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Accumu Vol.5

ソフトウェア教育の発展を阻害するもの

京都コンピュータ学院学院長 長谷川 靖子

前号で記述したソフトウェア教育発展を阻害する学問と技術の二元論的思考に関して,欧米に目を配って掘り下げたい。

大学の起源は12世紀ルネッサンス期に次々と台頭した私塾に始まる。これは教師と学生とのギルド的団体であり,カリキュラムと学位制度を特徴とする。この教育機関は職人階級とは別の社会的階級の中で生まれ育ち,ギリシャ以来のアカデミズムを引き継いで,やがて「専門研究と教授を目的とする大学」へと発展する。一方,親方制度の延長としての「職業技術伝授機関」は,職人階級の中で,着実に存続し発展していった。二つの異なる社会階級から生まれた二つの教育機関は,それぞれ異なる階級の中で独自に育ち,相容れることがなかったというヨーロッパの歴史的社会事情は,ある観点においてはかなり深刻である。職業技術と,真理探究を目的とする学問とを二元論的にとらえる固定観念は,階級社会における社会構造に根をもっているわけだから一朝一夕にはクリアできない。従ってコンピュータ技術のように学問と技術が一体化している場合,どちらの側からもスムーズに受け入れられず,このことが,ヨーロッパ諸国において,コンピュータ技術教育が著しく立ち遅れてしまう要因となった(昨年,英国文部大臣が本学院視察の際,この問題点に大変関心を示された)。

一方,アメリカに目を転じると,アメリカにはデューイのプラグマティズムが生きている。この哲学思想は机上の思弁の中から生まれたのでなく,建国時の開拓精神,生活闘争,民主思想にルーツをもち,むしろそれの集大成であるといえる。プラグマティズムはアカデミズムと対立し,真理のための真理探究を否定し,知識はすべて現実生活のための手段,道具であり,行動を通して実際的な効果を実生活の中に実らせるものでなければならないと主張する。アメリカ民主主義の下では二つの社会階級は存在せず,従って学問と技術の二元論も当然否定された。こういうプラグマティズムの土壌の上で,実生活に直接結びつくコンピュータの研究,技術教育は爆発的に歓迎され,学問・技術を一体として扱うコンピュータ技術教育は,何の抵抗もなく受け入れられ見事な成果をあげるに至った。世界で群を抜くソフトウェアの開発技術も,この土壌が育てたものであろう。

ところでわが日本は,明治以来,「大学」の思想をヨーロッパアカデミズムに基づいて輸入し,大学を創設した。ヨーロッパの伝統に従って「学問」と「技術」を対立概念としてとらえ,「真理探究,学問教授の場としての大学」と「職業技術訓練の学校」という二つのカテゴリーを相対立するものとして教育界に定着させてきた。太平洋戦争後,大学=アカデミズムという既成概念の下で,次々と大学が誕生し,そして,今日(内外知識人から指摘されるように)似非アカデミズムの氾濫である。大半の大学において,アカデミズムは本来の意義を失い,社会に役立つ人材を送り出す教育責任のアリバイとして用いられる現状は周知のとおりである。日本には,ヨーロッパのように,職人階級,非職人階級という二つの社会階級は存在していなかったのであるから,「学問」と「技術」の対立概念,二つのカテゴリーへの教育機関の分離などは輸入する必要性はなかったのであるが,明治における西欧文明の輸入吸収にあまりに性急であったためであろうか,大学制度の輸入と共にそれに附随してこの二元論的思考も輸入され,人々の固定観念となった。元来,日本には江戸時代から実学の伝統があり,この伝統をふまえて,大学の思想をアカデミズム一色でなく,多様性をもって発展させてしかるべきであったのである。

この実学を発展させれば,それは学問と応用技術の統一の場であり,まさにソフトウェア教育の土壌となり得たであろう。

日本のソフトウェア技術が,アメリカにどうしても追いつけないという原因の一つは,この辺りにあると思う。

今回のわが国の例にみられるように,当初問題視されなかった概念や観念が時と共に,社会に蔓延し,人々の固定観念となって,それが社会システムの発展を阻害する要因となることは,多々みられる現象である。ちょうど小さなカビが次第に増殖し,やがて本質を侵食していくのに似ている。

歴史の節目,節目,すなわち大きく歴史,社会が変容する時期には,意識の根底にひそむカビの洗い流しこそが必要であり,そして,それが新しい歴史をつくる変革のアイディアを生むのではなかろうか。

秀潤社刊 コンピュータ科学 Vol.2 No.6 1992より転載

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長谷川 靖子
Yasuko Hasegawa
  • 京都大学理学部宇宙物理学科卒業(女性第1号)
  • 京都大学大学院理学研究科博士課程所定単位修得
  • 宇宙物理学研究におけるコンピュータ利用の第一人者
  • 東京大学大型計算機センター設立時に,テストランに参加
  • 東京大学大型計算機センタープログラム指導員
  • 京都大学工学部計算機センタープログラム指導員
  • 京都ソフトウェア研究会会長
  • 京都学園大学助教授
  • 米国ペンシルバニア州立大学客員科学者
  • タイ・ガーナ・スリランカ・ペルー各国教育省より表彰
  • 2006年,財団法人日本ITU協会より国際協力特別賞受賞
  • 2011年 一般社団法人情報処理学会より感謝状受領。
  • 京都コンピュータ学院学院長

上記の肩書・経歴等はアキューム22-23号発刊当時のものです。