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Accumu Vol.13

京都コンピュータ学院 創立40周年記念講演 「時代を拓くパイオニア・スピリッツ」

株式会社堀場製作所 会長 堀場 雅夫 氏

株式会社堀場製作所 会長 堀場 雅夫 氏

本日は京都コンピュータ学院創立40周年,本当におめでとうございます。この記念すべき日に講師にお招きをいただきまして大変光栄に存じている次第でございます。早いもので,この40年,ちょうど私どもの企業がコンピュータの導入を考えまして,そのときに現理事長の長谷川先生にいろいろとアドバイスをしていただいて,それ以来の関係でございます。

京都コンピュータ学院は教育方針がほかの学校と違いまして,非常にベースをしっかりされています。したがいまして,この業界というのは大変進歩が激しいわけですが,ベースがしっかりしておりますから変化に対応できる能力をこの卒業生がもっているということを私は大変すばらしいと思いまして高く評価をしておりました。

今年の春を過ぎた頃,理事長が私のところへやって来られまして,思い切って大学院大学をつくるのだというお話でございました。

理事長の熱心な構想,夢を聞かせていただいて,それが単なる夢ではなく現実的な内容であり,だんだん私も引き込まれてきて最後には,「これは京都のためにも,日本のためにもやらなあきまへんな」ということになりまして,そこで微力ながら私も何とかこの成功のために協力をさせていただきたいと思った次第でございます。

小渕内閣のときに科学技術基本法の改正ということがございまして,そのときに私も委員としていろいろと提言しましたが,それ以後,内閣府の科学技術会議,あるいは文部科学省,経済産業省等々の委員をさせていただきました。いろいろディスカッションをしてだんだんそれが煮詰まってまいりますと,最後に必ず行き着くところは教育問題であるということになってくるわけです。したがいまして,大幅な改革を各部門で提言していたときにこのお話が飛び込んできたわけでございまして,いっそう大学院大学の構想を何とかやり遂げるべきであると考えたわけであります。

これにチャレンジするということは,まさに本来のパイオニア・スピリッツそのものではないかと考えておりまして,今日の講演もあまり必要ではないのではないかと思っているのですが。

実は私は今日,頭の痛いことがございます。このあいだ,『人の話なんか聞くな!』という本を出しまして,これが思いのほか売れたのです。ということで,あまり人の話を聞きたくない人が世の中には大変多いということを知りました。その著者が皆さんの前でお話をするというのはちょっと矛盾を感じるわけでございます。これは,やはり人の話を聞くときにはしっかりした自分のフィロソフィーをもって,「なるほど,わしの考えと同じことをいいよるな」とか,「こんな反対意見も世の中にはあるんだな」とか,いろいろと話を聞くことは有効ですが,ただひたすら何もなしに人の話を聞いてそれを鵜呑みにするというのは大変危険なことである。とくに私どもの場合,経済評論家などの話を聞いてそれを信じたら大変なことになりますので,これはなるべく聞かないようにという意味でございます。

われわれは夢多き21世紀と思って今世紀を迎えてから,すでに3年近くが経過するわけですが,いったい20世紀と21世紀とはどこが違うのかということですが,私はこれを四つのアイテムに分解してみました。いったい何が変わりつつあるのか,何は変わらないのか,あるいは何を変えるべきなのか,何は変えてはならないのか,この四つの観点から21世紀というものを見てはどうかと思うわけです。

一言でいいまして,今,日本が変わりつつある問題というのは,日本は第二の開国の状況にあるということです。

幕末において黒船が下田にやって来て,ここで日本は長年の鎖国をやめて開国するわけですが,日本の基本的な考え方等々についてはこの開国によって大きく変わることはなかったわけです。

現在の第二の開国というのは,第一の開国よりも,もっともっと大きなインパクトを日本に与えているのではないか。

細かい話は別として,その一つの大きな現れはスタンダーディゼーション,要するに標準化ということであります。私共ものづくりをやっておりますと,日本には立派なJIS(Japanese Industrial Standard)という標準規格がありまして,これで世界中にものが売れたわけですが,今やISO(International Organization for Standardization)をとらないと世界中にものが売れなくなりました。いったいどこが違うのか。もちろん技術的な内容はそう変わりませんが,手順等々についてはISOは詳しいわけです。

