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Accumu Vol.9

海外コンピュータ教育支援活動 北京・天津・西安

京都コンピュータ学院 技術教育統括部長 寺下 陽一

中国

クイズ:「北京・天津・西安…この中国の三つの大都市にはどのような共通点があるでしょうか?」

答:「このいずれにも京都コンピュータ学院の姉妹校大学があります。」

1989年から始まった本学院の海外協力事業は,タイを皮切りとして,ポーランド,ガーナ,ケニア,ジンバブエ,ペルー,スリランカ,と世界のさまざまな国との交流関係を樹立して来ましたが,お隣の国,中国との交流が始まったのは比較的最近のことです。その理由は,中国が前述のいわゆる「発展途上国」とはかなり性格が異なり,最近はコンピュータ教育なども普及が盛んで,本学院が進めてきた従来方式のコンピュータ寄贈事業が真に有益であるかが明確でなかったという事情によります。

しかしながら,次第に分かってきたことは,技術教育分野ではコンピュータが広く浸透し始めているが,外国語教育などにおいてはコンピュータの利用はまだまだ限られており,特に日本語教育においては日本語仕様のコンピュータは非常に役に立つであろうということでした。一方,本学院の倉庫に眠っている使用済みコンピュータは当然のことながらそのほとんどが日本語仕様です。したがって,これらのコンピュータを日本語教育関係の教育機関に寄贈することにより,実のある協力関係を展開して行くことができるであろうと考えられたわけです。

最初に協力協定が結ばれたのは天津の天津外国語学院です。(中国では,「学院」という言葉は日本での「大学」とほぼ同じ意味に用いられています。)この大学とは1996年6月に本学院で協定文書の調印式・寄贈式が行われ,同年12月に本学院の方から同大学の方に数名の職員が技術指導に赴いています。次は西安外国語学院で,1997年9月に西安において協定書調印式が,同11月には本学院において寄贈式が行われました。その次は北京の首都師範大学外国語学院であり,この大学とは1997年12月に北京において協定書調印式が,1998年7月に本学院において寄贈式が行われました。

コンピュータの寄贈を皮切りに始まったこれら三大学との交流は今後どのように展開して行くのでしょうか。その一つとして天津外国語学院出身の学生5名が1998年6月から本学院の情報処理科の学生として留学に来ています。本学院からはこれらの大学への短期研修コースの計画などが出ています。現在のところまだ実施には至っていませんが,近いうち始まることでしょう。このような企画を楽しみにしながら,本稿ではこれら3都市について筆者の知っている範囲で紹介したいと思います。

3都市をどの順番で取り上げればよいでしょうか。ここでは,大きさ(人口)の順にして見たいと思います。すなわち,北京-天津-西安の順になります。

[北京]

北京

北京は周知のように中国の首都です。北京は古くから華北の重要都市として知られてきましたが,本格的な首都として建設されたのはモンゴル帝国である元朝のフビライ汗の時で,その後,明,清の時代を経て現代に至るまで,一時的にそうでないこともありましたが,ほぼずっと中国の首都として栄えて来ました。ですから,元朝のころから数えてもその期間は700年以上にもなります。中国の古都としては,長安(現在の西安),洛陽,杭州,などが有名で,北京はふつう古都とはあまり言われませんが,それでも我が京都に匹敵するぐらいの長い歴史を持っているわけです。しかも,現在でもなお首都でありますから,政治,産業,文化の中心として,外国人客に対して強い印象を与えてくれます。

北京は中国の伝統的都市の構造を持っています。伝統的というのは,まっすぐな,東西・南北に走る直線状の道路によって区切られた碁盤目状の都市計画です。日本の奈良や京都が,かつて中国の首都であった唐の長安を手本にして建設されたというのは有名な話ですが,それゆえ北京と京都は非常によく似た構造を持っています。ただし,北京は人口も都市区域だけで670万人ということですから,規模もひとまわり大きく,また,道路も広々とし,巨大都市というイメージが強く感じられます。

