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Accumu Vol.28

日本のコンピュータ発展の歴史をひもとく

「デジタルの日」講演会 2021年10月10日

発田 弘

はじめに

私は情報処理学会の各種委員,理事,幹事等を経て1999年から2年間副会長をやらせていただきました。2003年から歴史特別委員会の委員になり,2006年より委員長として活動を続けております。歴史特別委員会は,日本のコンピュータの歴史を記録しそれを次世代に継承していこうという趣旨で活動しております。成果としては,日本のコンピュータの歴史について黎明期から1960年まで,1960年から1980年まで,そして1980年から2000年までの3冊の本にまとめて発行しました。

仕事面では,現在は退職していますが,現役の時はNECでコンピュータ技術者として仕事をし,その後,沖電気のお世話になりました。

私が第一線で働いていたのは1960年代から1980年代で日本のコンピュータが急速に発展した時期です。仕事は大変でしたがやりがいのある日々を過ごしました。

今日は自分がよく知っているこの頃の歴史を中心にお話をさせていただきたいと思います。

デジタルの日は「振り返り体験し見直す機会」だそうですので,この折にコンピュータの歴史を振り返ってみるのも良いかなと思います。わが国におけるコンピュータの発展は1950年代から始まり約40年の歴史があります。そこには日本が世界に誇る成果もたくさんあり,先輩たちがどんな苦労をし,どう工夫して今日の基礎を築いてきたかということがよく分かりますので,その歴史を振り返るのは有意義だと考えます。

日本のコンピュータ発展の歴史の記録のひとつに情報処理学会のホームページにコンピュータ博物館があります。ここにはコンピュータ関係の写真,記事など約2000点が収録されておりアクセス数は月に10万件に達していますが,残念ながら写真と記録だけのバーチャルな博物館で実物はありません。ほとんどの実物は捨てられてしまって,かろうじて残っている物も日に日に捨てられているのが実情です。

コンピュータの実博物館に貴重な史料を保存するのが理想ですが,我々もいろいろ努力はしていますが,コンピュータに特化した博物館の実現は難しい状況にあります。

欧米は自分たちの技術成果を保存し展示することに熱心でアメリカ,イギリス,ドイツ等には立派なコンピュータ博物館があります。例えば米国のシリコンバレーには立派なコンピュータ歴史博物館があります。私も見学したことがありますがコンピュータ発展の歴史をパソコンからスーパーコンピュータに至るまで,系統的に展示しているだけではなくて,子供たちのコンピュータの教育の場としてうまく使っています。中には日本の古いコンピュータまで展示されおり将来,日本には無くてアメリカへ行かないと見られない時代になるのではないかと危機感を持ったわけです。

コンピュータの黎明期に商用コンピュータを開発してビジネス化できたのは欧米と日本だけでその輝かしい歴史をぜひ次の世代につなげていきたいという思いで情報処理学会としてできる事がないか検討しました。コンピュータの実博物館ができる見通しがない中で考えた企画が情報処理技術遺産の認定と分散コンピュータ博物館の認定という制度でした。これによって貴重な史料の保存に努力している方々に敬意を表するとともに史料保存への世の中全体の関心を高めたいと考えました。

情報処理技術遺産は2008年度に認定を開始し今までに108件を認定しております。重要な技術革新あるいは社会文化活動に重大な影響をもたらしたようなコンピュータとその関連資料を認定の対象にしており情報処理学会のホームページにその詳細が掲載されています。

日本各地には規模は小さいけれども非常に重要な史料を保存・展示している展示室あるいは小さな博物館があります。その中から特にコンピュータに特化している10施設を選んでこれを分散コンピュータ博物館として認定させていただいています。

これもホームページを見ていただきますと分かりますが東京農工大の西村コンピュータコレクション,京都コンピュータ学院のKCG資料館,東北大学のサイバーサイエンスセンター展示室,北陸先端科学技術大学のJAIST記号処理計算機コレクション,NTTの技術資料館,計算科学振興財団のスーパーコンピュータの展示コーナー,神戸大学の経営機械化展示室,情報・システム研究機構 統計数理研究所の計算機展示室,日立大みか制御史料室などです。

京都コンピュータ学院の KCG資料館はこれらの分散コンピュータ博物館の中でも一番規模が大きくて史料も多数保存・展示されています。

京都コンピュータ学院KCG資料館京都コンピュータ学院KCG資料館

ここには京都コンピュータ学院が1963年の創立以来,教育実習研究で使ってこられた過去のコンピュータを保存・展示しており情報処理技術遺産に認定された史料も沢山ありコンピュータの歴史を実感することができます。本日はKCG資料館に保存されている貴重な史料を中心に歴史上ぜひ触れておきたいようなコンピュータを取り上げ,主に黎明期から発展期の日本のコンピュータの歴史をお話しさせていただきます。