なぜこういうものがいるかというと,日本では全国どこでも言葉も通じますし,だいたい背中をポンと一つ叩いて「頼むわ」といえば物事はうまくいっていたのですが,どうも海外へまいりますとそういうわけにはいきません。詳しく図面あるいは書類等々で手順をしっかりしないと品質管理ができない。これは当然のことでありますが,日本にとってこのISOはいろいろな意味で大きな負担になっていることも事実であります。
 今,銀行が大変だといっている一つの大きな原因は,BIS規制のような金融界におけるスタンダーディゼーションという問題であります。それ以外にもいろいろなスタンダードがありまして,それをクリアしないと仕事が進まないというのが大変な問題です。

しかし,いちばん恐ろしいのはデファクトスタンダード(de facto standard)であります。これは世界中で強いところがスタンダードになってくるということです。いちばん皆さん方に大きく関係するのは,コンピュータでマイクロソフト社のウィンドウズが世界を制覇していることです。私どもも画像処理をしておりますと昔はずっとマッキントッシュであったわけですが,ある日突然お客さんからウィンドウズに替えろといわれました。当時は画像処理としてはマックのほうがはるかに進んでおりました。値段も安いし,性能もいいし,メンテナンスもいい。だから,どうして替えるのですかと聞くと,「いや,理屈はないのだ。会社が全部ウィンドウズに切り替わったから,君のところもそうしてくれ。君のところだけがマックであればインターフェイスとかいろいろ面倒だから」という簡単な理由でありました。

そこで私が大変ショックを受けたのは,ものづくりを始めて50年,「安くて,品質がよくて,メンテナンスがいいものをつくれ」といい続けてきたわけですが,デファクトスタンダードの前にはこの三つの条件はあまり意味がないのです。少々高くてもよろしい。少々品質が落ちてもよろしい。少々使い勝手が悪くてもよろしい。デファクトスタンダードでなければ役に立たない。まさにわれわれものづくりとしては青天の霹靂であります。こうしたスタンダーディゼーションはまさに新たな開国ということにもつながります。

そういうことになってまいりますと,今やコツコツとキャッチアップで何とかやっていこうという考え方はまったく通用せずに,デファクトになるテクノロジーをわれわれ自らの手でつくりあげていかなくては,これからの日本の産業は滅亡必至ということになります。インターナショナルなマーケットにおいてナンバーワンにならなければ,その企業は生き残ることができない。すなわち,現状においては「Winner gets all」であります。勝利者がすべてのものを持ち去っていく。だから,ナンバー2,ナンバー3が大変ウィークな状態になり下がります。ナンバーワンにならなければ世界企業には絶対になれないという非常に明確な状況になってきています。

こういうことを考えていくと,ナンバーワンになるためにはデファクトになるようなものをわれわれの手でつくりあげていくということになると,今までのようなキャッチアップ型の人材がいくらいても何の役にも立たない。新しいベンチャー魂,パイオニア・スピリッツをもつ人間でなければ,これからの世界は生きていくことができないということになってくるのではないでしょうか。

次に,何は変わらないのかということですが,これは人間の本性というものです。人間の本性は人類が発生してから今日まで全然変わっていない。人間は,神から与えられた五欲と道徳のバランスで生きて行動しているわけです。大変大きな世の中の変化が起こっているのに,なぜ人間の本性は変わらないのかということですが,たしかに人間の知,知識(knowledge)というものが大変大きな変化をもたらした。これは自然科学に代表されるように大変大きな変化を遂げていますから,したがって自然科学の変化に伴うわれわれのライフスタイルはものすごく変わっているわけです。しかし,人間の本来の本性というものは変わっていない。その証拠に,2000年前のイエス・キリスト,お釈迦さんは依然としてわれわれの前に厳然として生きています。2000年経ってもキリストを超える人,釈迦を超える人は出てこない。まったく自然科学の世界とは異なっている。このように,人間が変わったと思ったら大変なことでありまして,人間は変わっていない。knowledgeが変わったのだということを認識すべきではないかと思います。

三番目は,何を変えるべきなのかということです。これは新しいアイデアをどんどんと生み出せるような教育環境に変えるべきであると思います。日本は「education」を「教育」と訳しましたが,もともと「education」の語源である「educe」というのは,教え授けるという意味ではなくて引っ張り出すということです。要するに一人ひとりの人間のすぐれた能力,神から与えられたすばらしい能力,これは人によって違うわけですが,その能力を引き出して,その能力をどんどん伸ばして,その能力でもって社会に貢献するような人間をつくっていくのが本来の教育であると思います。しかし残念なことに,日本は偏差値教育,すなわち工業製品の品質管理と同じような手法を使って進めてきたばかりに,その人のもてる能力を十分発揮できないような状況で世に送り出しているという大変致命的な欠陥をもっている。これは絶対に変えるべきではないかと思います。