伝統的に,中国の都市はふつう城壁で取り囲まれていました。中国語で都市のことを「城市」という所以です。北京も,1949年の新中国建設により現在の形になる以前,旧市街部は一辺約6kmのほぼ正方形の,堅固な城壁と壕で囲まれていました。(実はこの南側に隣接してほぼ同じ規模の,外城と呼ばれる城郭がありました。)新中国になってからはこの城壁は取り壊され, 濠は埋められ,そのあとは広い環状の(実際には方形の)道路になり,第二環状線(二環)と呼ばれています。城壁のあった頃は当然のことながら出入りのための城門がいくつかあったわけですが,これらの城門も一部を除き撤去されてしまっています。現在残っているのは,北側にある「徳勝門」と南側の「前門」です。このうち前門はその巨大な楼閣が二つとも残っており,かつての北京城の威容をうかがい知ることができます。その他の門については地名として残っていますが実物はもう存在しません。(ついでながら,有名な「天安門」は,城内にある皇帝の居城の城門であり,これは完全な形で残っています。)

北京

さて,城壁はもはや見ることはできませんが,北京にはその他にも多くの伝統的な建造物が数多く残っており,観光客の目を楽しませてくれます。その中でも最も有名なのは,かつて皇帝の居城であった「紫禁城」でしょう。これは,市の中心部にある一辺約1kmの城内城で,濠, 城壁,内部に多くある建物も完全な形で残っています。この紫禁城は,現在では「故宮博物院」という名前で一般に開放されています。映画「ラストエンペラー」のロケ地として有名になりました。  その他の旧跡として,市の南部にある「天壇(てんだん)」。これは,かつて皇帝が天に向かって祈りを捧げた所で, 広大な敷地が印象的です。市の北西の郊外には「頤和園(いわえん)」という庭園があります。これは,昆明湖という巨大な人工の湖を中心とした回遊式の庭園です。清朝の末期に,悪名高い西太后というワンマン皇后が金に糸目をつけず建造したもので,これが清朝没落の原因になったとも言われています。北京から少し足を延ばすと,「万里の長城」や,明朝の皇帝の墓地である「明十三陵」などがありますが,ここでは万里の長城について少し述べましょう。

万里の長城(略して「長城」)は,はるか西,甘粛省の嘉峪関から東端の渤海に面した山海関までの約6700kmにわたって延々と続く城壁で,北方あるいは西方の遊牧民の攻撃を阻止するために造られたものです。北京は肥沃な華北平野のほぼ北端に位置し,市街地から少し北あるいは北西方向に行くと燕山山脈という峻険な山地にぶつかり,その向こう側には内蒙古に達する高原地帯が広がっています。長城は,この燕山山脈の尾根伝いに造られており, このあたりは首都防衛という重要な役割を持っていたせいでしょうか,城壁は,二重あるいは三重の構造になっています。現在見られる北京付近の長城は主として明代に建造されたものだそうですが,そのままでは損傷が激しく,危険でもあるので,何個所かで修復作業がおこなわれており,それらは観光用に供されています。

北京

そのうちで最も有名なのは北京から北西に70kmほどの八達嶺(はったつれい)という所の長城です。このあたりは非常にきれいに修復されており,普通の服装でも楽々と見学することができます。(ただし,何といっても険しい山の尾根に造られたものですから,かなり急な階段や坂道を上り下りする覚悟が必要です。)ここの長城を見学に来る観光客は非常に多いようで,シーズンには城壁の上を歩くのも行列になります。また,付近には料理店や土産物店が多く,また土産物の売り子もたくさんいて,大変賑やかな所です。人を見るのではなくゆっくりと悠久の歴史を感じたいという人は,シーズン外に来るか,あるいはあまり有名でない場所の長城を見る手でしょうか。筆者は,北京の北方約100kmの司馬台という所の長城を訪れたことがあります。ここは一応店などもあって観光地の準備は出来ていましたが,訪れる人もまばらで閑散としていました。長城自体はまだ修復を行っている最中で,まだ崩れたままの部分を歩くときなど冷や汗ものの場面もありました。中国人観光客が意外と少なく,バックパックの欧米の若者が目立ちました。その人達の中には, 既にあちこちの長城を訪れている人などもいて感心しました。「長城トレッキング」が流行っているのでしょうか。

中国へ行くならばやはり食べ物だというグルメの人も多いでしょう。北京はその点でも十分に期待に答えてくれるところです。日本では一般に広東料理,上海料理,四川料理など南方系の中国料理がポピュラーですが,北京でも有名な北京ダックがあり,また洗練された宮廷料理があります。しかし,それに加えて,政治・産業・文化の中心地だということで中国各地の料理を専門とするレストランが軒を並べており,これは他の都市には見られない特長でしょう。筆者はそのすべてを知っているとはとても言えないので,また勉強をしてから稿を更めることにしましょう。