本日の聴講者の中で特に若い方々はこの後,話に出てくる例えばコンピュータの回路素子のリレーだとか真空管だとかトランジスタなどを見たことも無いのではないかと思います。しかしながらこれらの素子の説明までしている時間がありませんので,関心がおありの方は,ネット等にいろいろ情報がありますので後ほど調べていただければと思います。

初期のコンピュータではメモリも実現の難しいものでした。現在は半導体メモリやハードディスクで大容量が記憶できますがそれらがない時代には非常に苦労して情報を記録させようとしました。例えば初期には遅延線が使われました。超音波とか電気パルスを入力してそれが遅延して出力側から出てくると,それをまた入力に戻してぐるぐる回しながら情報を記憶させるものです。その後の高性能のコンピュータでは磁気コアが使われました。これはリング状の磁気コアをマトリックス状に編み,各リングの磁化の方向で0か1かを記録します。そんな作りですから大容量メモリを作るのは大変なことでした。

記録媒体も現在はUSBメモリなどで簡単に大容量の情報を持ち運べますが昔はそんなものはありませんので,例えば紙テープに穴をあけて,穴があったら1なかったら0と規則を決めて情報を書き込んだり,テープではなくカードにした紙カードなどが媒体として使われました。

これを読み取る機器が紙テープ(あるいはカード)リーダで出力するのが紙テープ(あるいはカード)パンチです。

このように昔のコンピュータで使っている素子,メモリ,媒体は現在とは全く違いますがそれについてはまた別の機会にご紹介したいと思います。

黎明期のコンピュータ

それではコンピュータの話に入らせていただきます。

世界最初のコンピュータについては諸説がありますがENIACという1946年にアメリカのペンシルバニア大学で開発されたコンピュータと言われています。これは真空管18,000本を使い,消費電力は150kwと発電所が必要なくらいだったそうです。弾道計算を主として開発されたもので演算能力は毎秒5,000回でした。日本でもそれを参考にして真空管コンピュータの研究開発が始まりました。大阪大学,富士写真フイルム,東京大学,電気試験所などです。大阪大学では城先生が第2次世界大戦中から計算機械の研究をやっておられ,ENIACの話を聞いて直ちに研究を始められました。牧之内先生や安井先生などと一緒に1950年に真空管を用いたコンピュータを試作し,続いて大型計算機の開発に着手されました。

この大阪大学の真空管計算機は情報技術遺産にもなっています。

大阪大学真空管計算機(大阪大学総合学術博物館所蔵)大阪大学真空管計算機(大阪大学総合学術博物館所蔵)

真空管1,500本,ダイオード4,000本を使いクロック周波数は1MHzで加減算性能は40msでした。記憶素子には当時の電気試験所,今の産業技術総合研究所の前身ですが,で開発された記憶容量が32ワードのガラスを使った遅延素子を使いました。それを32本持ってきて1,000ワードのメモリを作ったというような装置です。日本で最初のコンピュータ開発プロジェクトですが,残念ながら大阪大学ではその後商用のコンピュータの導入が決まり,この開発プロジェクトは中止になりました。しかしながら日本で最初のコンピュータ開発プロジェクトとして,ここで得られたいろいろな経験・知見が後の日本のコンピュータの発展に大いに貢献しました。

FUJIC(出典:情報処理技術遺産)FUJIC(出典:情報処理技術遺産)

次は富士写真フイルム(現在の富士フイルム)の岡崎文次さんによって約7年の歳月をかけて開発されたFUJICという真空管コンピュータです。

これはレンズ設計のために作られたコンピュータで論理回路のクロックは30KHz,消費電力は7Kw,加減算は0.1msつまり1秒間に1万回位の演算ができました。2極真空管約500本,3極管1,200本が使われています。当時はレンズを開発するための計算は多数の女性が二人一組で対数表を片手に手廻式の機械式計算機でやっており,FUJICの導入で計算速度が2,000倍になったと言われています。非常に大きな効果があったわけで,2年間にわたって富士フイルムではレンズの設計にこれが使われました。その後,早稲田大学に移管され,現在は国立科学博物館に所蔵・展示されています。日本の真空管コンピュータを語る上では欠かせないコンピュータで情報処理技術遺産にも認定されております。

