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Accumu Vol.18

30年目のベルリン

京都情報大学院大学教授 茨木 俊秀

東から眺めたブランデンブルク門
東から眺めたブランデンブルク門
「菩提樹の下」大通り
「菩提樹の下」大通り

ベルリンを訪れるのは私にとって二度目,30年ぶりだった。

街の中心を東から西へ貫く「菩提樹の下」(Unter den Linden)大通りには,中央の歩道の両側と,その外側にある車道横の2本を入れて,計4本の菩提樹の並木が続いている。

名前のとおり美しい大通りである。通りの両側のカフェ,レストラン,土産物店やホテルは,観光客であふれていた。彼らの表情は明るく活気にみち,遠慮なく話し合う大きな声と無邪気な笑い声が響いていた。

有名なブランデンブルク門はこの通りを東側と西側に分けるちょうど真ん中に位置している。

ブランデンブルク門

ブランデンブルク門の上に置かれた勝利の女神と4頭立ての馬車
ブランデンブルク門の上に置かれた勝利の女神と4頭立ての馬車

昨年8月,ウサイン・ボルトの100mと200mの驚異的な世界記録で湧いた世界陸上ベルリン大会の最終日,ここを舞台に,最後のレースである女子マラソンの熱戦が繰り広げられた。ブランデンブルク門の西側に出発点とゴールが設けられ,市内の観光名所をめぐるルートを3周するというコース設定である。

並走していた先頭集団から最終段階で抜け出した中国の白雪を尾崎好美が必死に追うのをテレビで応援した人も多いだろう。その地点がまさに「菩提樹の下」大通りであり,ブランデンブルク門をくぐったところでレースは終わった。

ブランデンブルク門は,ガイドブックによると,18世紀後半,プロイセン王国の凱旋門として,アテネ神殿の門を手本に建てられたという。この門は,何といっても東側から眺めるに限る。

なぜなら上に置かれた勝利の女神と4頭立ての馬車を正面から見ることができるからである。

しかし,30年前のベルリンでは,東側へ簡単に入ることはできず,西側からもほとんどその姿を見ることはできなかった。その前に無粋な壁が無遠慮に続いていて,視界を遮っていたのである。

観光名所「博物館の島」にあるベルリン大聖堂
観光名所「博物館の島」にあるベルリン大聖堂

1989年の二つの事件

1989年は二つの世界史的な事件で人々の記憶に刻まれているに違いない。胡耀邦の死をきっかけに,民主化を求めて天安門広場に集結していた学生たちを中心とするデモ隊を,6月4日,人民解放軍が無慈悲に蹴散らした天安門事件がその一つであり,もう一つは,11月9日のベルリンの壁崩壊である。

ベルリンの壁

第2次世界大戦の帰結として,ドイツは東と西に分断された。それまでドイツの首都であったベルリンは東ドイツのほぼ中央に位置するが,その重要性からやはり東と西に分けられた。東ベルリンは東ドイツの首都であり続け,西ベルリンはアメリカを中心とする連合軍の管轄下に置かれ,西ドイツの首都は,臨時の措置としてボンに移された。残された西ベルリンは,周りをぐるっと東ドイツに囲まれ,「赤い海に浮かぶ自由の島」といった状態だった。この自由の島へ向けて東から脱出者が絶えなかったため,業を煮やした東ドイツは,1960年代の初めから10年以上かけてベルリンの壁を構築した。最初は鉄条網の簡単なものであったが,次第に頑丈なコンクリート壁に作り替えられ,最終的に,高さ約4mの壁が延々と全長155kmにわたって作られたのである。

壁の崩壊

1980年代の東ドイツはドイツ社会主義統一党ホーネッカー書記長の支配下にあった。しかし,1985年ゴルバチョフがソ連共産党の書記長に就任し,ペレストロイカ政策を推進すると,東ヨーロッパ諸国でも民主化を求める声が高まり,東ドイツへも浸透していった。

