トップ » 最新号・Vol.22-23 » 京都情報大学院大学初代学長 萩原 宏先生が永眠 学校葬・追悼式を挙行 » 情報工学の必要性を熱く語り,行動された萩原宏先生

Accumu 京都情報大学院大学初代学長 萩原 宏先生が永眠 学校葬・追悼式を挙行

情報工学の必要性を熱く語り,行動された萩原宏先生

元京都大学総長,京都大学名誉教授,前国立国会図書館長 長尾 真

萩原宏先生には事あるごとに人生相談をお願いするなどしてきました。まさに私の恩師であられました。謹んで哀悼の意を表します。

萩原先生に関する思い出をいくつかご披露し,先生のご功績を偲びたいと思います。

萩原先生は,1950年に京都大学をご卒業され,1957年に日本放送協会(NHK)から京都大学助教授として戻られました。翌年,当時3年生だった私は,萩原先生いわく「日本で初めての半導体の講義」を受けました。ノーベル賞受賞者であるショックレーの,当時翻訳されたばかりであった著書をもとにした講義でしたが,とても難しい内容だったのが今では懐かしく思い出されます。先生が京都大学初となる電子計算機「KDC-1」の開発に着手されたのは1959年。萩原先生は,コンピュータの論理設計を監督されるとともに,回路素子の設計,そして安定化に従事されました。その時,修士課程1年だった私は,メーカーの工場で電子計算機の信頼性を向上させるためのお手伝いをさせていただきました。一つの論理素子では広い許容範囲がありますが,何百もの素子をコンピュータに組み入れると,その許容範囲が小さくなり,信頼度の劣化が起こります。その劣化をなるべく防ぐよう設計するのに,萩原先生は相当苦心されました。

萩原先生は1961年から,マイクロプログラミング方式の開発に取り掛かるのですが,これは当時では考えられなかったことで,素晴らしいアイデアだと感心しました。しかも先生は,それを独力で進められました。このマイクロプログラミング方式とは非常に面白いもので,マイクロプログラムのスイッチボードを並べ替えることで,様々なコンピュータを可変的に作ることができました。また,マイクロプログラミング方式の非同期方式を取り入れたため,コンピュータの処理が高速になり,その結果,日本のコンピュータの歴史を変えたと言える「KT-Pilot」を開発,その成果が,名機「TOSBAC-3400」の開発へと発展していきました。私は,ただただ驚くばかりでした。

萩原先生が京都大学教授になられたのは1961年。京都大学工学部電気工学科を1950年に卒業されてから,わずか11年後です。これは先生の実力を示す象徴的な出来事と言えます。その後たくさんの人材を育てられ今日に至っています。研究・教育では古い電気工学にはさほど関心を持たれず,「新しいことをやるんだ」と半導体からコンピュータの分野に移ってこられましたが,「これからは情報工学,情報学が必要となる時代だ」と常々おっしゃっていました。1977年には京都大学にも情報工学科が誕生しましたが,学生は30〜40人の小規模な学科。先生は「日本の将来のためには,もっと多くの人材を育てなければならない」と,教官が100人規模という「情報工学部」構想を描かれ,内容の細かい設計などを進められました。この構想は,公表前に新聞に書かれてしまったために大学当局の印象が悪くなり,残念ながら実現はしませんでした。

結局,1988年,京都大学に情報工学研究科が誕生しましたが,萩原先生は既にご退官されていました。しかし,萩原先生は,やはり情報工学,あるいは情報学というもののために人材をしっかり育てなければならないという考えをお持ちで,このご自身のお考えを初志貫徹された結果が,京都情報大学院大学の創設につながったのではないかと考えております。

2004年4月の開学時にお会いしたのですが,その時の萩原先生のうれしそうなお顔は,今でも忘れられません。日本の情報工学,情報学を成長させ,日本の将来を担う多くの人材を育ててこられました。頭が下がるばかりです。

KCGグループの皆さんは,萩原先生のたどられてきた道を踏まえ,これからも日本の情報分野の発展に貢献していってください。そのことが先生への最大の恩返しとなるでしょう。萩原先生のご永眠は誠に残念ではありますが,これからの日本の情報分野の発展を期待いたしまして,萩原先生に礼を尽くしたいと思っております。

この著者の他の記事を読む
長尾 真
Makoto Nagao
  • 京都大学工学士,同大学院修士課程修了(電子工学専攻),工学博士
  • 元京都大学総長
  • 前国立国会図書館長
  • 京都大学名誉教授

上記の肩書・経歴等はアキューム22・23号発刊当時のものです。