真空管のコンピュータは海外で盛んに開発されましたが,1954年に東大の後藤先生がパラメトロンという素子を発明され,これが安価で安定的な論理回路を構成できたので日本ではパラメトロンを使ってたくさんのコンピュータが開発されました。真空管は寿命が短いし,その頃実用化が始まったトランジスタはまだ値段が高くて安定性も低かったのでパラメトロンに期待が集まりました。

東北大学とNECは共同でパラメトロン1万個を使ってSENAC-1というコンピュータを開発し1958年に完成しました。それ以外に,東大のPC-1,電電公社(現在のNTT)の研究所で作られたMUSASINO-1,MUSASINO-1B,日立製作所(以下日立)のHIPAC,HIPAC MK-1,富士通のFACOM201などのパラメトロンコンピュータが開発されました。

パラメトロンは信頼性は非常に良かったのですが,トランジスタに比べると消費電力とスピードの点で劣っておりトランジスタの信頼度が向上し値段も安くなってくるとトランジスタへの移行が進み1960年代の前半でパラメトロンコンピュータの開発は終わりました。日本のオリジナル技術ですが残念ながら世界に普及することなく過去の技術になってしまいました。

パラメトロンコンピュータと並行して電気試験所,カシオ計算機,富士通等でリレー式のコンピュータが開発されています。中でも貴重なのは富士通が開発したFACOM128Bで1959年に製造されたものが富士通・沼津工場の池田記念館に保存されており情報処理技術遺産になっています。

FACOM128B
リレーユニット
FACOM128Bとリレーユニット(出典:情報処理技術遺産)

これは5,000個のリレーを使い13,000個のリレーをクロスバースイッチでつないだメモリを持ち大きな部屋いっぱいを占めるようなコンピュータです。これの非常に貴重なところは現在でも動くということです。情報処理技術遺産に認定されているコンピュータのほとんどが形は残っていても動きません。ところがこのFACOM128Bは,富士通の技術者の方が非常な苦労をして動かしておられます。部品が壊れて同じ部品が無いときは自作するそうです。私も見学したことがありますが,何千,何万個というリレーが一斉に動いてすごい音を出しながら計算をするのはまさに壮観です。皆様も機会があればぜひご覧になられたら良いと思います。FACOM128Bは自己検査機能を持っていてトラブルが起きると1ステップ前に戻ってリトライします。今では当たり前の機能ですが,当時としては極めて先進的でした。国産旅客機YS11の開発や各社のカメラ・レンズの設計に使われるなど活躍しました。

トランジスタコンピュータ

我が国最初のトランジスタコンピュータは1954年に創設された電気試験所で開発されたETL MarkⅢです。これは1956年7月にプログラムが動いてトランジスタコンピュータとしては日本で最初のコンピュータになりました。世界では3番目でプログラム記憶方式のトランジスタコンピュータとしては世界最初といわれています。トランジスタコンピュータの開発では日本はかなり世界をリードしていたと言えると思います。大学でもトランジスタコンピュータの開発が進められて例えば慶応大学ではトランジスタコンピュータK-1が開発されました。これは1950年に慶応大学の創立100年の記念事業で開発されたもので,1959年に稼働してその後長く慶応大学の計算センターとして使われたと聞いています。

京都大学は日立と協力してトランジスタコンピュータを開発しました。1958年に開発しその後長く京都大学で計算センターに使われました。同じコンピュータを日立はHITAC-102-Bとして商品化しました。残念ながら本体は残っていなくて論理パッケージだけが保存されています。

電気試験所の指導を受けて各社でも商用のトランジスタコンピュータの開発が進められ,NECはNEAC-2201を1958年に完成しました。これを1959年にパリで開催された国際展示会に出展しトランジスタコンピュータとしては世界で初めて公式な実演を行いました。各国からトランジスタコンピュータが出展されたようですが,実際に動いてデモをやれたのはNEAC-2201だけだったと報告されており,日本のトランジスタコンピュータの技術がこの頃は世界をリードしていたということが分かる事例だと思います。残念ながら実物は残っておりません。

NECはこれに続いて商用コンピュータの開発を進め,1962年にNEAC-2206という大型コンピュータを開発しました。これは多重プログラミングやリアルタイム処理の機能が充実しており,コアメモリを使って高速演算ができました。大阪大学の計算センターに1963年から使用され2009年に京都コンピュータ学院に寄贈されました。現在はKCG資料館に展示されております。動かないけれども内部を見ることができて当時の技術を知るには重要な遺産です。

