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Accumu Vol.1

創立25周年記念式典 記念講演(抄録)

ペンシルバニア州立大学理学部天文学教授

現京都コンピュータ学院ボストン校長

松島 訓


京都コンピュータ学院25周年記念式おめでとうございます。私は京都大学宇宙物理学科卒業生の1人で,長谷川学院長とは昔からの友達です。1965年に一時帰国しましたとき,天文教室最初の女子学生であった長谷川靖子さんに初めてお目にかかりました。その頃が京都コンピュータ学院草分けの時代だったのですね。

私がアメリカに渡りましたのは昭和25年で,プレジデント・ウィルソン号という船に乗って14日目にサンフランシスコに到着しまして,上陸手続きを済ますのに半日かかったのを覚えています。金門橋を見ましてね,アメリカへ来たという感激で一杯ですから,荷物が手間取ろうが,もう胸がわくわくしていました。そのとき初めてテレビというのを見ました。

最初は,人工心臓で有名なユタ大学に行きました。日本を出る前に星の大気のモデルを,タイガーという手動の計算機で計算してましたが,ユタに行って初めてモンローという電動式の計算機を使いまして,これは便利だと思いました。2年後には,ハーバード大学に移りまして,そこにも2年間おりました。ハーバードのマークⅠができたのは1944年ですが,1952年の当時にはマークⅣというのがありました。初めて計算機というものにお目にかかりまして,将来は,これが我々の研究のセンターになると直感しましたけれども,今日のようになるとは夢にも思わなかったですね。

1954年にハーバードからフィラデルフィアのペンシルバニア大学に移りまして,そこで初めてIBMの計算機を使った研究をしました。波動関数のややこしい計算で,計算機の有難さがわかりました。もっとも,まだマシン・ランゲージでしたけれども。

それからヨーロッパへ飛びまして,フランスとドイツで2年半程研究生活をしましたが,まだ,コンピュータというものはどこでも目に入らなかったし,耳にもしなかったですね。日本でも大体同じ状態だったと思います。

1958年にまたアメリカに戻りまして,フロリダ州立大学の物理の助教授になりました。大体この頃からアメリカの大学にIBMの計算機が次々に入りました。また2年後には,アイオワ大学に移りまして,私もそこの講習会でFORTRANを覚えました。その頃,星の大気モデルを一つ計算するのに,IBMの7040を使って1時間かかったんですね。大体4回位繰り返し計算して精度を上げるので,4時間位かかるんです。研究費もなかったですから,ただで4時間も大型計算機を使わせてもらえるのは夜中しかないんです。私のいた物理教室の主任のヴァン・アレンは,有名なヴァン・アレン帯を見つけた人ですけど,NASAから大金を貰って,輻射帯の計算をしていましたから,計算センターでも,夜中の12時から朝の6時まではヴァン・アレンの時間ということになっていました。ただ彼が雇っていたオペレータがウィークエンドには休みますので,その時間だけ私がただで使わしてもらっていました。オペレータを雇うお金もなかったですからね。僕は結構オペレーションも覚えました。それから数年したら,同じ大気モデルの計算が20分位でできるようになりました。コンピュータがどんどん進んで行きましたから。

アイオワ大学には7年程おりまして,1967年に現在のペンシルバニア州立大学に来まして,以来ずっと本日まで勤めています。

最後にもう一つ。日本は今,国際化の時代だと言ってますが,国際化するためには,まず英語を覚えることが大事だと思います。その学習のことについて経験から一言申し上げます。私は,英語を覚えるには,映画を見るのが一番いいと思いました。2回続けて見ても1回分の料金でいいんですからね。毎週同じ映画を続けて2回見てますとね,初めわからなかったのが,段々わかって来るんです。1年位経ちますと,夢の中に出て来るおふくろが英語で喋ってるんです。これは英語で考えている証拠ですね。皆さんも外国に出て,映画も見て,実際のなまの言葉に触れて,それもなるべく若いうちに勉強するのが一番近道だと思います。