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Accumu Vol.28

科学教育における真と偽

京都情報大学院大学教授
藤原隆男

1.はじめに

学校で教えられる内容はもちろん正しいに越したことはないが学問の進歩によって教えられていたことがのちに間違いであることがわかったり昔はなかった新しい用語や概念が現れたりすることがよくあるたとえば私の専門である天文学の分野では数十年前には宇宙に始まりがあったという話はまだ学校では教えられていなかったが今ではビッグバンがふつうに出てくるしまだ正体のわからないダークマターやダークエネルギーも平気で出てくる現場の先生方はほんとうに理解して教えているのかとちょっと心配になる

生物関係ではたとえば舌の味覚地図が出てきて舌の場所によって感じやすい味と感じにくい味があると習ったものだが個々の味蕾(みらい)がすべての味を感じることがわかって味覚地図は教科書から消えてしまったさらに第5の味覚である「旨み」の存在がわかり最近では第6の味覚(カルシウム味)があるかもしれないという生物の分類もすっかり変わってしまった昔の教科書では生物には動物界と植物界と原生生物界ぐらいしかなかったが今では何十もの界に分けられそれらの界が上位の3つのドメインに分類されている

誰かの誤解が拡散してしまった例もあるたとえばブラウン運動は生物学者のブラウンが発見した花粉が破れて出てきた微粒子が水の分子に衝突されることで起こる運動のことでその運動の理論を確立したのがかのアインシュタインだブラウン運動の理論は誰も見たことがない分子が実在することの証拠となったので物理の授業でよく紹介されるところがブラウンの話を誤解して花粉そのものが水分子の衝突で細かく動くと解説した著名な物理学者(たとえば長岡半太郎)がいてそのあと数十年にわたって花粉がブラウン運動をするという話があちらこちらの専門書で紹介されたというさすがに花粉そのものはブラウン運動を見るには大きすぎるが花粉になじみのない物理学者にとっては誤解と気付くのがむずかしかったのだろうこのようにいったん誤解が広がってしまうとその解消には長い時間がかかることが多い

ところで地球科学の分野に大部分の専門家が誤解をしたままでまだ一度も学校で正しく教えられたことがないと思われる話がある潮汐(ちょうせき)力の原因だおそらくみなさんは学校で月と反対側でも満ち潮になるのは遠心力のためだとか潮汐力は月の引力と地球の公転運動による遠心力との合力だと習ったと思われるがじつは「遠心力」で説明するのは間違いだなぜなら遠心力と呼んでいるのはじつは並進慣性力という別の力なのだ私と同じ天文の松田卓也氏が10年以上も前から間違いを指摘していて「間違いだらけの物理学」[1] という本にも書いてあるが教科書やネット上の解説ではあいかわらず「遠心力」が使われているいつまでも放置できないので私も2021年から個人のウェブサイト [2] に解説記事を載せて改善を訴えているこの小文でもどこが間違っているのか簡単に説明して科学教育の難しさと誤解の解消について考えてみたいと思う

2.そもそも潮汐力とは

潮の満ち引きの原因については昔から科学者は悩んでいたようだガリレオガリレイは地球の自転によって海が振り回されているためだと考えたが1日に2回満潮があることが説明できなかったその後ニュートンの時代になると潮汐が説明できるようになった潮汐力はそれくらい古い300年以上も前に解決した問題だその潮汐力について興味深い説明を紹介しよう私が大学院生のころある席で初対面の人がした話だ私が天文の勉強をしていると知ってその人は「さいきん潮汐力がわかった」と嬉しそうに話し出した曰く「もし月に近い側の海だけが引っ張られるとしたら陸もいっしょに引っ張られて地球がどんどん月に近づいてしまうだろうそうならないということは反対側でも海と陸が何かの力で引っ張られていて真ん中でつり合っているということだ」私はその人の安定性の議論から結論を導く科学的センスに感心したじっさい潮汐力は月の重力が地球上の場所によって異なるためつり合わずに残った力のことだたとえば天文学会の天文学辞典では「天体の各部分に働く重力と天体の重心に働く重力との差のことを潮汐力と呼ぶ」と明快に説明されている

潮汐力の対象は天体でなくてもかまわないたとえば地球の重力に引かれて自由落下するエレベータにも潮汐力は働くこれは重力の大きさや向きが場所によって異なるためだエレベータの各点に働く重力は地球に近い側では強く遠い側では弱いまたエレベータの側面では重力が少し斜め向きになるそこで重心に働く重力との差をとると図1の青い矢印のように地球の方向にはエレベータを引き伸ばそうとする力がそれと垂直な方向にはエレベータを押す力が残るこれが潮汐力だ