NEAC-2206(京都コンピュータ学院KCG資料館所蔵)NEAC-2206(京都コンピュータ学院KCG資料館所蔵)

日立は1960年からHITAC-5020を開発し,1965年に1号機を京都大学に納入しました。また,沖電気はOKITAC-5090を1961年に開発して,専修大学にも納めており専修大学ではそれを保存・展示しています。富士通はFACOM222や小型のFACOM231などを開発しましたし,三菱電機は演算高速化装置を持ったMELCOM 1101を開発しています。

HITAC-5020は当時としては素晴らしいコンピュータでした。扉を開けると配線の様子が分かりますが,膨大な数のワイヤーを配線しており配線が配線の上に重なって座布団のようになっています。日本のものづくりのすごさを目で見て実感できます。

日本のトランジスタコンピュータ開発史の中で重要な物のひとつがTOSBAC-3400です。

TOSBAC-3400(京都コンピュータ学院KCG資料館所蔵)TOSBAC-3400(京都コンピュータ学院KCG資料館所蔵)

これは京都大学と東芝が共同開発したKT-Pilotという日本で初めてマイクロプログラム制御を使用したコンピュータの技術を利用して1972年に東芝が開発した科学計算用のコンピュータです。マイクロプログラム方式は日本ではまだ珍しかったのですが,それによりアーキテクチャの微調整ができるとか経済的にいろいろな機能が実現できるなど多くのメリットを実現しました。これは京都コンピュータ学院に1972年に導入され,その時のシステムがそのまま保存・展示されています。紙テープリーダ,カードリーダ,磁気テープ装置などシステムとして残っており,当時のコンピュータ技術を知る上で貴重な遺産です。

第3世代コンピュータ “メインフレーム”

コンピュータは真空管やリレーを使った時代を第1世代,トランジスタを使った時代を第2世代,集積回路を使った時代を第3世代と呼んでいます。第3世代は1964年にIBM社が発表したSystem /360から始まったといわれています。System /360は斬新な考えのコンピュータで我々技術者も大きなインパクトを受けました。混成集積回路という小型化した回路を使い,またマイクロプログラム方式の採用で小型モデルから大型モデルまでアーキテクチャを統一して同じソフトウェアが使えるようにしました。今では当たり前のことですが,当時はモデルごとにソフトウェアが違っていて他のモデルのソフトウェアを別のモデルで使うことはできませんでした。IBM System/ 360は小型から大型まで同じ命令セットにしてモデルを変えても前のソフトウェアをそのまま使えるようにした画期的なものでした。事務用,科学用という分類をしないで一つのコンピュータを両方に使える汎用のコンピュータにしたことも画期的でした。これにより大型の汎用コンピュータは“メインフレーム”コンピュータと呼ばれるようになりました。System/ 360のアーキテクチャは美しい設計で私は暗記するくらい勉強しました。一番驚いたのはアドレス指定でした。当時のメモリーは何百KBとかせいぜい1MB程度の容量しかなかったのですが,System /360では16MBまでアドレス指定できるように設計されていました。つまり24ビットのアドレスでした。16MBというのは当時の我々から考えると夢のような容量でそのようなものができるとは考えられませんでした。ところが,その後の技術進歩でとてもそんなものでは足りないという時代になりました。先を見越したアーキテクチャの設計がいかに重要かを実感した次第です。

京都コンピュータ学院ではSystem /360のモデル40を導入されて,それがKCG資料館に保存・展示されています。

IBM system /360 モデル40(京都コンピュータ学院KCG資料館所蔵)IBM system /360 モデル40(京都コンピュータ学院KCG資料館所蔵)

System /360で使われた混成集積回路にはセラミック基板が使われていますがその開発に京セラが協力しています。京セラの力が無ければ実現ができなかっただろうと思います。このような解説がKCG資料館で紹介されていたので興味深く読ませていただいたことがあります。

System/360のような画期的なコンピュータが出たので大変だということで日本でも通産省の助成金で富士通,沖,NECが協力してFONTACという大型コンピュータを共同開発しました。これはそのまま商用機にはなっていませんがその開発成果はその後の各社のコンピュータに活かされています。一方,各社はアメリカの進んでいる会社と技術提携を進めました。NECはハネウェル,日立はRCA,東芝はGE,三菱電機はTRW社およびSDS社と提携しました。富士通は提携の道を進まないでFONTACの成果を利用しながら独自路線を進みました。沖電気工業はスぺリーランドとの合弁会社沖ユニバックを作りユニバックの計算機を国産化しそれとは別にOKIMINITACシリーズを独自開発するなど各社いろいろな方策をとってIBMに対抗しました。