そのターゲットがベルリンの壁の撤廃であり,西側への自由な移動である。1989年8月にハンガリーを通ってオーストリアへ脱出する「汎ヨーロッパピクニック」が成功すると,この動きはいよいよ抑えきれなくなり,10月には鉄の支配を誇ったホーネッカーも遂に解任された。その混乱の中で,11月9日,「ゲートが開いた」という噂が広まると何万という東ベルリン市民が押しかけ,それを聞いて集まった西ベルリン市民が見守る中,警備隊は群衆に屈し,ゲートは解放された。このときの騒ぎと歓喜は,テレビや新聞で世界中に伝えられ,私も感動を共有したことを鮮明に覚えている。そのあと,壁はあっという間にすべて破壊され,東が西に吸収されるという形でドイツの再統一が実現し,ベルリンは再びドイツの首都となった。

今に残された壁の一部。描いた絵を競うギャラリーになっている
今に残された壁の一部。描いた絵を競うギャラリーになっている

壁の今

検問所チェックポイント・チャーリーのレプリカ
検問所チェックポイント・チャーリーのレプリカ。
(前に立つ兵士に尋ねたところ,俳優学校の生徒達だった)
「君はアメリカ地区を去りつつある」
「君はアメリカ地区を去りつつある」

今,記念碑的に残されているごく一部を除いて,壁は跡形もなく消えてしまっている。

11月9日に民衆が押し掛けた検問所,チェックポイント・チャーリーには,現在,レプリカのみが残されている。その横に「君はアメリカ地区を去りつつある」と4ヵ国語で書かれた有名な警告板が立っていて,西から東へ入る人へ覚悟を迫っている。解放後,検問所正面の通りに面して「壁」博物館が作られた。中を訪ねると,ベルリン封鎖当時の街の様子や,東から西への脱出に成功した様々な方法が展示されている。

気球を利用したもの,自動車を改造して一部に人が隠れるようにしたもの,サーカス団のぬいぐるみのなかに隠れたケース,トンネルを掘って成功した例もある。人間の創意工夫の多様さに改めて感心してしまう。もちろん,これらはすべて成功したわけではなく,監視兵に射殺されるという結末も少なからずあったという。

30年前

およそ30年前,たしか1980年,私は初めて西ベルリンを訪ねた。壁崩壊の約10年前である。その時,壁越しに垣間見た東側は人通りも少なく静かで,人々は声をひそめて生活しているようだった。モダンで明るく,大勢の人で溢れている現在の東ベルリンを想像することは全く不可能である。

友人の車で,西ベルリンをぐるっと取り囲む壁に沿って案内してもらったが,壁のあちこちに建てられた監視塔では武器を持った監視兵が常時目を光らせていて,西側に居ても大声で話すのがはばかれるような雰囲気だった。東側の人たちをあそこまで西へ駆り立てたのは,武器による威圧と,秘密警察と地域住民から形成された監視網によるこの圧迫感ではなかったかと思う。

東から西への脱出

ソニーセンター
再開発されたポツダム広場に
あるモダンな建物,ソニーセ
ンターの天井部分

私がこれまで研究上知り合った方の中には,東から西への脱出者が何人かおられる。長い間親しくしていただき,一緒に何本か論文を書いたこともあるH教授は,ルーマニアからの脱出者である。

当時ルーマニアから直接出国することは考えられなかったので,ブルガリアで学会が開かれたとき,手を尽くしてそこからトルコ行きの船の切符を手に入れ,イスタンブールへ逃れた。

彼はユダヤ人だったので,追手を避けるため直ちにイスラエル大使館へ駆け込んだ。スパイ映画さながらの経緯を経てイスラエルへ到着したとき,ようやく安全を実感したという。その後,彼はカナダ,さらにアメリカへ移住し,私ともそこで知り合った。

同じルーマニアの出身で整数計画の大家であるB教授は,さらに血の気の多いドラマティックな人生を経験している。

若い頃ナチスドイツへの抵抗運動に加わり,その中で投獄された。ナチスドイツの敗北後,政府のかなり重要な地位にまで昇ったが,ソ連のやり方に合わず,再び投獄された。その間,政治に嫌気がさし,若いころから好きだった数学の道へ転身したという。