[天津]

天津

天津は,日本では「天津甘栗」などでおなじみの名前ですが, 実際どんな都市なのか知っている人は少ないのではないでしょうか。北京などに隠れて日本ではあまり有名ではありませんが,都市部の人口が500万人という大都市で,北京, 上海と並ぶ特別市(省と同格)の一つです。北京から南東へ約100km,渤海の海岸近くにあり大きな港を有しています。

もともと小さな町であった天津が現在のような大都市になったのは前世紀の中頃,欧米の列強がこの地を占領して当時の清朝との貿易の拠点とした頃からです。したがって,一部を除き町は欧米式で,古い洋館などが今でもたくさん残っており,(同様に欧米人により造られた)上海と似通った雰囲気を持つ都市です。その意味で,伝統的な北京とは全く異なっており,碁盤目状の道路もありません。活動的な北京と比べ,少々活気が足らないことは否めませんが,その反面,静かで落ち着いた町です。日本との関係は近代になってから密接で,現在は多くの日本企業も進出しています。最近のニュースによるとトヨタ自動車がこの地に工場を建設することになったそうです。

[西安]

日本でも特に有名な西安は,漢から唐にかけて中国の首都だった長安の都の跡に造られた町です。永らく首都として中国の中心であった長安がいったん戦乱で破壊されてしまったのですが,その後,明の時代に中国西部の重点都市としてほぼ同じ場所に再建されました。したがって,長安の時代から数えると2000年以上の歴史を持つ古都であり,京都との間には姉妹都市の関係があります。

かつての長安は広壮な都市であったそうですが,現在の西安は北京に比べるとひとまわり規模が小さくなっています。その代わり,伝統的な都市プランがほぼそのままの形で残っているという大きな特長があります。旧市街は碁盤目状に整然と区切られているばかりでなく,それを囲む城壁も壕も,そして城壁の東西南北の各辺に置かれている四つの豪壮な城門も全部残っています。北京もそうですが,中国の殆どの都市では新中国になって以降,交通の便をはかるなどの理由で城壁や壕は取り壊されてしまったのですが,西安は城壁・壕が今でも保存されている数少ない都市の一つです。もっとも,20年位前まではこれらの構造物も損傷が激しかったようですが,その後,町を上げての修復事業が行われ,現在では素晴らしい城壁や城門を見ることができます。西安での観光スポットとしては城壁が挙げられることがあまりないのですが,西安観光の際には城壁見学を是非入れるべきだと思います。筆者は過去に西安を訪れる機会が何回かあり,城壁の上を歩いて一周したいものだとかねがね思っているのですが,残念ながらいまだに実現していません。

さて,2000年以上もの歴史を持つ西安の近郊には多くの旧跡が点在しています。その中で特に有名なのは,何といっても秦の始皇帝に関連する遺跡でしょう。中国での最初の統一帝国である秦は現在の西安の北西方の咸陽に都を建設しました。(同名の都市は現在でも残っています。)秦の時代は二十数年しか続かなかったので咸陽の都も短命でしたが,始皇帝の陵墓が西安の東方に残っています。その全容はまだ分かっていないそうですが,周囲10キロほどの広大な敷地を有しているのではないでしょうか。その中央に高さ76mの人工の丘が築かれており,その中に壮大な地下宮殿があるものと想像されていますが,まだ実際には発掘が行われていません。しかし,その周辺部の畑地で1974年に埴輪(中国語では「俑」)が偶然に見つかったのがきっかけとなって,その付近の大掛かりな発掘が始まりました。その結果,軍隊の人馬を形どった無数の埴輪が発見され,このあたりが始皇帝陵の一部であることが分かりました。これが有名な「兵馬俑(へいばよう)」遺跡です。現在,発掘された部分は天井でおおわれ,その中に入って見学することができます。陵墓の周囲がこのような遺跡で囲まれていると想像されていますが,発掘してそれを確かめるにはまだ何十年もかかるそうです。

少し距離は遠くなりますが,西安の西方には漢,唐時代の皇帝の陵墓が点在しています。茂陵(漢の武帝の墓),乾陵(唐の高宗の墓),などがそうです。始皇帝陵と同様,これらの陵墓はまだ発掘されていませんが,乾陵などはアプローチが整備されており見学する価値は十分あります。また,この付近にある永泰公主(皇女)の墓は発掘されており,有名な壁画(唐時代の宮廷女性を描いたもの)を見ることができます。唐時代の遺物としては,この他に西安市内の大雁塔が有名で,これは西遊記で知られる玄奘三蔵のゆかりの寺であり,古い塔がそのまま残っています。また,市の郊外にある華清池という温泉場は玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの舞台として知られ,現在では伝統様式の建物を中心とした公園になっています。