日本のサクセスストーリーというのは,有名な大学に入って高級官僚になるか,有名会社のサラリーマンになるかということであって,それ以外は全部落ちこぼれという感じで今まで進んでまいりました。しかもいちばん恐ろしいのは,社会全般の先入観であります。勉強するというのは苦である。仕事というのも苦である。ですから一生懸命仕事をしたら,「ご苦労さんでしたね。大変でしたね」といわれるわけですし,仕事をして帰ってくると,「ご苦労さんでした。お疲れさま」といわれるのです。私も仕事をして会社へ帰ってくると,まず受付の女性が「お疲れさまでした」というのです。「わしは疲れてへん。元気や」というのです。なぜ元気な私がその人に「お疲れさん」といわれなければならないのか。そしてエレベーターを上がって私の部屋へ入ろうとすると,今度はセクレタリーが「ご苦労さまでした」という。

私は疲れないので,どうも人間がおかしいのかなと思うのですが。楽しく仕事をしたら,疲れるどころかだんだん元気が出てくるのです。しかし世の中というのは,勉強したり仕事をしたりすることは疲れることである。したがって,昔の労働省は労働時間を短くすることが労働者にとってハッピーであると思っていたのです。それで,年間労働を2000時間,1900時間,1800時間とだんだんと切っていくわけです。人が気持ちよく働いていても,1日8時間以上働いたら,それは残業だというのです。べつに残っているのとちがう。おもしろい仕事をしているのや。なぜお役人に自分の仕事を,「ここまでは正規の時間,ここからは残業だ」といわれなければならないのか。そう思うのですが,現実はそういうふうになっている。

要するに,自分の好きなこと,興味のあることをするのは苦労ではなくて,反対に自分はどんどんとエキサイトするわけですから,好きなことをさせる,あるいは興味をどんどんもたせていくという,ティーチングプロの数が日本には本当に少ないと思います。

私は幸いなことに,昔の師範学校の附属小学校に入りました。そこでは放課後は自分の好きな先生のところへ行って,いろいろと話を聞いたり,実験をしたり,工作をしたりするわけです。

私は理科系が好きだったものですから,理科の先生のところへ行きました。今ならラジコンなんて誰でも知っていますが,六十数年前に,無線操縦の電気機関車をその先生がつくって私に見せてくれたのです。ボタンを押すと電車が前進したり,止まったり,後退したり,ヘッドライトが点いたりする。感激しましたね。それを見て3日ほど興奮して寝られないぐらいでした。それでますます理科が好きになりました。

そして中学校へ進みました。中学2年生のときに,すばらしい数学の先生がやってきました。数学というのは平均的に多くの人に嫌われていましたが,その先生が来たおかげで本当に数学が好きになりました。私なんかは「数学なくして人生なし」と思うぐらい好きになったわけです。幾何学では一本の線を引くことによってがらっと変わりますし,また,1,2,3,4,5,6という数字の0の発見はまさに数学がインド哲学の無ということに相通じるという話とか,いろいろ聞いているうちに,「数学というのは本当にすごいものだな」と思い,それからは数学の勉強が本当に苦にならずに,いろいろな本を読んだり,当時は中学生でしたが高校の本なども読みまして,下手な小説を読むよりもよほど面白く過ごしました。

高等学校へ入ったときには今度は物理の先生が来ました。原子核物理の専門の先生でした。そこで原子核の話を聞き,それを大きくしたのが宇宙だという話を聞き,毎日天を仰いで,「あっ,あの光は私の生まれた何倍も先の光が今,私の目の前に入ってきている」,そんなことを思って,「これはすごいことだな。宇宙とはいったい何なのだろうか」ということを考えました。そしてそれをずっとミクロにもっていったとき,そこに原子核の存在がある。原子核の中にもまたいろいろなものが入っている。「これはすごいことだ」ということで,大学では原子核物理をやり,そしてその研究者になりたいと思ったのです。

しかし,その先生は私が原子核物理に進みたいというと反対されました。それはなぜか。「きみ,行ってもいいけれど,卒業しても就職口はないよ」といわれたのです。それも困りますが,大学に何とか残りたいし,残れなくても何とかなるのではないかと思って,「女学校か中学校の数学の先生ぐらいなら何とか紹介できるから,そこまで思うなら行ってみろ」ということで許可が出て,原子核物理の教室に進みました。