潮汐力図1 自由落下するエレベータの内部に現れる力重心では重力と慣性力が打ち消し合うがそれ以外の場所では潮汐力が残る

ではなぜ重心に働く重力との差をとるのかこれには「慣性力」を思い出す必要がある物体には運動状態を維持しようとする性質=慣性があるこの慣性のため加速度運動をするものに乗ると見かけの力が現れるこれが「慣性力」だたとえばバスが急停車すると乗客は慣性があるのでそのまま前へ進み続けようとするこれをバスの中で見ると前向きの力が現れて乗客が前へ引っ張られるように見えるこのように慣性力は慣性系(静止系または等速直線運動をする座標系)では見えず加速度系に乗ったときだけ現れる見かけの力だ上下運動のときも同様でたとえばエレベータが降下を始めると上向きの慣性力が現れて一瞬からだが軽くなるとくに重力に身を任せて自由落下すると重心での重力と同じ大きさで逆向きの一様な慣性力がエレベータ全体に現れ重心では無重力になるこのように重力で運動するものにとっては重力とは逆向きの慣性力を加えることつまり重心に働く重力との差をとることが内部で見える力を求めるためには自然なことなのだこのときわずかに残った力が潮汐力だ

じつは重力に身を任せて運動すると重力が消えることに目を付けたのがアインシュタインだアインシュタインは重力を消すことができるのは重力と慣性力の根源が同じであるためだと考え一般相対性理論を作ったまた重力に身を任せた空間を局所慣性系と呼んだ重力が消えた空間は慣性系と同じというわけだ局所という語を付けたのは無重力にできるのが重心だけでその周辺には潮汐力が残ってしまうからだこのように重力が完全には消せないのはもちろん重力の大きさが場所によって異なるためだ

3.非回転系で見た潮汐力

自由落下するエレベータを月に向かって「落下」する地球で置き換えたのが図2だ地球に乗って見ると月に向かう加速度運動のため地球全体に一様な慣性力が働く慣性力の大きさは地球の中心での月による重力と等しく向きは重力と逆だ時計回りに90°回せば図1と同じになる月と反対側でも上向きの潮汐力が現れるのは慣性力が重力を上回るためだ

非回転系で見た潮汐力図2 地球の中心では月による重力(水色)と慣性力(ピンク)が打ち消し合うがそれ以外の場所では潮汐力 (青) が残る

エレベータとの違いは地球と月が互いにぶつからないように互いに横によける運動いわゆる公転をしていることだ質量の比から計算すると地球と月の共通重心は地球の内部にあり地球と月はこの共通重心のまわりを公転していることになる地球の公転運動を入れて描き直したのが図3だよけいな力が現れないよう地球の自転を止めて考えているので地球が並進運動をしている(回転していない)ことに注意してほしい地球の運動方向がしだいに月の方へ曲がるのはもちろん月による重力のためだこのように図2と比べて横へよけながら落ちているという違いはあるが地球が月に向かって加速度運動することによって地球から見ると一様な慣性力が現れることに変わりはないこの一様な慣性力を並進加速度運動に伴って現れる慣性力という意味で並進慣性力ということがある

共通重心 G のまわりの地球の運動図3 共通重心 G のまわりの地球の運動地球の並進加速度運動のため地球から見ると地球全体に一様な慣性力が働く

4.「遠心力」は間違い

ところで学校では潮汐力を「月による重力と地球の公転によって生じる遠心力の合力」として説明するそこで正直に月の重力と遠心力の合力を計算すると潮汐力の何十倍もの力が出てくる「遠心力」という言葉を使うことは公転とともに約27日の周期で回転する地球に乗ることを意味しておりその回転の効果で地球中心の遠心力が潮汐力にプラスされてしまうのだつまり説明の通りに計算すると潮汐力が出てこないなぜこんな間違った説明をするのだろう

そこで地学の教科書をよく見ると図2と同じ図がちゃんと出ているただし図の説明が慣性力ではなく遠心力となってるさらに説明をよく読むとこの遠心力は大きさと向きが等しいと書いてあるこれで教科書が何をどう間違えているかがわかる教科書は内容的には潮汐力を正しく説明しているが慣性力(並進慣性力)を間違って「遠心力」と呼んでいるのだ物理では回転系に乗ったときに現れる大きさが回転軸からの距離に比例する放射状の力を遠心力というところが教科書のいう「遠心力」は回転系で見ているのでもなければ放射状の力でもないこれを「遠心力」と呼んではいけない

