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Accumu Vol.5

「人工知能と人間」(岩波新書)の著者,京都大学工学部教授長尾真氏に聞く。情報科学的視点は,世界をどう変えるか?

Interviewer/Sumio Makino●ACCUMU

長尾真氏

自分の視点はどこにあるか? 日常,こんなことをあらためて考えたことがあるだろうか? 世の中には,きまりきった,あたりまえのことと思われていることがたくさんある。このようなことは,大多数の視点が同じであるために起こる現象といえなくもない。それでは,大多数の視点が,今のそれとは違うものになったら?

コンピュータを道具として利用しようとすることは,視点の変化を強烈に促す。これが世界にどのようなインパクトを与えるか? 自然科学や西欧合理主義に,多くのよりどころを求めようとする時代は,もうくずれつつあるのか?

「人工知能と人間」

ACCUMU(以下A) いつの時代でもそうですが,新しい科学技術が出てきたら,それをとおまきにして恐怖感から非難中傷する,というのと,反対に,もう手放しで誉める,という両方の反応がありますけれども,コンピュータというのは,まさにまだそういう段階じゃないかなという気がするんですけれども。

長尾 そうですね,確かに。

A それと,これは,変な話かもしれないんですが,リーディングサイエンスというもの,つまり17,8世紀を考えますと,例えばニュートンの物理学が学問の典型とみなされまして,他の学問は,例えば化学であっても生物学であってもそうだと思うんですが,哲学でもそうですが,その物理学に,方法論の上で何とか近づこうとする,それが学問として成り立つための必須条件である,というふうな,いわば,リーディングサイエンスというものが考えられたと思うんですが。そしてそれが19世紀になりますと,歴史学であったり,生物学であったり,例えばダーウィンの進化論ですね,そういうのがあったんじゃないかと思うんですが。そして20世紀のはじめ,今度は,アインシュタインの新しい物理学というのがまたリーディングサイエンスの地位をもったんじゃないかと思うんですが。

長尾 そうですね。あるいは,量子力学とかね。

A そうです。そして,そういう意味で今,20世紀の最後になりまして,ひょっとしたら,この情報科学っていうのが,今じゃなくて,これからかもしれませんが,リーディングサイエンスになるんじゃないかと。いわゆる自然科学から人文科学まで含めまして,そうした学問全てが,情報科学的なやり方,情報というのは人間の活動全てを含むということができますから,そういうふうな格好で進んで行くんじゃないかな,というふうな予想もできると思うんですけれども。そういう意味で,例えば17,8世紀のニュートンの物理学がリーディングサイエンスであった時代っていうのは,ある意味で物理主義という言い方ができるし,19世紀になりますと,歴史主義が流行った時代ということになろうかと思うんですけれども,これからは,情報科学主義といいますか,まあそういうことばは,あまり使われないかもしれませんが,そういうもので時代を考えることができるようになるんじゃないかな,と思うんです。そこで今回は,『人工知能と人間』というこの本で,情報科学というものを正面からとりあげておられる先生に,今申しましたような,情報科学主義とか情報科学的なものの見方というふうなものにつきまして話をうかがいたいと思うんですが。

長尾 そうですね。ひとつは,そこにも書いておきましたけれども,計算機というものによっていろんなことが,あるいは,ほとんど全てのことがシミュレーションできるっていいますかね,(計算機は)そういう力を持ってるっていうか,そういうことですので,まあ,これまでの科学とか,技術とか,それだけじゃなくて,人文科学,社会科学まで含めて全ての科学を情報技術でもって,もう一度徹底的に見直そうっていいますかね,そういう時代が来つつあるんじゃないかっていう気がするんですね。で,その場合に,なんていうんですか,ニュートンのような枠組みであるとか,あるいは,アインシュタインのような枠組みであるとかいうような理論的枠組みでは,説明できないような,まあ近似度の上がったようなですね,モデルを提示できる可能性がある。つまりサイエンスっていうのは,あくまでも,ものごとの基本原理を追求していってるわけですけどもね。我々からいいますとエンジニアリングっていう立場は,原理を追求するというだけじゃなくて,それを使ってものごとを再現するとか,あるいは新しい何かいいものを作り出していくとかいう,そういう,サイエンスプラスアルファでないといけないんですよね。で,そのサイエンスプラスアルファという,プラスアルファの所っていうのは,これがなかなかむずかしいもので,つまりサイエンスでは説明できない,今までのサイエンスでは説明できないものであった可能性が高いんですが,そいつをどうしたらいいかっていうその時に,計算機という道具ですね,これを使ってシミュレーションをする,これが非常に有用である,ということがだんだんわかってきて,そういう意味で計算機というのは,全ての自然科学あるいは社会科学全てに対してインパクトを与えつつあるんじゃないか,というふうな気がしてますけどね。だからそういう意味で,今おっしゃったような新しい時代が来る可能性はあるんじゃないかっていう気がしてますね。

A 今いわれましたシミュレーションするということですが,まさに,自然科学っていうのは,実験による正確な再現ということが一番の武器なんでしょうね。だからこそ実験ができない場合に計算機が有用である,っていうことがおおいに考えられる。その意味でシミュレーションできるというのは,非常に大きな力を持つんじゃないかと思うんですけれども。そしてそうなりますから,それこそいわゆる自然科学に限らない。

長尾 そうそうそう。そうですね。その本には,人間の認識能力とか人間の頭の活動のことばっかり書いてきましたけれども,もっとそれ以外に,人間の活動で作り上げてきた過去の遺産といいますか,学問体系,技術体系とか,そういうもの全てにわたって計算機が活躍できるわけですよね。だから,そこらへんがまあ,恐ろしいものです。使い方によって,よほど注意しなきゃいけないっていう面もあるんですけどね。

A だから今,情報科学的ということでいいますと,ひとつは,今おっしゃっているシミュレーションという,その武器ですね,それが非常に大きいと思うんですが。だからこそ,先生も確かお書きになってたと思うんですが,シミュレーションの結果の評価法ということですね,これがまた大きな問題になるんですね。つまりいわゆる自然科学の実験の場合でしたら,実際にものができるという格好で,現実味があるんでしょうけども,シミュレーションの場合は,架空性というのが,問題になるんじゃないかと思うんですが。