しかし残念なことに,2回生のときに日本は太平洋戦争に敗れて,米軍がまいりまして,大学の核物理の研究室はそっくり全部破壊されてしまいました。そこで路頭に迷った結果,私の現在があるわけです。けっして自分で進んで仕事を始めたわけではございませんが,今となれば大学を破壊してくれたおかげで今の自分があると,感謝をしていいのか,悲しんでいいのか,半々というところであります。

そのように,人間の本当の面白みを引っ張りだす教育というのが絶対にほしいですね。

私は会社の社是を「おもしろおかしく」ということに決めたわけですが,これはなかなか役員会で通りませんで,私が会長になったときに「まぁ,しようがない」ということで通してもらいました。海外にも会社があるので,これをどう英語で訳したらいいのか。私は全然英語の知識がなかったために,創業以来長年アメリカの会社に勤めている人に私の気持ちを伝えました。すると彼がこれだといってくれたのが「joy and fun」です。それが私の「おもしろおかしく」に適しているかどうかはわかりませんが,彼がいうのだからということで,日本では「おもしろおかしく」,海外では「joy and fun」が私どもの社是になっております。

これはなにも吉本興業の社是ではございません。われわれの「おもしろおかしく」というのは,本当に自分の好きな仕事をとことんやって,生きがい,働きがいを感じるような人生を送ろうではないかという気持ちでこの社是をつくって,それ以来この社是を続けているわけです。

「おもしろおかしい」ということは,人から与えられるものではなくて,自ら面白いと思う,あるいは自分の嫌な仕事でも面白くもっていくということではじめて「おもしろおかしい」人生が送れるのではないかと思います。人生というのはただ一回限りであります。この人生をどう過ごすか。いろいろな過ごし方があります。実際に仕事はつらいけれども,給料をもらうための手段として仕事をしている。そして得た給料でもって本当に自分のホビーを楽しむといった生き方もありますし,それに私は反対するわけではありませんが,人生の大部分の時間を自分の仕事にかけるのだったら,やはりその仕事自体が面白いという仕事をやるべきではないかと思っております。

おもしろおかしく仕事をするというのは,ただエモーショナルなことだけではございません。これは労働心理学とか労働衛生学などでいろいろなデータが出ていますが,仕事を本当におもしろおかしくやれば,普通に上から命令された仕事の2倍とか3倍の能率があがるわけです。それだけではなく,おもしろおかしい仕事をするときには疲れが2分の1か3分の1ということになります。疲れずに能率があがるということは,働く人にとっても,その企業にとってもすべての状態においてすばらしいことです。ひいては原価も安くなるし,お客さんにも喜んでいただける。本当におもしろおかしくつくった商品というのはお客さんに必ず喜んでもらえるものができあがってくる。そういうふうに考えています。

したがって,私はおもしろおかしい人生をいかに送るかということが大切であり,そのおもしろおかしいなかに次から次へチャレンジしていこうとするベンチャーの魂,あるいはパイオニア・スピリッツ,そのエネルギーが湧き出てくると確信しています。

ただ残念なことに,日本人は平均的に自分の能力を過小評価していると私は思います。「自分というのはこんなもんやで」というところで,自分で自分のスピードリミットをつけている。ここにおられる方はほとんど車を運転されると思いますが,自分の車に乗られたらアクセルを踏みますね。下まで完全に踏み込んだ方はあまりないのではないでしょうか。いわんや,下まで踏み込んで10秒なり20秒なり連続的に走った人はおられますか。もちろんスピード違反で捕まるとか,いろいろな条件はあろうかと思いますが。そんなことよりも,高速道路は日本の場合はマキシマム100キロですから,だいたい120から130キロ出た時点で,ひとりでにアクセルを離してしまいます。本当は踏み込めば20秒から25秒ぐらいで,今の国産車であれば180から200キロ出ることは間違いありません。しかし大部分の人は100キロそこそこ,まちのなかに至っては20~30キロで走る。そして何万キロか乗ればその車は中古車,あるいはポンコツになってしまう。

私は常に思うのですが,もしその車に心があったら,こんな残念なことはないですね。「自分は本当は200から220キロ出るのに,私の主人はせいぜい100キロちょっと出して,大部分は20~30キロで走って,何万キロか走ったら,もうそれで棺桶に入れられてしまう。こんな情けない人生ってあるだろうか」,その車は心があればきっとそう思っていると思います。

