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Accumu Vol.16

古都逍遥 白河校周辺3

米田 貞一郎

校友の皆さん,お元気ですか。

この度の「古都逍遥」は,前回に続き白河校周辺ということで,白河校正門から南へ,白川沿いに岡崎辺りを探訪することにいたしましょう。

岡崎とは

岡崎の地名は,前回散策した黒谷さんや真如堂のある神楽岡南部の丘陵地の先端という意味でしょう。東は白河校の裏を南に向かって蛇行し琵琶湖疏水に流れ込む白川に沿い,西は鴨川に向かって拡がり,南は西に流れる疏水を境界とする開かれた一帯です。

古くは葬送の地であったといいますが,桓武天皇(737~806)の平安遷都(794)に際しては都の東にあたるとして重視され,平安時代を下るに従って発展して院政の中心地ともなり貴族たちの別荘地にもなりました。やがて,いわゆる「六勝寺」はじめ数々の寺院が建立されて,文化的にも大きく浮かび上がったところです。


岡崎神社と岡崎別院

岡崎神社
岡崎神社

白川通を下って丸太町の角に立ち西方を眺めると,右手丘陵の麓に木々に囲まれひっそりとした神社があります。素盞鳴尊・櫛稲田姫命とその御子八神を祀った岡崎神社です。祭神がかの祇園祭の八坂神社の祭神と同じというのも奇縁ですが,社伝によると,平安遷都に際して王城鎮護のため都の四方に祀られた大将軍社の一つで,都の東にあるところから東天王社と呼ばれました。今,その所在地を示す地名が東天王町と呼ばれています。

当社は古くからこの地の産土神として信仰を集めましたが,中世になって安産厄除けの神として崇敬されるようになりました。境内に黒い兎の像があり,この「厄除子授兎」に水を掛けて祈るのだといいます。この地に野兎が多く,しかも兎が多産であることに因んでとのこと。面白いではありませんか。

毎年10月16日に行われる当社の氏子祭は岡崎天王祭といい,子供御輿12基,稚児行列の巡行がありますが,安産の神の祭りとして相応しいといえましょう。

岡崎別院
岡崎別院

この岡崎神社の西隣にあるのが「親鸞聖人御草庵遺跡」という碑の立っている岡崎別院です。今,阿弥陀如来を本尊に祀る東本願寺の別院ですが,もともと親鸞聖人(1173~1262)が29歳のとき,20年間学んだ比叡山から下りてきて35歳で越後に流罪になるまで住んだところであり,また63歳で帰洛した後再び篭ったという,俗称「親鸞屋敷」です。

享和元年(1801)に本願寺20世の達如が寺とし,岡崎御坊と呼ばれましたが,明治9年(1876),別院として改称されました。

本堂・庫裏・茶室は創建以来のものといい,境内西にある庭園,本堂西の親鸞聖人が越後配流の際その姿を写して名残を惜しんだという姿見池など昔を偲ぶに足るものです。


六勝寺

六勝寺全景推定図(京都会館東南角立て札)
六勝寺全景推定図(京都会館東南角立て札)

六勝寺という名の寺院は存在しません。平安後期,白河天皇(1053~1129)から近衛天皇(1139~55)に至るまでの約70年間に,天皇および中宮の御願寺として相次いでこの地に造営された6つの大寺です。寺名にいずれも「勝」の字がつけられたので六勝寺と総称されたのです。

当時期,貴族間に流行した造寺造仏の風潮に乗り,末法思想の弘通に押されて建立されたもので,初期院政時代の記念碑的性格をもつものといえます。

これから,その昔の姿を探ってみることにいたしましょう。


法勝寺

動物園内法勝寺跡表示板
動物園内法勝寺跡表示板

まず,現在の京都市立動物園およびその北部にひろがる地に建立されたという法勝寺です。白河天皇の発願で,関白藤原師実(1042~1101)からその別荘地の寄進をうけ, 承保2年(1075)造営に着手,二年の歳月をかけて承暦元年落慶供養(※1)をみました。

白河天皇といえば,のち院政の創始者となっただけに「意の如くならざるものは鴨河の水, 雙六の賽,山法師(比叡山の僧兵)の三つのみ」と称したほどに高い権力をもった方でした。その一方で,信仰生活に没頭し,高野山に詣でること四度,熊野には八度も行幸。この法勝寺は天皇の権威と信心を象徴するものだったといえましょう。