各社では提携先のコンピュータを国産化することが中心になりましたが,その中でも自社技術を活かして提携先の会社が持っていない上位や下位のモデルを自力で開発するなどの努力をしました。例えばNECはNEACシリーズ2200 モデル500,これは提携先のハネウェルには無い大型モデルを開発しました。日立はRCAにないモデルのHITAC 8500を独自開発しました。富士通は独自開発したFACOM 230-60を1968年に京都大学に納めました。

一方,電電公社(現在のNTT)は自社がサービスで使う標準的なコンピュータを自分で開発しようとDIPS(Dendenkosha Information Processing System)プロジェクトを始めました。最初に日立,富士通,NECの3社と協力してDIPS1というコンピュータを開発しました。DIPS1は千葉銀行のシステムや科学技術計算サービスのDEMOS-Eなどのコンピュータとして使われました。DIPSプロジェクトには私も参加しましたが世界に先駆けた試みをやらせていただけて技術者としては大変だけれどもやりがいのある有意義なプロジェクトでした。世界初の4台のマルチプロセッサシステム,キャッシュメモリとページングを組み合わせた方式,NMOSという新しいIC,主記憶16MBの実装など商用機では未経験の新技術にチャレンジしました。日本のコンピュータ技術の発展を推進したという意味ではNTTの役割は非常に大きかったと思います。現在はNTTも民営化されてコンピュータは外部調達になってしまいましたのでDIPS時代のような役割は期待できません。

第3.5世代のコンピュータ そしてメインフレームの終焉

1970年になるとIBMからSystem /370という360の次のコンピュータが発表されました。これには大規模なLSIが使われており第3.5世代のコンピュータといわれました。メモリには磁気コアメモリではなく半導体メモリが使われ仮想記憶がサポートされるなど画期的なコンピュータでした。

この時期にはGEやRCAがコンピュータ事業から撤退するなど世の中に大きな変化がありました。京都コンピュータ学院はSystem/370のモデル138と158を導入されそれを現在も保存・展示されています。当時の最先端のメインフレームがどういうものであったかがよく分かる展示になっています。

この頃までは日本のコンピュータはアメリカと大きな格差があったのでコンピュータの輸入は自由化されていませんでしたが,アメリカからの圧力もあり日本の力も付いてきたので,1975年12月までに自由化する方針が決まりました。突然自由化されても国産各社は潰れてしまうので通産省はこれに対抗するために新製品系列開発補助制度というのを作りましてコンピュータメーカーを3系列にグループ化しました。富士通と日立が一緒になってMシリーズ,NECと東芝が一緒になってACOSシリーズ,三菱電機と沖電気が一緒になってCOSMOシリーズを開発するということで3系列に絞って補助金を出していただきコンピュータの開発を推進しました。

アメリカでは1970年代になるとプラグコンパチブルマシン(PCM)というのが登場しました。これはIBMのコンピュータとソフトウェアの互換性がありながら価格がそれよりも安いというコンピュータです。IBMを使っているユーザーが別のものに置き替えるときにPCMに切り替えると有利なので大きなビジネスに発展しました。我が国のメーカーも1970年代後半からはPCMの海外への輸出に力を入れて大きな事業に育てアメリカはじめ世界中にIBM互換のコンピュータを輸出しました。その結果,日本のコンピュータの輸出入バランスは,1981年から黒字になりました。日本メーカーが強い力を発揮した時代でメインフレームコンピュータで世界のトップレベルになりました。NECのACOSシステム1000,1500,日立のM-200シリーズ,富士通のM-380,M-382,M-780などです。

ところがその後パソコンやUNIXコンピュータが急激に発展して,いわゆるダウンサイジングが起こりました。大きいコンピュータが安い小さいコンピュータにどんどん入れ替わって,メインフレーム市場は小さくなってしまいました。せっかく日本が世界一になったのに活躍の場を失ってしまいました。

TOSBAC-1100D(京都コンピュータ学院KCG資料館所蔵)TOSBAC-1100D(京都コンピュータ学院KCG資料館所蔵)

このコンピュータはプログラム内蔵式ではなく紙テープに穿孔されたプログラムを1命令ずつ読み込んで実行する外部プログラム方式を採用しています。展示されているシステムを見ればオフィスコンピュータがどんなものであったかよく分かると思います。