長尾 ええ,シミュレーションというのも非常に広くとらえていて,例えば数値解析をして,ビルの建築設計をするとかですね,そういうのもある意味じゃシミュレーションだし,原子炉の動きをトレースするのもシミュレーションだし,経済現象をフォローするのもシミュレーションだし,まあ非常に広い意味でとらえればいいんですね。まあ流体力学の計算なんて,これは計算であってシミュレーションじゃないと思うかもしれないけど,広い意味でのシミュレーションで,そのシミュレーションに確固たる流体力学の式が使えると,こういうものですよね。自然現象の場合は,式が使えるわけですけども社会科学なんかの場合はなかなかね,それができないです。

A いろんな所で,シミュレーションが,まだまだ可能なんだろうと思うんですけれどもね。

長尾 そうですね。

A 社会科学もそうですし,それから人文科学なんかでもシミュレーションできるんですよね。

長尾 ええ,そう,そうだと思いますね。

A 今でしたら,例えば心理学なんか。

長尾 ええ,認知科学とかね,心理学の分野では,シミュレーション的に計算機を使うとかいろんなことが行われてきてますけど,これからは,法律とか経済学はもちろんのこと,文学部なんかだと,まずは古今東西のテキストを入れて,テキストの解釈とか解読とか,テキストリーディングに関して,過去にどういうことがなされてきているかってなことをね,計算機でいろいろ便利に扱うことできますから。ドイツなんかでもカントとか,ヘーゲルの著作とか,そういったものは全部計算機に入れてあるし,日本のテキストについてもこれからそういうことをやれば,いろんなことできますからね。おもしろいんじゃないかと思うんですね。カントの場合なら,カントの著作だけじゃなくて,カントについて他の人がわんさと書いてる,それ全部を入れて,自由に,それこそ,ハイパーテキストっていうのかな,あるいは,マルチメディア的な形で引き出せるようにしてやるっていうのは,まあ,必要なんじゃないかと思うんですね。

絶対的真理は,存在しない!

長尾真氏
お忙しい中,本誌のインタビューに快く応じて下さった長尾真氏。
2時間以上にわたり,刺激的なお話をたくさんして下さった

長尾 まあ,しかしなんていうんですか,やっぱり最後は,人間の判断ですからね,先ほどもちょっと話のありました,価値というものを考えないといけないっていうのは,まあ,そこにあるわけで,その本にもちょっと書いておいたんですけども,今までは哲学にしろ自然科学にしろ何にしろ真理っていうか,何が正しいかっていうことを追求してきたんですけれども,結局いろいろ考えてみると何が正しいかっていうのは,絶対的真理ってのはどうもなさそうだと(笑い)。特に計算機の分野とか,これから発展する社会科学とか,いろんな分野においては,何が正しいかっていう絶対的真理っていうものは,追求できないんじゃないかっていうことですね。これは哲学においてもそうではないかと思うんですけども,そういう時代になってくると,何が正しいかということは,価値の基準を導入しないと議論ができなくなってきて,それは,価値基準に照らして何が正しいかと,そういう表現にしかなりえないわけなんですよね。自然科学の場合は,その何を基準にしてっていう『何』は,ほとんど万人が共通的に持つことができるわけですけれども,社会科学なんかになってくると,人によって,この何を基準にしてっていうのが全部違いますから,全ての人が,自分のいっていることが正しいと,こう思うわけで(笑い)。その辺のことをよほどうまく考えないと,計算機でシミュレーションして,何かの結果が出たとか,いろいろいいましてもですね,やっぱり,ほんとうにそうなのかっていう疑問が残りますよね。その辺のとこをもっと,なんていうんですか,煮つめていく必要があるんじゃないかと思うんですね。特に,計算機をやってる我々にとっては,そうだと思うんですね。人工知能なんか,みんなバラ色の話ばっかりしてきたんですけども,なんでもできるできるというけども,どういう意味でできるかですよね。計算機のベテランの人の場合だったらできるというのか,我々一般の人間でもできるというのか,子供にとってもできるというのか,あるいは,現在,もう誰でもができるのか,やればできるだろうということなのかですね(笑い),金さえかければできるのか,何年も何年も研究を進めればきっとできるようになるだろうというのか。できる,といってもなかなか,いろいろ違いますんでね。

A なんか,先生,その辺(のことが本に)よくでてまいりますね。

長尾 (笑い),その辺をついバラ色に,オーバーに,計算機をやってる我々は言い過ぎますんでね。で,社会の誤解を招くということはあるんじゃないかと思うんですね。

情報科学的視点から見いだされるもの

A やはり,(計算機は)非常に強力な武器であって,そして,先ほどおっしゃいましたように基本原理の解明だけじゃすまなくて,実際に,ものが作れないといけないというところですね。そういう意味で,この情報科学というのは,これまでの既成の学問以上に,要求が非常に高いわけですけども,そういう高い要求を突きつけるからこそ,これまでの学問で,みんなが見過ごしてきたことが,非常にあからさまになってくる,ということがあろうかと思うんですけれども。例えば,それは,先生がご専門でいらっしゃる機械翻訳の場合にですね,わたし実は前に,NHKのラジオで,先生のお話をうかがったことがあるんですけれども,広辞苑をコンピュータに放りこまないかん,というようなお話でしたね。で,この本の中にも書いておられますが,要するに,ひとつ大きなポイントは,理想的な辞書を作るということだ,というお話ですね。あれは実におもしろいと思うんですが。結局長い間日本で国語学者という人達は,日本語の研究をされてきたはずなんですけれども,現在ある日本語の辞書を考えますと,これでは,全く,まあ極端なことをいえば,使いものにならないんだ,というお話なんですよね。で,これが,わかっていたはずなんだけれども,みんなが,そこまで言わないでいた。ところが,この情報科学といいますか人工知能で,機械翻訳というのが,具体化してきたからこそ,この辞書の不備っていうのが非常にはっきりしたと。これは,非常におもしろい現象だろうと思うんですけれども。