しかし,車だけがかわいそうなのではなくて,もっとかわいそうなのは人間だと思います。大部分の人が自分の本当のフルアクセルを踏んだことがない。そしてだいたい自分でスピードリミットを決めてしまう。「こんなもんやな。よくやった。自分をほめてやりたい」,こういうことです。しかし,本当はその人はもっともっと力があるはずなのです。

私は本当にアクセルをいっぱい踏んだと思われる人を2~3人知っています。それは全部スポーツ選手です。オリンピックに向けてトレーニングをしている人,これは本当にすごい。私なんか考えるだけで,そんなことをしたら命がいくらあっても足りないというようなトレーニングをしている。もう一つは比叡山のお坊さんです。千日回峰行といって,千日間京都の山の周り40キロを走って回って,そして帰ってくると寝るのではなくお勤めをして,1日ににぎり飯2つぐらい,それを千日間続ける。これも人間の体力と精神力の限界に挑戦している。そんなことを思うと,われわれはアクセルを5分の1ぐらい踏んだだけで一生終わるのではないかと思います。

では,おまえはどうなのだといわれると,私もアクセルをいっぱい踏めるような人間ではございません。だいたいアクセルをいっぱい踏むような人は教養と理性がないといわれている時代ですから,私は教養がありますのであまり踏みません。しかし幸か不幸か,私は戦中には本当にいろいろな目に遭いまして,そのときに自分は踏みたくなかったけれども何度か踏まされることがありました。そのときに初めて「へぇ,自分はこんな力があるのか」と思ったことが何度かありました。

数年前,阪神大震災があったとき,おばあさんが家から長持ちかタンスかを持ち出した。幸いなことに火事も起こらず家もつぶれなかったので,消防団の人が行ってそのタンスを中に入れようとしたら1人ではもちろん担げない。2人でもなかなか大変で,結局3人かかって中へ入れたということを聞きました。おばあさんは1人でそのタンスを外まで運び出した。これは,おばあさんの極限の力は普通の若者の3人の力に相当するということです。そういうことを考えると,われわれは本当にまだまだ甘い状態にあるのではないか。

医学的にみても,普通の人が使っている脳細胞はせいぜい20%ぐらいで,あとの80%は人生が終わると焼き場に行って焼かれて,炭酸ガスと水蒸気と炭酸カルシウムになって終わってしまう。それではちょっともったいないのではないかと私は思うのですが,現実はそういうことであります。

人間というのは本当に計り知れない力があると思います。先日,ロボットの研究会が京都であり,たくさんの研究者が来ました。あとでパーティーがありましたので私も出ました。「ロボット学からみて,人間というのはいくらぐらいの値段がつけられますか」という質問をしたのですが,「そんなもの値段はつけられない」と皆さん言うのです。しかし,おかしいじゃないですか。そのときのテーマは,ロボットは重たいものを持ち上げるという時代は過ぎて,いかに人間に近づけるかということがテーマでありました。したがって,「ロボットの研究者からみて,まともな人間はいくらの値段をつけられるかと聞かれたとき,その答えが出ないというのはおかしいではないか」と挑発したのです。そうしたところ,ある研究者が「そうですね。最低1000億だな」といいました。すると次の人が「いやいや,1000億ではできない。2000億だ」とだんだん相場が上がって,最後は5000億までいったのです。人間1人ですよ。

でも,よく考えてみると,人間にはいろいろな機能があります。センサーとしての機能もあるし,内燃機関としての機能もあるし,ファインケミカル工場としての機能もある。その一つひとつを分解してそれを現在の自然科学でつくりあげていくとすると,5000億でもできないのではないでしょうか。ある化学工学の先生が,人間のいろいろな臓器でやっているいろいろな反応,抗体をつくったりいろいろな物質をつくったり,あるいは浄化したり合成したり,いろいろな作用がある。この一つひとつを現在の技術で化学工学でつくるとしたら,それに使う電力は人口10万の都市に匹敵するといいます。それだけでも何千億です。