もう一つKCG資料館にあるオフィスコンピュータはNECから1973年に発売された超小型コンピュータ NECシステム100です。バッチ処理や通信機能を持っていてターミナルコンピュータとしても使えました。演算素子にはLSIを使って信頼性と性能を向上しました。これも京都コンピュータ学院で使われたシステムがそのまま保存・展示されておりオフィスコンピュータがどのように進歩してきたかが分かる貴重な遺産です。

オフィスコンピュータは1980年代後半になると技術進歩によって非常に小型化・低価格化します。機能も性能も小型の汎用コンピュータレベルまで高くなりました。しかしながら90年代になるとパソコンとUNIXシステムが高性能かつ低価格になり同時にオープンシステム化が進みました。オフィスコンピュータはオープンシステムではなく各社独自のソフトウェアを使うコンピュータだったので広く世の中に流通しているアプリケーションを使えるオープンシステムが主流になってきた時代の流れについて行けませんでした。日本で発展したユニークなコンピュータでしたが残念ながら消えざるを得ない運命でした。

ミニコンピュータ

次はミニコンピュータです。ミニコンピュータはアメリカのMITのリンカーン研究所のケネス・オルセンが1957年に設立したDigital Equipment Corporation(DEC)という会社が1965年に発表したPCP-8が最初です。PDP-8は非常に好評で産業制御,通信制御,科学技術計算など広い分野で利用され5万台も売れたと聞いております。この商業的成功によりミニコンピュータという一つのカテゴリーが確立し各社もこれを追いかけてミニコンピュータの開発を進めました。DECはミニコンピュータの代表メーカーとなりました。京都コンピュータ学院にはこのPDP-8が保存・展示されており歴史的なシステムとして情報処理技術遺産にも認定されました。

DEC PCP-8(京都コンピュータ学院KCG資料館所蔵)DEC PCP-8(京都コンピュータ学院KCG資料館所蔵)

日本では日立がHITAC10,富士通がFACOM R,NECがNEAC M4などのミニコンピュータを発売しました。沖電気はOKITAC-4300Cというミニコンピュータを発売しました。OKITAC-4300Cは全面的にIC化してステレオアンプ並みの大きさに納め,演算速度も毎秒26万回と中型コンピュータ並みの性能を持っていました。基本システムの価格が360万円で当時1ドル360円だったので1万ドルコンピュータと呼ばれて好評でした。

OKITAC-4300C(京都コンピュータ学院KCG資料館所蔵)OKITAC-4300C(京都コンピュータ学院KCG資料館所蔵)

京都コンピュータ学院は1979年にこれを導入しました。そのシステム一式が保存・展示されています。中央処理装置,磁気テープ装置,磁気ディスク装置,紙テープリーダ等からなりミニコンピュータの進歩した形がどんなものであったかが良く分かる貴重な展示です。

アメリカではミニコンピュータがビジネスでも使われましたが,日本ではオフィスコンピュータがビジネス用小型コンピュータの領域をカバーしていたことから,ビジネス用途にはあまり使われませんでした。その後も各社から高性能なミニコンピュータが出ましたがその頃からマイクロプロセッサが高性能化して低価格になってきてミニコンピュータの存在意義がなくなってきました。

パーソナルコンピュータ

次にパーソナルコンピュータの歴史を振り返ってみましょう。日本ではビジコン社が電卓のOEM事業をやっていて,各ユーザーからの細かな機能変更や追加の要求があるたびにハードウェアを作り直すのに苦労してました。そこでソフトウェアの変更だけで機能変更に対応できるチップのアイデアを考えてインテル社に提案しました。インテル社と一緒にそれを実現したものがマイクロプロセッサでその開発プロジェクトに日本からは嶋正利さんが参加しました。このチップは1971年に完成しインテル4004となりビジコン社はこれを使って1971年10月にプリンタ付きの電卓(Busicom 141-PF)を作りました。

Busicom 141-PF
インテル4004 チップ
左 Busicom 141-PFとインテル4004 チップ(出典:情報処理技術遺産)

インテル社はマイクロプロセッサの将来性を見通して4004の販売権を買い戻し自分のプロセッサとして一般にも販売するようにしました。その後,これを8ビット化したインテル8008やその上位の8080などのマイクロプロセッサを開発して高性能化していきました。それに伴いマイクロプロセサを使ってパーソナルコンピュータいわゆるパソコンを作ろうという動きが出てきてパソコンのブームが始まりました。このように日本はマイクロプロセッサそしてパソコンの実現に大いに貢献したわけです。