日本語の現象全部を説明した辞書

長尾 まあ,そこは今おっしゃったように,学問ていうか,サイエンスっていうものと,エンジニアリング,つまり実際にいいものを作るっていいますかね,それとの違い,あるいは,今までの既存の学問と情報科学との相違だと思うんですね。例えば,ことばを扱うっていう場合でも,言語学者の場合は,文法っていうのはこういうものですよ,と概念的にいう。例えば,主語と述語がありますよ,とかですね,そういう典型的な,基本的な考え方だけを述べてるんですね。言語学者や国語学者で日本語文法の本を書いた人はたくさんいるけども,日本語の文法規則の全てはこれですよ,っていうふうにして全てを書いて見せた人はいないわけですね。日本語の文法規則は,こういうふうなものですよと,その骨組みのところは言うけども,じゃ,こういうかたちのもので,日本語の現象を全て説明できる文法規則を全部書き上げた言語学者,国語学者がいるかっていうと,誰もいないわけですね。ところが,機械翻訳とかそういうことをしようと思うと,それを全部きちっとやらなきゃいけないわけですね。そこが,いわゆる今までの,従来の学問と,情報科学が直面していて,解決しなければならないところの本質的な差っていうかですね,そういうことがあるわけです。まあ,辞書の場合もそういうことでして,今までの辞書っていうのは,ある意味じゃ網羅的な,いろんなことをやってきたんですけれども,それは,あくまでも日本語なら日本語ってのを知ってる人が,適当に解釈してくれて,適当に使えればいいってなことを暗黙の前提としてやってきたのに対して,計算機で辞書を使おうっていうことになると,計算機は,まあ,ある意味じゃ機械的なもので,ある意味では馬鹿ですから,辞書の内容っていうのは,厳密にこういう範囲のこういう情報を持ってなきゃ使いものにならないよ,とかいうことがはっきりしてくるわけですね。だから,辞書内容っていうのは,どういうものであるべきかっていうのは,ほんとに真剣に考えないといけないわけですね。ま,これは機械のためだけでなく,人間でもなんていうんですか,我々日本人でも日本語知ってると思うかもしれないけど,決してそうでなくて,ことばの使い方っていうのをしばしば間違えますよね。手紙なんか書いてて,はて,こういう表現の仕方やっていいものかな,と思って字引をいっしょうけんめい調べても,ほとんど書いてない,というようなことになりますんでね。特にこれから日本語っていうのが国際社会の中で,だんだん地位を高めていくわけですから,そういう意味で,ほんとに,誰でもが,きちっと,すみずみまでわかるという,そういう意味でのいい辞書ってのを作っていく必要ありますよね。で,また,計算機はそれを作るのに非常に役に立つわけで,ことばのあらゆる使い方っていうのを網羅的に集めたりですね,いろいろすることができるわけですから,辞書作りに計算機を使うというのは非常にいいと思うんですけどね。

A それには,何年くらいかかるでしょうね。

長尾 うーん,それはもう決心をして,お金をかけて,誰かががんばることさえすれば。どれだけのことを調べたらいいかっていうのは,ほぼわかってると思うんですね。ですからあとはもう,やるしかないっていう感じだと思いますね,わたしは。だから,ほんとは,まあ,わたし自身もやりたいことは,やりたいんですけどね(笑い)。まあ,全力投球でやれば,数年から10年以内で,まあ,そうですねえ,何十億円はかかるでしょうねえ(笑い)。そこが問題ですね。

A しかし,そうやって初めて,外国の人が日本語を勉強するときに,ほんとに役に立つ辞書を。

長尾 そうですね。そういう辞書ができるといいですがね。

A そして,日本の子供にとりましても,ほんとに使える辞書が。今,現存の日本語の辞書を考えますと,これは,あくまでも字引で,漢字がわからない時に引くだけでしかない,というところがまだありますからね。

長尾 そうそう。そういうもんですからね。だから,文化国家日本というような旗をかかげるんだったら,少なくとも日本語のことばについてぐらいですね,世界に恥じない辞書を作らないと(笑い)。そういうのは,京都みたいなとこでやるのが非常にあってるんじゃないかと思うんですね。こういう研究ってのは,京都。東京じゃなくて京都で,がんばってやるといいんじゃないかと思うんだけど(笑い)。

A これは,一つ典型的な,情報科学が旧来の学問に与えるインパクトだろうと思うんですけれど。

長尾 ええ,だと思いますね。

A 非常に,鮮明な,非常によくわかる例だろうと思うんですけれども。

長尾 網羅的に,徹底的にやれますからね。

知識の千差万別へ挑む

A それからまた,もっと一般的に,先生が書いておられるように,いわゆる認識論の問題で,ことばを含めて「知る」ということ,知識というものの構造ですね,これをコンピュータで取り扱おうとするからこそ,ここの所をはっきりさせなければいけない,というポイントが非常に具体的になってくるわけですね。

長尾 そうだと思いますね。

A 哲学で認識論として扱っていたとき以上にはっきりしてくると(笑い),いうこともいえるんだろうと思うんですけれども。例えば,おもしろいなと思いましたのは,知識の個人差,というふうなことをお書きになって,はっきりさせようとすればするほど,共通のものがつかめない,というふうなお話がありましたが,ああいうところの研究は今現在どうなってるんでしょうね。

長尾 ええ,そこはいちばんむずかしいところだと思いますね。例えば,先ほどの話にありました辞書なんかでも,このことばの意味はこうだ,というふうになってるわけですけども,それは,やっぱり,標準的にはそうだけども,それを,だれが,どういう場面で使うかとか,解釈するとかによって,意味は変わってくるわけですね。で,それは,その人の持ってるものごとの見方とか価値観とか,そういうものによって変わってくるんで,そういうものを計算機で実現することができるかってのは,今いちばんおもしろいけども,むずかしい問題ですよね。しかし,それにアタックできないことはないわけで,あることばなら,その意味というのは,こういう場合には,こういうふうな解釈もありうる,こういう場合には,こういう使い方もありうる,とかいうふうに,非常に網羅的に,連想的に,ことばとか概念同士の間に関係をつけておいて,で,どういう価値観とか見方をしてる場合には,そういう膨大な知識の中から,この辺のこの部分が関係してるよ,とかいうふうに,切り出してくるっていうことを考える。つまり,ものの考え方によって,あることのある意味,ある側面が見えてくる。で,違うものの見方の場合は,その単語の違う側面の意味が見えてくるっていう,そういうことがあるわけですね。で,それは,計算機でどうやったら実現できるかってのは,いろいろこれから解決しないといけない問題ですけども,まあ,がんばればできるんじゃないかと思うんですね。しかしその時に,それじゃ,相手と自分とがどこまでそういう場面の中で共通性を持てるか,共通理解ができるか,という,そこんとこは,その次の課題になりますよね。だけどまあ,なんていうんですか,それはマンマシンシステムみたいにですね,人と人とがコミュニケーションするのと同じように,機械と人間とか,あるいは機械同士がコミュニケーションを徹底的にやることによって,そのギャップをうめていくようにする。だけどまあ,うめていく時にどこまでやったら完全にうまるかってのは,まあ,問題ですけどね。その辺のとこは,やっぱり哲学の問題になるんでしょうね,きっと。