なぜ並進慣性力を遠心力と呼んでしまうのか潮汐力の解説文を読むと剛体の運動を理解していないのが原因であることがわかってくる高校では質点の円運動を通じて遠心力の概念を習うところで点には向きがないので質点の円運動を考えるときはふつう回転系に乗るつまり質点では円運動と回転運動を区別しなくてもよいのだしかし大きさのある物体すなわち剛体の運動を考えるときは向きを変えないで移動する並進運動と向きを変える回転運動を区別しなければならない(図4図5参照)たとえば図3の地球の運動は円運動すなわち円に沿った並進運動であるこのような運動に乗ると並進慣性力が現れる(図4)その向きは円運動に伴って変わるが力の形は平行なままだいっぽう回転運動では回転系に乗ると放射状の遠心力が現れる(図5)円運動と回転運動では剛体に乗ったときに現れる力の形が全く違うのだところが円運動を回転運動と勘違いすると並進慣性力を遠心力と混同してしまうその結果「大きさと向きが等しい遠心力」(いわば平行な放射状の力)という意味不明の表現が生まれたのだろう用語の誤用なので教科書の間違いを正すのは簡単だ「遠心力」を「慣性力」または「並進慣性力」に改めるだけでよい

円運動に沿った並進運動をする剛体
並進慣性力
図4 円運動つまり円に沿った並進運動をする剛体(左)に乗ったときに現れる並進慣性力(右)力の向きは円運動に伴ってグルグル変わるこの平行な力を遠心力と呼んではいけない
回転運動する座標系
遠心力
図5 回転運動する座標系(左)に乗ったときに現れる遠心力(右)

5.誤解の起源と解消

ところでいつごろから「大きさと向きが等しい遠心力」という誤った説明が使われるようになったのだろう過去の学会誌や書籍を調べていくうちに1898年にジョージダーウィン(チャールズダーウィンの次男)が書いた潮汐理論の一般向け解説書 [3] にたどり着いたダーウィンは潮汐理論の大家で潮汐作用で地球の自転が遅くなり月が遠ざかることを理論的に明らかにした人だその大家が一般向けに潮汐力をわかりやすく説明するために考えたのが図3のような自転を止めて共通重心のまわりを並進円運動する地球だそのとき一般の人に並進慣性力を説明するために使ったのが「大きさが等しくて平行な遠心力」という表現だもちろん平行な力を遠心力と呼ぶのは間違いだが誤用を承知で慣性力(見かけの力)全般の意味で「遠心力」と呼んだのではないだろうかたしかに「遠心力」は誰でも知っているが「慣性力」だと一から説明しないといけないダーウィンが誤用を承知していたと思われるのはダーウィンが同じ時期にブリタニカに書いた専門家向けの解説文では一貫して潮汐力を地球の中心での重力との差と書いていて「遠心力」という語をいっさい使っていないからだところがダーウィンの一般向けの説明がわかりやすかったために専門家たちが誤用に気付かずダーウィン流の説明を世界中に広めてしまったのではないだろうかちなみにダーウィンの本は120年経ったいまでも重版が続いている

日本での潮汐力の教え方を調べてみるとかつては地球の中心での重力との差として教えていたようだが月と反対の側も満潮になることがうまく説明できなくて現場の先生方は苦労していたというそして1960年代に教科書にダーウィン流の説明が取り入れられて日本でも「大きさと向きが等しい遠心力」が広がったようだそんな事情があって遠心力の誤用がいまも続いているわけだ

私がウェブサイトを作るに当たってネットで調べたところ日本で「遠心力」が間違いであることを指摘している人は松田氏を入れて3人ほど [4][5]海外でも数人しか見つけることができなかったまた日本の官公庁も専門家もすべて「遠心力」で「慣性力」派は完敗状態であったそのためウェブサイトを立ち上げたあともひょっとして間違っているのは自分の方ではないかと心配だったしかしアメリカのサイトを調べているうちにNOAA(アメリカ海洋大気庁)[6] がすでに潮汐力の説明に「慣性力」を使っているのを知ってほっとしたしだいだ

ウェブサイトを作ってからちょっとした変化もあった私と同じような疑問をもった某予備校の物理の先生が2021年の秋に気象庁に間違いを指摘するメールを送ったことをネットで知ったのだ私のサイトを引用していたので読んでくれたのだろうその後年末には気象庁の潮汐力の説明 [7] が「遠心力」から「慣性力」に改められた私のサイトが少しでもこの改訂のきっかけになったとしたら幸いだようやく日本も動き出したのかもしれない過去の例では科学の誤解が解消されるのには何十年もかかっているしかしネットワークがある今は状況がちがう誤解が解消するスピードはもっと速いのではないだろうか私の願いは教科書の「遠心力」が「慣性力」に改まることだみなさんの知り合いに教育関係の人がおられたら「遠心力」は間違いだ気象庁の解説を見ろとぜひ伝えていただきたい

参考資料
この著者の他の記事を読む
藤原 隆男
Takao Fujiwara
  • 京都情報大学院大学 教授
  • 京都大学理学士同大学院博士課程修了(宇宙物理学専攻)理学博士
  • 京都市立芸術大学名誉教授元京都市立芸術大学美術学部教授同学部長
  • 元京都コンピュータ学院非常勤講師

上記の肩書経歴等はアキューム28号発刊当時のものです