西安は中国の人口密集地帯のほぼ西端に位置しており,ここより西へ進むと甘粛省や新彊ウイグル自治区の乾燥地帯,砂漠地帯になります。いわゆる「西域・シルクロード」です。したがって,西安は「シルクロードの始点」ということで,ここから西へ進む観光ルートがいろいろ用意されているようで,日本人には特に人気があるようです。筆者は,残念ながら西安から西へ行ったことはまだありません。

西域に近いということで,西安では中国の他の都市とは異なった異国情緒が少し感じられます。例えば,道を歩いていても中央アジア的な風貌の人をちょくちょく見掛けます。また,イスラム教徒の数も多いと聞きました。中国ではイスラム教のことを「清真教」と言います。したがって,「清真寺」というのはイスラム寺院,すなわちモスクのことです。イスラム教では肉類を食する際に非常に厳格な調理法がありますが,これにのっとった食堂などには「清真」の文字あるいは難しいアラビア文字などが記され,すぐに分かるようになっています。(羊肉専門店の多くはこれに属するようです。)西安の旧市街の中心部には,「清真大寺」があってその周辺は,頭に白い丸帽をかぶったイスラム教徒のコミュニティとなっています。

中国と日本は「一衣帯水」といわれ,過去千何百年にわたって様々な形の交流が行われて来ました。また,人々の容貌や肌の色も同じですし,漢字を用いるという点も共通で,我々日本人は中国に対して他の外国とは違った親近感を持つことができます。これは今後,隣国としての中国と強い友好関係を発展させて行くためには非常に重要なことです。しかし,これで以って十分だと考えてしまうことは大きな問題です。我々日本人は中国のことはよく知っていると思いがちですが,このような知識は主として中国の歴史や古典に基づく場合が多く,現代の中国についてどれほど知っているでしょうか。また,逆に現代の中国人が日本についてどれだけ知っているでしょうか。

筆者はもともと中国で生まれたということもあって,中国のことは割に知っているつもりでありましたが,姉妹校提携のためにかの地を訪問して見聞し,またいろいろな人と知合いになってねんごろに話し合ったりすると,いつも新しい知識を得ることになり,今までの自分の持っていた情報というものがいかにも浅いものであったと思い知らされています。そして,このような知識を今の日本の若い人々に持ってもらうことが非常に重要であるのではないかと,益々強く思うようになりました。今までは姉妹校提携ということのみに力を注いできましたが,今後はこれを我が学院の学生教育に真に役立てるためのプログラム作りに発展させて行きたいものだと強く感じている次第です。

小雁塔

中国

萩原 宏

秋雨蕭々緑樹中   秋雨蕭々緑樹の中,

儼然古塔十三重   儼然たる古塔十三重。

有人剣舞楼門下   人有り剣舞す楼門の下,

千載興亡思不窮   千載の興亡思い窮らず。

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寺下 陽一
Yoichi Terashita
  • 京都大学理学部宇宙物理学科卒業
  • 米国アイオワ大学大学院に留学,Ph.D.取得
  • アイオワ大学講師,ペンシルバニア州立大学講師を経て,帰国後,KCG創立グループの一員として日本初の情報処理技術教育カリキュラムを作成
  • その後,金沢工業大学に赴任,同大学情報処理工学科の創設に携わり,主任教授,同大学情報処理サービスセンター長を務める
  • 金沢工業大学名誉教授
  • 永らく私立大学情報系教育の振興に貢献
  • 元社団法人私立大学情報教育協会理事
  • JICA(旧国際協力事業団)専門家(情報工学)としてタイ国に3回派遣される
  • 1995年4月本学院に再就任
  • 京都コンピュータ学院洛北校校長,京都コンピュータ学院国際業務部長を経て,2004年4月の京都情報大学院大学の開学に伴い,京都情報大学院大学応用情報技術研究科ウェブビジネス技術専攻主任に就任
  • 現在,京都情報大学院大学副学長

上記の肩書・経歴等はアキューム15号発刊当時のものです。