A まあ,しかし,やはりことばだけじゃなくって,そういうシミュレーションっていう格好で,1回外に出すことができるというのが,手段としては,非常に役に立つところなんでしょうね。

長尾 そうそう。そうだと思いますね。今までのその,人間が観念論的にいろいろ話してる場合は,例えば,ヘーゲルとかカントが,こういうことばをこういうふうに使ってるとかいっても,ほんとにその人がそう思ってたか,あるいは,読んだ人がどう思うかってのには,ずいぶんギャップがあるに違いないわけですから,それを,いかにして客観化するかっていうことが計算機を使うと,やらざるを得ませんからね。で,また,これからはそういうものを書く人も,共通理解可能というレベルで書くと,自分の考えをいやでも計算機のレベルで客観化しなければならないんで(笑い),むずかしいけども,汎用性が出てくる可能性がありますね。

森羅万象の知識の検索

長尾真氏

A 先ほどおっしゃったのは,連想のネットワークですね。それからまた,記憶のネットワークと申しますか,組織化,というふうなお話だと思いますが。これをどういうふうにうまく組織化すれば,今度はうまく検索できるか,と。今は,要するにどんどんどんどん放り込んでるだけだ,というお話がありましたが,これは,しかしやろうとするとたいへんなことだろうと思うんですが。

長尾 ええ,たいへんな仕事ですね。とくに森羅万象の知識っていうものを相手にしようとして,人間の頭の中は森羅万象の知識が入ってるわけですけども,それを計算機の上で実現しようとすると,ものすごくたいへんなことですね。ですから,とりあえず,やれるとこからやっていくってことでしょう。まあ,非常に現実的な話になるかもしれませんけども,百科辞典の充実,電子化,あるいは図書館の電子化とかね,そういうふうなことを,最初のエンジニアリングのステップとして考える。図書館には,何百万冊という本があるけれども,その本がいったいどういう内容のもので,それぞれがどういうふうな分類のされ方をしてるか,とかですね。で,ある人がこういう要求を出したときに,その何百万冊あるうちの,これとこれとこれが,こういうかたちで要求を充たしてますよ,関係してますよ,とかいうことを,すっと出してきてですね,その人に与えることができるかってのは,これは,非常におもしろい問題で,なおかつ,がんばれば実現性のある問題なわけなんですね。ですから,本とか雑誌とかそういうものの内容の,どういうところをうまく取り出して,組織化して,検索の対象として構造化して入れておくかっていうのはね,電子図書館として,一番これから研究するとおもしろいし,実用になる。しかも関西文化学研都市には国立国会図書館の関西館というのができますんでね。それも電子化図書館をやりたいとおっしゃってるんで,そういう所で実現していくことができると,まあ非常におもしろいんですけどね。

A もっとわたしは,身近なところで考えていたんですが,例えば本屋へ行ったときにですね,本のタイトルと著者がわかっていれば,店員さんはなんとか見つけてくれますね。ところで,こんな感じの本が読みたいんだけど,といった時に,こんなのどうですか,といって,5冊くらい紹介してくれることができる本屋があったら,これは,はやるだろうな,と思うんですけど。

長尾 そうですね。いや,確かにそうなんですね。確かにそうなんです。本の表題と中身がぜんぜん違うことがあるんで,油断なりませんしね。ですから,今おっしゃったことに近いことは,まあ,近い将来できる可能性はあるでしょうね。ええ,それには,がんばらないといかんと思うんですね。まあ,そういうことをやるためには,やっぱり,ことばの問題にもどってくるんですね。で,ことばとことばが連想的にどういうふうな関係を持ってるかっていう,そういうことを,うまく辞書に入れておくといったことが必要になるわけですね。

A それから,これは変な話かもしれませんが,そういう時,詩人のことばなんてのも。

長尾 詩人のことばは,これはまだまだむずかしいんですね。今,いろんな人が研究し始めて,ぼくらもやりかけてるんですけども,比喩の問題ですね。比喩的に言葉を使ってる。例えば,赤帽がやって来た,といえばですね,赤い帽子が来たんじゃなくて,駅の荷物を運んでくれる人がやってきた,っていう話になるわけですね。だけど運動会だと,赤い帽子をかぶった子がやって来た,というわけです。そういうふうにまあ,赤帽っていうのは,駅で人のものを運搬する人だってのは辞書に書いてあるわけですけども,そういうことから始まって,まあいろんな比喩があるわけで,そういう比喩を計算機でどう扱うかってのは,おもしろい問題ですね。しかし,やっぱり,そういうことを知識として計算機に入れとかないと,だめなんですね。そうすると,先ほど話のあった,どういう辞書を作ったらいいかっていうときに,ことばの辞書なんだけども,ことばにまつわる社会的な知識っていうものもどんどん入れていかないといけなくて,ですから言葉の辞書がだんだんだんだんこう,百科辞典的に,膨らんでいくわけですね。そういうものを作る。

A そうですね。あの,イメージとシンボルの辞書なんてのは,最近いくつかでてきておりますね。

長尾 ああ,よくね。いろいろ出てきてますからね。ああいうふうな形で一方では百科辞典的にずうっとすすみながら,一方では専門分野毎の辞書の方にすすんでいく,例えば計算機の分野の専門のことばってのは,数万どころか2,30万はあるでしょうからね。そういうものが,どういう内容のものであって,どういうふうに相互的に関連してるかってのを,きちっと体系づけていくとかね。そういう両方の世界をやらないといかんってことになるんですよね。で,そういうことからもっと進んでいくと,なんていうんですか,常識的な知識というのを計算機に覚えさせる。どうしたら覚えさせられるか,これは問題ですが,それをしないと計算機はほんとに,その,人間的なことができないっていうふうな話になってくるわけですね。どこの家庭でも,おとなも子供も奥さんも,みんなが使えるような計算機ってなことを考えると,そういう常識的な知識ってのを山ほど入れとかなきゃいかん,とこういうことになるわけですね。で,こりゃまあいちばんむずかしい。

