの土地に魅せられて以来,自分が本当に心惹かれるものを撮っていきたい,という思いを抱きながら,この土地で旅を続けてきました。そうして出逢ったたくさんの風景,動物,そして人々。全てが楽しい旅だった,なんて言うつもりはないけれど,確かに「生きている」ことをずっと感じてこられたのはほんとうです。そんな旅の中であるときふとめぐり逢うことのできた僕の大好きな場所,ポイント・アドルファス。ものを見る眼云々,なんて語ることすらおこがましい僕なんかにも,大自然の様々な命がやさしく語りかけてくれる場所です。僕はここに毎年クジラの姿を求めてやって来ます。

朝露に濡れた撮影用のゴムボートを背中に担いで海へ運び,エンジンを取り付けます。何でもないいつものこんな作業の中,3mにも満たないこの小さなボートは,しかし,僕に思いもかけなかった素敵な贈り物をしてくれます。クジラ達の唄声がボートのゴムを通して聞こえてくるのです。「クゥーン・・・・・・。キューン・・・・・・」,なんて仲間同士で囁き合う彼らの声が不意に海の中から聞こえてくる。手の届くことのない憧れの対象,それでもその生命の息吹をしっかりと肌で感じとったときのあのハッとする喜びは,とても言葉では表現しきれません。言葉足らずを承知で敢えて言うとそれは,お母さんのお腹を通して胎児の生命の躍動に触れたときのあの新鮮な驚きと湧き上がってくる喜びに似た感動,とでも言うのでしょうか。

エンジンをスタートさせても遠くまでクジラを探しに行く必要はありません。南東アラスカ全体で確認されているザトウクジラの数がおよそ400頭。そのうちの50頭以上が,夏になるとこのポイント・アドルファス周辺のわずか180km程の狭い海域に集まって来るのです。さらに,そのうちの約半数は,わかっているだけでも20年以上も,毎年ハワイ沖からこの同じ海に帰って来ているそうです。彼らを惹きつけているのはこの極北の海の豊富なエサです。50頭のクジラが一日に消費する食料はおよそ100トン。それを3ヶ月も続けるクジラ達を当たり前に受け入れてしまうアラスカの自然の大きさ。僕が実際に目にしているのは,ほんとはそんな大自然のほんの一部に過ぎないんですね。

海に出た僕の目の前で繰り広げられる生命の競演の数々に,僕は魅了され続けてきました。十数頭の群れがゆったりと海峡を行き来する雄大さ,生い繁る海藻に体を絡めて遊ぶ巨体の優雅さ。時に何十回となく繰り返すジャンプの大迫力。そして母と子,ぴったりと寄り添って泳ぐ姿のあたたかさ。どれもこれも僕の中の少年を惹きつけて止まない光景です。穏やかな波に揺られ,甘くどこか懐かしい潮の香りに包まれながら,何にも遮られることのない大空の下でクジラ達に囲まれて過ごす夏。一年に一度,僕はここに心の洗濯をしに来ているのかもしれないなあ,なんて最近思うようになりました。

「仲間とそれを共有できたとき,感動は倍増する」,という言葉を何かの本で読んだ記憶があります。この場所に通い続ける間に,僕にもそんな仲間がたくさんできました。ホエール・ウォッチングの観光客を乗せてボートを運転する彼らは,僕と同様に,いや多分それ以上に,クジラを愛し,そしてこの海を愛しています。姿が見えれば笑顔で手を振り合い,食料の乏しい僕に自分達の分を分けてくれ,一人でキャンプを続ける僕の話し相手になってくれる彼ら。夏が終わり,それぞれの生活に戻った後にも送り送られて来る,たくさんの思い出をのせた写真やクリスマス・カード。そしてやがて一年が過ぎ,また同じ海で彼らと再会するときのあの喜びと交わし合う体温。彼らにもし出逢っていなければ,この場所をこんなに好きになることはおそらくなかったんじゃないかと思います。

日が沈み辺りが暗くなる頃,僕の一日が終わります。ボートを岸に上げ,遅い夕食をとり,また森の中のテントへと帰って行きます。寝袋にくるまって日記をつけ終わる頃には,何とも心地のいい疲労感が体を支配して,僕を深い眠りへと誘ってくれます。森の中には,どこからともなくまたあの音がこだまします。

どうかまた明日も会えますように・・・・・・。

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松本 紀生
Norio Matsumoto
  • アラスカ州率大学卒業 野生生物学専攻
  • アラスカの自然を対象にする新新気鋭の若手写真家

上記の肩書・経歴等はアキューム10号発刊当時のものです。