彼は合法的に移住することにこだわり,何年かの苦労のあと,1966年,ようやくアメリカへ出国することに成功した。B教授ともかなり長い間の知り合いであるが,若い頃の話を聞いたことはなかった。最近彼が出版した自伝によって,はじめて波乱万丈の過去を詳しく知った。

これらの人々は総じて,自分の経験した苦労を話したがらない。計算理論の重鎮H教授とある学会のあと何人かで夕食を共にする機会があった。彼はバルト3国,たしかエストニアからアメリカへ脱出したという経歴をもっている。ワインを飲みながら,ソ連の支配時代に話が移ったとき,「この話題はこれでやめておこう。話し出すと興奮して止まらなくなるから」と言って打ち切ってしまった。

内容は聞けなかったが,それだけよけいに彼の体験の重さが印象に残った。

ジョーク

自己の過酷な運命を乗り切った人々に共通して見られるのは,強靭な意思である。もう一つ共通に見られるのがユーモア精神である。現状をジョークで笑い飛ばすことによって,明日へのエネルギーを得たに違いない。

彼らから聞いたジョークを一つ。

ホーネッカー書記長が,夜,ベットに寝転びながら隣に寝ている妻につぶやいた。

「もしベルリンの壁を取り払ったら,国民は全部西ドイツに行ってしまって,私たち二人だけがとり残されてしまうのだろうな」

「いいえ,一人だけよ,あなた」

世界史の流れ

私は,高校生の受験勉強のとき社会の選択科目として日本史と世界史を選んだ。どこからみても理系人間である自分が曲がりなりにも世界の動きを理解できるのは,このとき学んだ知識,とくに世界史によるところが大きい。

日本の国家体制がようやく整ったとされる大化改新の7世紀,お隣の中国では唐の文化が咲き誇っており,それをはるかに遡る紀元前3世紀に,すでに秦という統一国家が作られていた。

地中海・ヨーロッパ地域では,紀元前20数世紀の昔からエジプトのピラミッドが建設され,ギリシャ,ローマ時代を経て,ヨーロッパ諸国の複雑な歴史へと続いていった。

この間,多くの国家が現れては消え,国境線は何度も書き替えられた。地下プレートの緩やかな移動によって歪エネルギーが蓄積され,保持できなくなると地震によって地表へ発散されるように,政治・経済の矛盾や人々の不満が限界点を越えると,戦争や革命といった大きな変化に至る。

私が受験勉強していた頃,世界は第2次世界大戦後の新秩序下にあって,全体の約3分の1の地域は社会主義体制をとり,ソ連の影響下にあった。

これが歴史の流れであり,20世紀の終わりには世界の大半が社会主義化しているだろうという予測さえあった。今,私たちはこの予測が間違っていたことを知っている。しかし,国や国境線の存在が絶対的なものではないことを改めて学んだ。ベルリンの壁が崩壊し,東ドイツと西ドイツを隔てていた国境線が消滅したのも,長い目でみれば,歴史の中の一つの小さなエピソードにすぎないのであろう。

つぎ,このような変化が起こるのは一体いつ,どこだろうか。私が生きている間に,この目でそれを見ることができるだろうか。

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茨木 俊秀
Toshihide Ibaraki
  • 1940年 兵庫県生まれ。
    京都情報大学院大学学長,京都大学名誉教授。
    京都大学工学士,同大学修士課程修了,京都大学工学博士。
  • この間,京都大学助手,助教授,教授,京都大学大学院情報学研究科長,豊橋技術科学大学教授,関西学院大学教授,さらにイリノイ大学,ウォータールー大学はじめ数大学の客員研究員および客員教授。
  • 日本オペレーションズ・リサーチ学会副会長,その他いくつかの学会の委員,役員,および国際会議の組織委員長などを歴任。
  • 現在,ACM,日本オペレーションズ・リサーチ学会,電子情報通信学会,情報処理学会,日本応用数理学会,スケジューリング学会のフェローあるいは名誉会員。

上記の肩書・経歴等はアキューム25号発刊当時のものです。