A 実際に,親が子供を教えるのが非常にたいへんな時代になっていますから,それができたら非常に役に立つんでしょうね。

長尾 まあ,だけど,計算機で子供を育てるんじゃちょっと困りますね(笑い)。まあ,そういう意味じゃ,やっぱり,計算機ってのは,研究としては,いかに人間的なものを作り出していけるかっていうことを追求しなきゃいかんけども,作られたものを実際に使うという立場からみると,計算機は,あくまで,道具としてね,便利な道具として扱う,ということで進んでいくんでしょうね。きっとね。

ことば・イメージ・音を駆使したコミュニケーション

A まあ,そうやって,ひとつの理想としましては,先ほどいわれましたような格好で,ハイパーメディアっていいますか,知識の統合化が行われる,っていうのは,具体的なイメージとしてはどういうものなんでしょうか。例えば,あることばに関して,それの連想するネットワーク全体を,ことばで表現するだけじゃなくって,いろんなメディアを使って表現するとか。

長尾 そういうことだと思いますね。やっぱり。ものごとの中で,ことばでは表現できないことっていうのはたくさんあるわけですね。今までは,コミュニケーションの道具っていうことを考えた場合に,電話のようなレベルのことで,ことば以外のコミュニケーションの手段てのは非常に限られてたわけですね。ところが,計算機を使うことによって,あるいは,将来の計算機技術を使うことによって,ことばだけじゃない,他のメディアっていうのが自由に使えてコミュニケーションができるような時代になってゆくわけです。ことばで表現しにくい内容で,相手に伝えたいということは,わんさとあるわけで,それを,ことばと交えながら,統合的な形で,お互いにやりとりするという,そういう立場で考えると,マルチメディアってのは,わかってくるんじゃないかと思うんですね。ですから,それは,イメージのこともあるし,映画みたいな動くイメージのこともあるし,音楽とかね,音響とか,いろんな音の世界のこともある。ただしかし,それをやっぱり,常に,言いたいこととか,あるいは,見たいこととか,そういうものと,ピタッと結びついた格好でね,やれないといけないわけですね。テレビから流れてくるのを,一方的に,パッシブに受け取るだけじゃなくて,いろんな,そういうのを見ながら人間がイマジネーションを働かしてる,それを伝えられて,そういうイマジネーションに,常にフォローするような形で,いろんなものを見せてくれるとか,聞かしてくれるとかですね,ヒントを与えてくれるとか,なんかそういう,相互コミュニケーションの中で,マルチメディアっていうのを考えるとおもしろいんじゃないかと思うんですね。

A だからこそ,先生が,お書きになっておりますように,まさにあの,ヒュームですね,情動の原理というのが大切になってくるという・・・

感性へせまる

長尾真氏

長尾 そう。だからそこんところへ計算機はどこまで迫っていけるかですよね。これからはね。まあ,理知的な部分で,まだまだできないことたくさんありますけども,ま,かなりのことができてきたんです。だけど,理知的な,理性の分野じゃなくて,感性の分野で,計算機がどこまで迫れるか,というのは,これからの課題でしょうね。その場合には,ことばもやらないといけないけども,ことば以外の情報表現手段っていうのが,おもしろい時代になってきますよね。

A そうですね。今,コンピュータをはなれても,そこのところが,非常にむずかしい時代になってきていますね。だからこそ,河合隼雄先生の本っていうのが,非常によく読まれる時代なんですけども。

長尾 そうですね。ですから,それは,やっぱり,だんだん領域が広がってきて,単に計算機が,電話機みたいなものから,テレビとかパソコンとかいろんなものに広がっていくだけじゃなくって,もっとこう,情報環境っていいますかですね,人間の生きてる,活動している環境そのもの全体に対して,ある種の手段を提供するとかですね,そういうふうなところまで発展していきつつあるわけですね,現在は。それによって,その,人がそれの犠牲になるようなことになるんじゃこまるんですけどね。こまるんですけども,ま,うまく使えば,そういうことでもって,自分の能力は,最大限度に発揮できるとか,あるいは,相手にいいたいことを,ぴしっと伝えられるとか,いろんなことができますよね。

A まあ,まだ全体として否定的な見方からしますと,自分で伝えたいことを持っていない人間に,そんなものを与えたら,どうなるかっていうふうなことをいう人もいると思うんですけれども。しかし,本当は,その,伝えたいことを,自分が自分の中に発見していくためにも使える道具にしてゆかなければいけないんでしょうね。

自分をわかる,自分をのばす道具

長尾 そうですね。おっしゃるとおりだと思いますね。そういう,手段を提供して,みんながやっぱり,それによって,まあ,自己開発していくっていうか,そういうことをやらないといけないんでしょうね。やっぱり,世の中は,何らかの方向に,ずうっと動いていってることは間違いないわけですから,そういう方向に動いていっている中で,自分っていうものを生かしていくためには,いろんなことで,まあ,自己開発するとか,勉強するとか,いろいろなことをしなきゃいけませんからね。そのための手段を提供するっていう意味でも,情報技術ってのは非常にね,いろんな可能性をもってますから。

A 今,現代社会っていうのを考えますと,やはりいちばん大きな問題は,教育であろうと思うんですけれども。そうした場合にその,偏差値がすべてだということで,ある意味で,いきづまっていると言われますが,それは,やはり,まず共通に話ができるところを,まだもっていないということが,非常に大きいことかもしれませんからね。

長尾 そうですね。

A そういうところでコンピュータが使えるといいと思いますし,またその可能性はあると思うんですけれども。

人間の多様性にこたえる

長尾真氏

長尾 そうですね。今までは,あまりにもこの,なんていうんですか,価値をはかる尺度が,単純すぎて,共通1次テスト的な,そういう尺度で計ることしかやってないわけですけどね。もっともっと人間は多様な能力もってるし,多様性をもってるわけですから,この多様な世界の中で,ある子は,どういう特徴をもってるかっていうのは,みんなそれぞれあるわけですからね。そういう能力をいろいろな分野で発揮できるような手段とか,環境とかそういうものは,情報技術をもっとうまく開発していったら,整備できる可能性はあるし,そういう多様な世界の中で,能力を計っていけば,それは,いいんじゃないかっていう気はするんですね。それを,今はあまりにも,一つの尺度でしか計らないもんだから,いろいろ歪がでてくるわけですよね。