寺域は約方6町。金堂(※2)を中心に講堂(※3)・五大堂(※4)・阿弥陀堂(※5)・法華堂(※6)などが建ち並んで,その規模が,かの藤原道長(956~1027)の営んだ法成寺をもしのぐという意味で「法勝」の名がついたといわれます。金堂は毘盧舎那仏(※7)を安置して奈良仏教,五大堂は不動尊像で平安密教,阿弥陀堂は九体阿弥陀仏像で浄土教を受けついでいて,従来の諸仏教を総合した寺院であったとも考えられています。

当初の諸堂についで,永保3年(1083)には薬師堂(※8)・八角堂と同時に九重塔が完成しました。この九重塔は,永保元年から三年がかりで金堂南に拡がる池の中島に建てられ,その高さは82メートルに及ぶ壮麗な八角塔だったと推定されています。もっともこの塔は,中島に建てられたという悪条件や巨大さのゆえに技術的な障碍などがあったため,天変地異とも相まって重なる修復を余儀なくされたといいます。

お寺は承久の乱(1221)後の皇室の弱体化にともない急激に衰え,応仁の乱(1467~77)の後にその姿を消しました。現在,この地には岡崎法勝寺町という名が残っています。

因みに,このお寺の跡に建ったとされる京都市立動物園の構内には九重塔の跡があり,表示板が立っています。この動物園は明治36年(1903),大正天皇(1879~1926)の皇太子時代,そのご成婚を記念して「京都市紀念動物園」と称して創立され,日本では上野動物園につぐ国内二番目に古いもので,宮内庁から下賜された12種25点を含め61種238点の動物飼育から始まったということです。


※1 供養 ― 仏に諸物を捧げ回向すること。
※2 金堂 ― 本尊を安置する仏殿。伽藍の中心。
※3 講堂 ― 仏法を講ずる堂。
※4 五大堂 ― 五大明王(不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉)を安置した堂。
※5 阿弥陀堂 ― 阿弥陀仏を本尊として安置した堂。
※6 法華堂 ― 法華経を修したり,連続講義する堂。
※7 毘盧舎那仏 ― 万物を照らす宇宙的存在としての仏の名。密教では大日如来とも。
※8 薬師堂 ― 薬師如来を本尊として安置した仏殿。

尊勝寺

尊勝寺跡石柱(京都会館東南角)
尊勝寺跡石柱(京都会館東南角)

法勝寺の次に造営されたのが,堀河天皇(1079~1107)の御願寺・尊勝寺です。寺域は約方2町,現在の京都会館付近の地と推定されています。康和2年(1100)着工,同4年に白河上皇も臨席して落慶供養が営まれました。金堂・講堂・廻廊・中門・鐘楼はじめ薬師堂・五大堂など,その規模は法勝寺につぐものだったといいます。その後も多くの堂が営まれましたが,法勝寺と同じく鎌倉時代半ばには衰えました。現在の京都会館所在地は岡崎最勝寺町といい,尊勝寺の名は町名としては残っていません。

京都会館は,昭和33年(1958)着工,同35年にオープンした総合的文化施設で,その名称は市民からの公募によったものです。もともと大正6年(1917)に大正天皇御大典(1915)時に二条城内に新築された饗宴場の一部を移して建てた岡崎公会堂が前身で,その一部が再建されて現在の別館となっています。


最勝寺

法勝寺と尊勝寺の間の地所,現在の岡崎グラウンド付近に,両寺についで建てられたのが最勝寺です。鳥羽天皇(1103~56)の御願寺。寺域約方1町。元永元年(1118),白河上皇・鳥羽天皇を迎えて落慶供養が営まれました。金堂・五大堂・薬師堂のほか三塔が建立されましたが,これもまた承久元年(1219)に焼失して,今はその名が岡崎最勝寺町として残っているのみです。


円勝寺

美術館建物
美術館建物
 
 
 

法勝寺の西,最勝寺の南の地所,現在の京都市美術館付近に造営されたと推定されるのが円勝寺です。鳥羽天皇の中宮待賢門院璋子(1101~45)の御願寺。寺域は最勝寺とほぼ同じく方1町。大治元年(1126)の東御塔(三重塔)から始まり,翌年に中御塔(五重塔),西御塔(三重塔)が加わり,落慶供養が行われたといいます。大日如来や丈六の四仏(※9)を安置した金堂,薬師堂,五大堂があり,後に鐘楼も加えられましたが,鎌倉時代中期には衰退しました。現在,岡崎円勝寺町とその名が残っています。

跡地に建っている京都市美術館は,昭和天皇の即位の大典(1928)を記念して,寄付金によって建設,昭和8年(1933)大礼記念京都美術館の名で開館され,戦後,同27年に現在の名になりました。