内燃機関としてもすごいですよ。100メートルを10秒で走る。42キロを2時間余りで走る。0から重たいものを,200キロのものまで持ち上げる。これは全部内燃機関です。その燃料は何か。ハイオクタンのガソリンではないですね。米も食うし,うどんも食うし,肉も食うし,野菜も食うし,食べたもの全部をエネルギーとして体に蓄える。そしてそれをいざというとき消費する。クラッチもなければ変速機もない。0からの出発でウーンと持ち上げる。そうかというと100メートルをダッシュする。いちばんすごいのは,エンジンをフル回転させたとき体温はいくら上がるかというと,1度も上がらない。自動車の内燃機関であればシリンダーの中は1000度近い。それは全部熱エネルギーとして逃げていっているのです。人間は温度が上がらないということは,使ったエネルギーの99%は器官エネルギーに変換しているのです。こんな内燃機関をつくれといわれても,トヨタであろうがホンダであろうがフォードだろうが絶対にできない。このエンジンだけでも数千億です。それほど人間はすごいのです。

しかし,一方で非常に残念なことがあります。私がその話を聞いてしばらくして会社の入社式がありました。壇上から新入社員を見ました。「今年もあまり賢そうなやつはいないな。しかし,いちばん安物でもこれは1000億か。高い買い物だな」と思ったわけです。式がすみまして壇上から降りると,役員はみんなと握手をして「頑張ってやってください」とやるのですが,横に人事担当の役員の人がいたので,私はそのミニマム1000億の買い物に対して,「今年の初任給はいくらだ」と聞いたら,「21万円ぐらいです」というのです。1000億の機械をレンタルかリースをしたらいったい月にいくらかかりますか。この頃は不況ですから半値か八掛け二割引き,相当値切っても1000億の機械は月に最低1億か2億かかりますよ。それがなんと21万円。どうなっているのか。これは全部経営者が搾取しているのだ。こういうことです。

でも,面白い現象が起きました。みんな降りてきた。握手をした。その新入社員は私に何といったかというと,全員が「堀場製作所に入れていただいてありがとうございます」。2億円の給料をもらうべきところを21万円もらって,まだ「ありがとうございます」といっているのですから,これは話がおかしい。ということは,本当の人間の2億円の能力をわれわれは21万円しか使うことができないということです。これは社会全体がそういうことなのです。こういうことを考えていくと,21世紀というのはもっと人間が人間らしい状態で働ける社会をつくらなければならないと,私は強く考えたわけであります。

次に,四番目の問題に移りたいと思います。何は変えてはならないかということです。今やデジタル時代,イエスかノーか,オンかオフか,0か1か,すべてはデジタルということになっていますが,これは考えねばならない。決断というものはもちろんデジタルですが,人間の体,例えばセンサーはすべてアナログなのです。アナログで全部インプットされています。それをどこでAD変換するのか,どこでDA変換するのかということです。世の中すべてデジタルで,人間の思考までデジタルに完全になってしまえば,人間としての存在はなくなってしまいます。たとえ決断がデジタルで行われても,それを実行する過程に必ずアナログが入ってきます。そのアナログこそ人間性そのものであります。したがって,デジタル社会になればなるほどアナログが大変必要である。アナログこそ人間の心そのものであろうかと思います。

もう少しこの問題については詳しくお話したいのですが,時間がやってまいりました。最後に,私の本当に好きな言葉があります。それは何かというと,皆さん方にも大変関係が深いのですが,パソコンのコンセプトを考え出したアラン・ケイさん。彼はときどき京都へも来られますが,アラン・ケイさんは30年ほど前に現在のパソコンのコンセプトを発表した。そのときはみんなに「そんなものはできるか」と一笑されたわけですが,現実に20世紀末にパソコンが誕生した。一躍彼は「たいした人間である」とジャーナリスティックに大変有名になりました。

「あなたは30年先を読み取ることができる。だったら2020年,2030年はどんな社会になっていますか」と聞いたところ,彼は何といったか。京都弁でいえば「そんなもん,わかるかい。そんなもんわかってたら,こんなとこでウロウロしてへんわ」ということです。「なぜあなたは30年前に現在のパソコンのコンセプトをいったのですか」と聞くと,彼は何と答えたか。「未来というものは予想するものではないのだ。未来は自らの手でつくりあげていくものだ」,彼はそういったのです。

私はこの言葉はすばらしいと思います。未来の自分は誰につくってもらうのでもない。自分が自らつくるのだ。未来の社会はみんなでつくるのだ。未来の日本はみんなの力でつくるのだ。けっして予言をしてそれが当たったとか当たらなかったとかということではないわけです。どうか皆さん方,自分の未来というものは自ら自分の努力でつくっていただきたい。そして,「まだまだあなた方のスロットルはせいぜい20%ですよ。もう少しスロットルを踏んではいかがですか」ということを申しあげて,本日のお祝いの言葉とさせていただきます。どうもご静聴ありがとうございました。