文化依存型

長尾真氏

A ところで,またちょっと話は変わるかもしれませんが,もうひとつ,読ませていただいておもしろかったのは,コンピュータは,将来,文化依存型になるんじゃないかっていうお話なんです。いわゆる,自然科学っていうのは,基本的には,文化依存型ではありませんね。

長尾 そうですね。ええ。

A ところが,いわゆる社会科学,人文科学っていうのは,これは,ある意味で文化依存型になっていますね。

長尾 そうですね。ええ。

A そうしますと,情報科学というのは,いわゆる自然科学と性格の違うところがあるんだろうなあと思いまして。

長尾 ええ,それは,違うと思いますね,やっぱり。今までの自然科学とか,あるいはまあ,西欧的ものの考え方っていうのは,ある考え方を出すときは,常にその,普遍性っていうことを考えて,やってきたわけですよね。だから,普遍性を考えるってことは,あることを考えたら,それはもう,西欧世界だけでなく,世界中どこに行っても,それが成り立つんだと。だからどこに対してでも,それを適用してゆくべきだと。こういうことで西洋の考え方,特に自然科学の考え方は作られてきて,それは,まあ,非常に成功して,今日の科学とか技術とかがあるわけですね。それがまあ世界を席巻してるわけですけども,とことんそれをやってきたあげくを考えると,なんていうんですか,そういう方法では説明できない部分てのがたくさんあるってことがだんだんわかってきたんじゃないかと思うんですね。で,そういうのは,いったい,じゃあ,どうしたらいいかっていうと,単純な意味での普遍性で押しまくってても,解決できない問題ですから,やっぱり,特殊性というものの内容っていうのを,よくみて,その特殊性に価値を見出していくというか,そういう,世界に徐々に変わっていきつつあるんじゃないかなという気がするんですね。そうすると,そういうものは,従来の科学技術の考え方では,なかなか扱いきれないわけなんですけども,計算機のように,シミュレーションとか,いろんなことが,個別的にやれる技術になってくると,そういうことが扱えて,これからの多様な価値観の世界,多様な社会とか文化とかを持っている世界に対して,能力を発揮していける手段として,情報科学ってのは,また,こう,ハイライトがあたってくるっていいますかね,そういうことになってくる。情報科学っていうのは,必然的に文化系的学問の色彩が強いし,そういうふうにつくられないと,それぞれの社会で,ほんとにいいものとして受け入れられていかない可能性が高いわけですね。画一的なものでは。

A そうですね,先ほどからいわれてますような,自然科学とは別の意味での価値,ただ単に研究を進めていく上でのデータの価値とかいうんじゃない,もっと社会的な意味での価値というのが,いつでも問題になるというふうなお話につながるわけですよね。

長尾 そうですね。例えば,8ビット=1バイトがアルファベット文字っていうのが計算機の基本にあったわけですけどね。日本で,計算機がほんとにうまく使われるためには,それじゃだめなんですね。漢字というものを扱えないといかん,それには16ビットでやらなきゃいかんとかですね。そういうところでも,もうすでに違う内容が入ってきてるわけですね。これはまあ,文化依存型の第一ステップのようなものですよ。こういったものがうまく開発できないと,これだけワープロが普及することにはなってなかったわけですね。パソコンにしてもそうでしょう。ですから,なんていうか,計算機のソフトウェアといえども,根本的な,原理的なところでは世界に通じる普遍性をもってるのかもしれませんが,それを現実のものとしていく場を考えるとやっぱり,文化依存的な内容を十分に盛り込まないと,ほんとうにいいものはできないっていうことになるんじゃないかと思うんですね。

A これから,余計そうなんでしょうね。情報処理技術者なんかは特に,これから先は,いわゆる,非常に偏狭な格好でのナショナリズムじゃなくって,多様性という意味での独自性というのが必要になるんでしょうね。

長尾 ええ,そうなんですね。よく,そういうものを見ていかないといけませんね。ま,そういう意味じゃ,私も,大昔に,学生の頃にですね,梅棹忠夫先生がまだ京大の教官をしておられた頃に,講演会がありましてね。電気工学科へおいでいただいて,講演していただいたことがあって,その時におっしゃったことを思い出すんですけどね。その時の梅棹先生の表題がですね,民族学的電気工学っていう表題だったんですね。今でも覚えてますけど。ま,いろんな話をなさったんですけど,一つ今でも覚えてるのはですね,電気洗濯機っていうのはこんなもんだっていう概念で,世界中どこでも同じもの作ったら売れると思ってたら,大間違いだとおっしゃった。日本じゃ電気洗濯機は,こんなふうに,くるくる回って,パパパッと洗うだけだけど,ヨーロッパでは,そうじゃないんだと。洗濯機の桶にヒーターをつけて,お湯をぐらぐら煮上げらせる。それで,ぐじゃぐじゃっと洗うんだと。そういう洗濯機でないと売れない。なぜか。それは,ヨーロッパ人はちり紙っていうのを使わない。ハナはハンカチでチーンとかむものである。そうすると,それをきれいにするには,ぐらぐらぐらぐらハンカチを煮ないとダメなんだ。そういう洗濯機をヨーロッパでは作らないとダメなんですよ,というわけです。だから,同じ洗濯機ったって,使うところによって違う,ということを考えないとダメなんだから,電気工学っていうのは,世界中普遍だと思ってるかもしれないけれども,それは,決してそうじゃないんだ,という話をなさってね(笑い)。非常におもしろかったんで,今でも覚えてますけど,情報科学になれば,もっと文化依存的,状況依存的だという気がしますね。

A ちょっと,話は,わきへそれますが,実は,今回,この特集の中で,梅棹先生の,あの,「情報の文明学」ですね,あの,コンニャク情報ってのが出てくる。あれは是非,紹介したいなと思ってるんですが。

長尾 ああ,なるほど,そうですか。

A ま,それで,もうあまり時間ございませんが,今回の特集では,最初に申しましたような,リーディングサイエンス,という意味で,情報科学とか情報科学的とでもいうようなものが,これから問題になるんじゃないか,というところを取り上げたいわけなんですが。そして,実際に,哲学の先生でヒュームをやっておられる方などにも執筆していただく予定でして。