※9 四仏 ― 阿?・法相・無量寿・微妙声の四方にある仏。

成勝寺

京都府立図書館
京都府立図書館

円勝寺についで,その西,現在の京都府立図書館の地所に建立されたのが成勝寺です。崇徳天皇(1119~64)の御願寺。保延5年(1139)に落慶供養が行われました。金堂・講堂・経蔵・鐘楼があり,観音堂(※10)・五大堂などが後に増築されましたが,六勝寺のうちでは規模が最も小さかったようです。

崇徳天皇といえば,保元元年(1156),上皇の時,皇位継承に不満をもち武士を集めて合戦に及び(保元の乱),敗れて讃岐の国に配流され,憤懣の日を送るうち同地に没した方。乱後の治承元年(1177),その怨霊を慰める祭りがこの寺内で執り行われたといいます。この寺もまた,その後の火災で壊れ衰えました。その名は岡崎成勝寺町として残っています。


松蔭碑
松蔭碑
ワグネル碑
ワグネル碑

跡地に建っている京都府立図書館は,早く明治5年(1872)に京都府が三条東洞院(現在の中京郵便局の位置)に設置した図書館を,いくつかの経緯を経て同33年(1900)に引継ぎ,同42年(1909)から現在地に開設したという古い歴史をもっています。ルネッサンス風の建築。敷地内には幕末の志士吉田松陰(1830~59)の詩碑,明治初期に京都産業に貢献したドイツ人化学者ワグネル(1831~92)の記念碑が建っています。


※10 観音堂 ― 慈悲救済を特色とした観世音菩薩を本尊として安置した堂。

延勝寺

延勝寺跡石柱(京都市伝統産業会館西北角)
延勝寺跡石柱(京都市伝統産業会館西北角)

六勝寺の最後が近衛天皇の御願寺・延勝寺です。寺域は南北1町,東西2町といい,現在の京都市伝統産業会館付近と推定されています。久安2年(1146)から2年半を要して同5年に落慶供養。金堂・塔・一字金輪堂(※11)などが竣工しましたが,のち長寛元年(1163)に平忠盛(1096~1153)の尽力で,近衛家の寝殿(※12)を移築して丈六の九体阿弥陀佛像を安置したといわれます。これもまた火災で焼失,再興を見ませんでした。

跡地に建っている現在の京都市伝統産業会館は,同名の財団法人が昭和51年(1976)に開館したもので,京都の伝統産業に対する民衆の理解とその後継者の育成を目的として,展示や製作実演,展示即売,研修など広範囲の活動を展開しています。所在地の名は岡崎成勝寺町となっていて,延勝寺の名は残っていません。


※11 一字金輪堂 ― 諸仏のなかの最勝最尊の仏,その中でなお優れた徳をもつ仏(大日如来)を本尊として安置した堂。
※12 寝殿 ― 寝殿造の正殿。おもでざしき。

昔と今

ウェスティン都ホテル屋上からの岡崎一帯鳥瞰図
ウェスティン都ホテル屋上からの岡崎一帯鳥瞰図

相ついで建立された六勝寺は,規模こそ大小はありましたが,伽藍配置には相通ずるところが多く,岡崎一帯の地に並んだ景観は,揃い踏みよろしく,壮観だったにちがいありません。その上,まわりに数多くの寺院のほか,上皇の御所,白河北殿・白河南殿をはじめ貴族・官人たちの住居も造営されましたから,高尚な雰囲気に包まれた小都市を形成,「京 白河」「外京」と称されるに至りました。

しかし,先に見たように,その後間もなく打ち続いた兵乱や地震・暴風・火災のために荒廃し,久しく再興の目を見ることがありませんでした。

明治維新このかた,東京遷都によって落ち込んだ京都から起ち上がろうとして,京都市民はこの地に平安神宮をはじめ近代的な諸施設を建設してきました。今や,面積約10万平方メートルの岡崎公園は,京都の芸術文化センターとして脈打っているのです。

大昔からこの地を流れ続けている白川は,この有為転変の有様をどのように見守っているのでしょうか。

この度の逍遥,この辺で終わることにいたします。

皆さん,ご機嫌よう。


【参考書】
●京都の歴史2-京都市編
●京都大辞典-淡交社
●京都-林屋辰三郎著
●京都の歴史がわかる事典-五島邦治編著
●岩波仏教辞典-中村元他編

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米田 貞一郎
Teiichirou Yoneda
  • 京都帝国大学文学部卒
  • 元京都市立堀川高等学校校長
  • 元京都市教育委員会事務局指導部長
  • 京都学園大学名誉教授
  • 京都コンピュータ学院顧問

上記の肩書・経歴等はアキューム20号発刊当時のものです。