日本では1974年にソード(現在の東芝パソコンシステム)がインテル8080を使ったマイクロコンピュータSMP80/Xシリーズを出したのが最初のパソコンのようです。1976年にNECが技術者トレーニング用に8080互換のチップを使ったワンボードマイコンTK-80を出しました。これは値段が88,500円という当時のパソコンに比べたら画期的に安かったので,一般のマニアにも人気が出て広く売れマイコンブームの先駆けになりました。

1978年に日立がBASICを搭載したパソコン ベーシックマスターMB-6880を発売しました。シャープは技術者トレーニング用キットとしてMZ-80Kを製品化しました。

日立 ベーシックマスターMB-6880
シャープ MZ-80K
左 日立 ベーシックマスターMB-6880(出典:情報処理技術遺産)/ 右 シャープ MZ-80K(京都コンピュータ学院KCG資料館所蔵)

これはBASICのインタプリタをROMではなくてカセットテープで外から読み込めるようにして専用のソフトウェアだけでなくサードパーティのソフトウェアも使えたので好評でした。この貴重なパソコンはKCG資料館に保存・展示されています。ブラウン管が付いたパソコンなどは最近見る機会がないと思いますので初期のパソコンがどんなものだったかを見られる貴重な展示です。

1982年にNECがPC-9801を発売しました。日本語処理に必要な漢字ROMを内蔵しプロッピーディスクやハードディスクを搭載して機能も高かったので人気を博し長らく日本国内のパソコン市場を独占しました。

PC-9801(出典:情報処理技術遺産)PC-9801(出典:情報処理技術遺産)

1983年頃には16ビットの時代になりシャープのMZ-5500や沖電気のif 800などが発表されました。1987年以降になると32ビット機ができました。CD-ROMドライブを世界で初めて搭載してAV機能を強化した富士通のFM Townsなどが出てパソコンは花盛りになりました。

このような情勢を見てIBMもパソコンの市場に参入してきます。1981年にインテル8088マイクロプロセッサを使用したIBM PCを発表し,8月になるとPC-ATを発表しました。PC-ATの重要な点はインタフェース情報を開示したことです。IBMはそれまでパソコンのインタフェース情報を開示していなかったのですがこれを公式に開示しました。このため他社がPC-AT互換機を公式に作れる状況になり各社が競ってPC-AT互換機を出すようになりこれが実質的に世界の標準機になりました。それによりPC9801の独占も崩れてしまいました。

現在主流のノートパソコンは1985年にドイツのハノーバーメッセで東芝が発表したT1100というラップトップパソコンが世界初でした。

T1100(画像提供:東芝未来科学館)T1100(画像提供:東芝未来科学館)

実機が現在東芝未来科学館に展示されており情報処理技術遺産に認定されています。東芝は1989年には世界初のA4ファイルサイズのノートパソコン ダイナブックを出しこれが世界的ヒットになって2000年頃まで世界市場でトップの座を占めていました。このようにパソコンの小型化,軽量化では日本は大きな貢献をしました。

日本のパソコンでは日本語処理が不可欠でそのために専用のROMを搭載していましたがマイクロプロセッサの高性能化でソフトウェアによる変換が可能になりました。IBMが漢字ROMを使わずソフトウェアで処理するOS,DOSバージョン14.0Vを1990年に発表しマイクロソフト社からはMS-DOS-5.0/V8(いわゆるDOS/V)として販売されました。各社のPC-AT互換機でこれを使えるようになりDOV/Vが主流になりました。

1995年にはマイクロソフト社がWindows95を発表しマルチメディア機能やネットワーク機能が実現されてWindowsが実質的世界標準になり現在に至っています。

スーパーコンピュータ

最後に少し明るい話題としてスーパーコンピュータに触れてみたいと思います。スーパーコンピュータは普通のコンピュータとは桁違いに性能が高いコンピュータのことで古くからそういうコンピュータはいろいろありましたけれども商業的にも成功し世界で最初のスーパーコンピュータといわれているのは1976年にアメリカで発表されたCray-1です。それを見て日本でもスーパーコンピュータの開発が各社で進められ1983年に日立がHITAC S-810モデル20,1985年に富士通がVP-400,1985年にNECがSX-2を発表しました。

HITAC S-820(出典:情報処理技術遺産)
FACOM VPシリーズEモデルのMCCボード(富士通所蔵)
NECスーパーコンピュータSX-2(出典:情報処理技術遺産)
左 HITAC S-820(出典:情報処理技術遺産)/ 中 FACOM VPシリーズEモデルのMCCボード(富士通所蔵)/ 右 NECスーパーコンピュータSX-2(出典:情報処理技術遺産)