長尾 ああ,そうですか。

A まあ,非常にむずかしいんですけれども,今回は,とにかく,情報科学的なものの見方,っていうのを探ってみようと考えております。実際これ,まだ,誰も,はっきりとはいわれないことで。

長尾 そうですね,哲学的,社会学的には,まだ何もはっきりしたことが考えられていませんからね。

A だからこそ,トライアンドエラーであってもですね,,本誌で出したいな,と考えているんですけれども。

長尾 なるほど,そうですか。(といって,長尾教授は,席を立たれ,1冊の冊子を見せてくださった。それは,情報知識学会誌1992年12月号Vol.2No.1の長尾教授が執筆されたところで,タイトルは「情報社会の生態学」とされていた)

新しいブランチの提唱 (注1)

長尾 (本誌に情報知識学会誌を示されながら)まあ,哲学じゃないんだけども,ま,情報ってのはこれから,なんていうんですか,いわゆる計算機やってる人間とか,情報科学者と称してる人たちの範囲で,議論してるだけじゃダメだと思いますね。情報っていうのは,もっと社会科学的に,もちろん哲学的にも,広くとらえて,総合的な立場から位置づけていくっていいますかね,そういうことを,しないといけない時代になってきたんじゃないかなっていう気がするんですね。で,また,それをするだけの値うちもある。情報は社会に対して既に大きなインパクトを与えてるし,今後その影響はますます大きくなってゆくでしょうからね。だから情報というものを社会科学的に考えるということは,ものすごく大切なことになってゆくと思うんですね。人間のものの考え方を進めていく上でも,そういうものを,ひとつ明確にした上で,つぎに進むっていうことをやる必要があるんじゃないかっていう気がしましてね。ま,社会科学のひとつのブランチとして,そういうこと(情報社会の生態学)(注2)をちょっと考えた。考えたっていうか,考えなきゃいけませんよ,といってるわけで,内容はこれからなんですけどね。

A そうですね。確か,梅棹先生も。

長尾 そうそう,梅棹先生も同じようなことを言っておられましたね,確かにね。

記述主義的・経験論的

長尾真氏

A で,野心的な試みでしょうけれども,情報科学的っていうのはどういうことか,っていうのを,試行錯誤で,なんとか探りたいと考えております。ところで,先生の本を読ませていただいて,先生がお考えになっております情報科学的な見方っていうのは,一つは,公理論的なやり方じゃなくって,記述主義的なやり方をとるということだと思うんですが。

長尾 そうですね。ええ,そうです。

A これは,まさに,ある意味で,物理学なんかとは,だいぶ,やり方が違うところがありますね。

長尾 ええ,だいぶ違いますね。

A しかし,いわゆる人文科学,社会科学におきましても,公理論的なやり方を,やりたがる人も,やはり多いわけですけれども。

長尾 ええ,そりゃあ,多いですね。

A そこで,やはり記述主義的っていうのは,(情報科学的なものの見方の)一つの特徴じゃないかな,という。

長尾 はあ。

A それと,因果律的な厳密性っていうのは,要求しなくていいんじゃないか,というふうなお話もありましたね。

長尾 ええ(笑い)。ええ,そうですね。

A もっと,この,経験則っていうのを大事にした方がいいんじゃないか,というふうなお話も,確か。

長尾 ええ,そうですね,つまり,数学とか物理学における因果律といったものが,情報科学の中に,ほんとに成り立ち得るのかっていう,そういう問題ですね。

A だから,あの,先生は類推とか類似性ということを,さかんに,書いておられますが,おもしろいことに,わたしはよく知らないんですが,最近の学問の本でですね,方法論という話になりますと,アナロジーっていうことは,あまり言わなくなったんではないかと思うんですが。特にその,物理主義っていうものが強いですから,歴史学においても,アナロジーっていうものは,学問の方法論としてはあんまりいわないんじゃないかな,と思ってるんですが。いわゆる学問として,ということになりますがね。そこのところで情報科学的っていうのが,人間の知能の実現というか,機械的実現ということから考えると,アナロジーっていうのをもっと考えなきゃいけないっていうのは,非常におもしろいな,と思うんですけれども。

長尾 はあ,わたしの基本的な考え方っていうのは,人間の頭のメカニズムっていうのは,過去に入ってきたデータを記憶していて,それとのアナロジーで,いろいろ反応してるっていうか,そういうところに基本的なメカニズムがあるんじゃないか,と思ってますのでね。で,情報科学っていうのはまあ,人間の頭の中のいろんな知的はたらきを,客観的に,シミュレーション的に計算機の上で実現していくものであるならば,やっぱりこう,人間頭脳の基本的メカニズムであるアナロジー的なメカニズムっていうのを,情報科学の中でもっともっと,やる必要があるし,やるといいことがいろいろと出てくるんじゃないかっていう気がするんですね。他の学問においても,もっとアナロジーの考え方でやると,面白いことがいろいろあるんじゃないかって気はしてるんですけどね(笑い)。

A そうしたアナロジーを積極的に使うやり方が,他の学問に対するインパクトになるかもしれないわけですね。

長尾 そうですね。ま,もっと広い意味での,あるいは,漠然とした意味でのアナロジーに脱線してしまうかもしれませんけど,例えば,経済学なら,ある種の経済現象が,例えば,物理学のどういうことにアナロジーを求められるか,とかですね,まあ,人文社会科学の研究方法論ってのは,自然科学の方法論のアナロジーでやってるような面が多いですよね。

で,それが,その,それを逆に公理論的にやってゆくと,うまくいかないっていうことで,そこで,まあ経験主義的な立場にならざるを得なくて,まあ,アナロジーってのを,いろんなところで働かさざるを得ないように思うんですね。

A あまり,経験主義的なんていうのは,外国では違うんでしょうけれども,日本では,立場としては,強くいわれないところがありますね。

長尾 ああ,かもしれませんね。アメリカの計算機科学の連中なんかも,今までは,公理論的な方法っていうか,数学的な方法で押しまくってきたんですけども,最近,やっと,我々が以前からずっとやってきた,経験論的方法っていうか,いろんなデータに基づいてやらねばどうにもならんということがわかってきて,データを集めて,そこからアナロジーによって,いろんなことを推測していかないといけないんじゃないかっていう方向が徐々に出てきてますね。

A ああ,そうですか。

長尾 まあ,日本もけっこうアメリカを向いている人が多いから,もうちょっとしたら,そういうふうになっていくんじゃないか,と思いますけどね。

A しかし,だからこそ,変な話ですが,ぐうっと人間に近寄せますと,経験主義的な立場をとるっていうのは,まさに,経験を重視する,経験を頼るわけですから,自分の経験というものが,非常にあやふやであったら,これは,どうにもならないわけですよね。

長尾 そうですね。だけど,その経験が,絶対的に正しいということはないわけなんで,そこがまあ,苦しい。これはまあ,どうでしょうね。人間の苦悩ってのは,そこにもあるんじゃないかと思うんですけども。そこでやっぱり,やるべきことっていうのは,経験をできるだけたくさん集めるっていうか,経験をつむことによって,経験的規則を作りあげて,その中においては,少なくともコンシステンシーっていうか,無矛盾性が保たれるようにする。そして,その範囲を,できるだけ全知全能に近いところにもっていくことによって,かろうじて,こう,真実性を保つっていうか,真理性を保つ,ということしか,人間はできないんじゃないか,というふうにまあ,思ってるんですけどね。ま,そんなことを書いたつもりだったんだけど(笑い)。

A そうですね。

長尾 頼りない話で,ピシッとしないんですけど,まあ,そういうところにしか,真実はないんじゃないかな,という気がするんですね。

A いや,だからこそ,五感をもったコンピュータってのは非常におもしろいな,と思うんですけれどもね。あの,身体性の問題っていうのは,今,哲学でも,やっぱり,また,非常に大きな問題になってきていると思うんですけれども,確かに,五感的な経験というものは,それを,絶対視するわけじゃありませんけれども,それを,きちんと,正当に取り扱うっていうことが,ほんとに,研究者にとっても,これは非常にだいじなことなんでしょうね。

長尾 そう,そう思いますね。それのちょうど,裏返しみたいになるのが,マルチメディアシステムみたいなものだと思うんですね。ですから,これが両方ともうまく手をつないで発展していく時代になっていくんじゃないでしょうかね,これからは。

A ま,それは,うまくそれを使うことによって,人間も発達できる可能性もありますが,反対に,人間の方が,それこそ極端な場合に,徹夜,徹夜で,ソフトを開発しているという中では,ちょっとむずかしいですね。

長尾 (笑い)それは,そうですね。

A (笑い)日の光,季節がいつかもわからないような生活をしては,やっぱり,まずいでしょうね。

長尾 うーん,現実の世界になってくると,そういう問題がね(笑い)。解決しなきゃいけないことですからね。ソフトウェアの詳しいテクノロジーのことは,わたしはあんまりよく知らないんですけど,そろそろ,そういうものの過去の蓄積をね,それこそ,アナロジー的に取り出してきて,再利用して,うまくリオーガナイズすることによって,新しいソフトを,システムを,ソフトシステムとして構成するような時代にいかないといけないんじゃないかと思いますね。一から,こう,シコシコ書いてるんじゃたまりませんものね。そのような,いろんなことができるような,ソフト蓄積の時代にもそろそろなってきつつあるんじゃないかっていう気もしますしね。

A としますと,特にそういう分野で仕事をしている人にとっては,非常にだいじなことは,広い視野をもつことでしょうね。いわゆる専門家っていうのは,日本では,特にそうでしょうが,非常にせまく分野を限っていけばいくほどいい,というふうなところがありましたけれども。今,先生のお話は,新しいパスを見つける,とかいうふうなことでしょうが,リオーガナイズっていうことになりますと。そうしますと,それこそ,できるだけ広いところを見ていないといけないわけですね。

長尾 そうそう。だから,情報科学の場合だけじゃなくて,これからの全ての科学は,非常につらい立場になると思うんですね。狭いけれども深く追究していかないといけないとともに,その追究していく部分が全体の中,さらに広くは社会の中で,どういう位置をしめていて,全体とどういう相互関係を保ってるのかっていうことを常に見渡してないといかん,ということになりますのでね,これはなかなかたいへんな時代だと思うんですね。そういうふうに見ていないもんだから,例えば環境破壊とか,地球破壊とか,いろんな問題が出てきて,ナチュラルサイエンスとか,工学ってのが非難される時代になってきてるわけですからね。ですから,あることをしながら,なおかつ,すべての,それにまつわる全ての世界へのイフェクトっていうのを見ていないといけないわけなんで,そういうことが,技術者,1人の人間でできるかっていうと,これはもう,非常にたいへんな問題ですよね。だからそれを,何らかの形で,情報技術的なものによって,サポートするとかですね,そういうことにも情報技術ってのは使えるんじゃないかって気がしますけどね。

A まさに,あの,マルチメディアで,っていうことになるわけですね。

長尾 ええ。

A お忙しいところ,今日は,どうもありがとうございました。

(以上長尾教授の研究室にて収録)

編集部注

注1 長尾教授が提唱する学問分野。長尾教授は,人間は,情報環境に大きな影響を受けているという意味で,情報を人間と相互作用する独立の対象と見て,その相互作用を調べることが必要となってきている。このような関係は,動植物とその環境の相互作用を研究する動物生態学,植物生態学と類似のものである,として情報生態学という学問を提唱している。また,長尾教授は,情報に関して考えられる学問として,情報生理学,情報形態学,情報分類学,情報媒体学,情報論理学の五つが考えられるとしている。これらの詳細については,情報知識学会誌(1992年12月号Vol.2 No.1 P.1~P.6 巻頭講演 情報社会の生態学)参照。

注2 長尾教授が新しく提唱する学問。ここでは,情報の群落と動態,情報同士の競合,情報の消費,情報の力・行動力,情報の地理的・民族的・国家的特徴など多くの独創的な考察要素が挙げられている。この詳細については,情報知識学会誌(1992年12月号Vol.2  No.1 P.1~P.6 巻頭講演 情報社会の生態学)参照。

この著者の他の記事を読む
長尾 真
Makoto Nagao
  • 京都大学工学士,同大学院修士課程修了(電子工学専攻),工学博士
  • 元京都大学総長
  • 前国立国会図書館長
  • 京都大学名誉教授

上記の肩書・経歴等はアキューム22・23号発刊当時のものです。