高性能で価格も安く世界にそしてアメリカにも売り込めるということで各社力をいれました。しかしながらアメリカでは1985年にベル研究所のスーパーコンピュータの入札があってNECが落札しましたが議会の圧力でだめになりました。アメリカはその後日本製のスーパーコンピュータに高い関税をかけて輸入できなくするなど貿易の障壁を高くしましたのでアメリカへの輸出は難しくなりましたが欧州など他の地域には多数輸出されました。

スーパーコンピュータの実システムは大きすぎて保存されていませんが,部品や部分的な装置が各社に保存されています。

日本のスーパーコンピュータは現在でも世界のトップでその日本の力を発揮したスーパーコンピュータの一つが地球シミュレータです。

地球シミュレータ(©海洋研究開発機構)地球シミュレータ(©海洋研究開発機構)

これは地球の温暖化や地殻変動などを地球規模でシミュレーションするコンピュータとして開発され2002年6月にLINPACKベンチマークで実効性能35.86テラFlopsを達成しました。世界スーパーコンピュータの性能を半年ごとに発表するTOP500というランキングがありますが地球シミュレータは2002年6月にこの性能を出してランキングのトップになりました。Flopsというのは浮動小数点の演算速度を表す単位で35.86テラFlopsというのは,数字で表すと毎秒35,860,000,000,000回の計算ができるということです。

Cray-1は160メガFlops,HAITC S-810が630メガFlops,FACOM VP-400が1,140メガFlops,NEC SX2が1,300メガFlopsですからそれらと比べても地球シミュレータが桁違いに速いことが分かります。地球温暖化の予測や地球内部の変動の研究に広く使われて大きな成果を挙げており2015年からはより高速なモデルに置き換わっています。

その次に出たのが文部科学省の推進した革新的ハイパフォーマンス・コンピューティング・インフラ構築のプロジェクトで理化学研究所と富士通が共同開発したスーパーコンピュータ「京」です。世界で初めてペタFlopsつまり1秒間に1京回の演算ができるコンピュータになり,スーパーコンピュータのランキングで2011年6月から2期連続トップの座を占めました。10ペタ(1京)Flopsはどのくらいかというと,10,000,000,000,000,000回の計算が1秒間にできるということで,どんなにすごいコンピュータかということがお分かりいただけると思います。生命科学,医療,材料開発,防災,減災,ものづくり,宇宙などの研究に広く使われ現在までの利用者は延べ11,000人利用企業は200社以上でアカデミアだけでなく産業界でも利用されたコンピュータです。2019年8月にシャットダウンされ後継機のスーパーコンピュータ「富岳」に替わりました。

富岳は最近話題になることが多いので皆さんもご存じかも知れませんが,理化学研究所と富士通が共同開発して2020年から試運転が始まりました。2020年6月以降4期連続で世界のトップの性能を維持しています。どのくらいの性能かというと442ペタFlops,つまり毎秒442,010,000,000,000,000回の計算ができることになります。各社と比較してみますと日本が442ペタ,2番はアメリカのSummitというシステムで148ぺタ,3番目がSierraという米国のシステムで94ペタ,4番目が中国になりますが,2位と3倍近い性能差をもって富岳が1位を続けています。米国や中国をはじめ世界各国は必死になってトップを獲ろうと頑張っているので11月発表のTOP500のランキングでどうなるかは分かりませんが,現時点ではトップを堅持しており日本が誇る技術の一つであると思います。(注:2021年11月の発表でも富岳は2位に大差でトップを維持しました。)

おわりに

その後のコンピュータの発展はネットワーク技術,AI,SNSなどいろいろな新しいことが出てきて激変しております。日本がそういう分野で最先端を進んでいるとは必ずしも言えませんけれども,過去にはこれだけ先輩たちが頑張ってやってきたということを糧にして若い人たちにぜひ頑張って新しいことにチャレンジしていっていただきたいと思う次第です。

情報処理学会としてはこういった歴史の成果を次世代につなげていくために引き続き活動していく所存です。皆さんのご理解とご協力を得られればありがたいと思います。

どうも今日はご視聴ありがとうございました。

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発田 弘
Hiroshi Hatta
  • 東京大学工学部電子工学科卒
  • 1963年に日本電気株式会社入社。理事・支配人を務める
  • 2002年6月に沖電気株式会社に入社
  • 一般社団法人情報処理学会で,各種委員・理事・監事を経て,1999~2000年度副会長
  • 2003年11月に情報処理学会歴史特別委員会委員,2006年2月から2023年3月まで同委員会委員長を務めた。

上記の肩書・経歴等はアキューム28号発刊当時のものです。