Accumu 京都情報大学院大学初代学長 萩原 宏先生が永眠 学校葬・追悼式を挙行

お菓子で団らんの後の本質突く「一言」

京都産業大学コンピュータ理工学部教授 新實 治男

京都大学工学部の情報工学科(当時)では,4回生に上る時に,配属研究室を「選択」することになっていたのですが,正直なところ「萩原研究室」は私の第一希望ではありませんでした。今から思うと数々の「偶然」が作用した結果の,配属決定先だったように思います。さらに,4回生の春頃の時点では,大学院進学などということは毛頭考えていなかったことでもあり,それが結果的に今も「大学関係者」で居る,ということになろうとは,本当に萩原先生との「ご縁」が無ければ,そして,先生にその道筋をつけて戴かなかったら,全くあり得ない話であったと思います。

学生時代の思い出としては,先生は,よく土曜の午後に,学生の部屋(研究室)にお茶菓子を持って来て下さいました。(当時の我々はそれを「襲撃」と呼んで,畏れていましたが…)その美味しいお菓子などをつまみながら,皆口々に好きなことを喋るのですが,学生の方が何を言っても,先生はいつも穏やかに微笑みながら聞いておられました。そして,最後の方で,本質を突いたような「一言」を残し,教授室へ戻って行かれるのです。今となっては,何をうかがったのか,印象に残っている「お言葉」は幾つかあるものの,特にその「本質」の部分については,ほとんど記憶がありませんが…。

また,当時の萩原研究室では,年中行事として夏休みの始め頃に「海水浴」旅行(というか,合宿?)に出かけていました。車数台に分乗して出かけるのですが,先生は必ずご自身のお車(カローラ/MT車)で参加されていました。この「萩原号」に誰が乗るのか,というのが学生間では大問題で(∵決して乗り心地が良い,とは言えない…),通例では,その年の大学院入試を受験する予定の4回生のうちの誰かが乗る,ということになっていた(理由は敢えて申しませんが…)ように思います。先生は本当に運転がお好きだったようで,帰路に他のどの車よりも早く一番に大学に到着された時などは,他のドライバー(学生)に対して勝ち誇ったような表情(いわゆる「ドヤ顔」)をされていたのを憶えています。

この他にも,先生とは学会の研究会などでいろいろな所に「ご一緒」させて戴きました。美味しいお酒の席のお相伴にあずかったことも幾度もございます。その度に先生の「人となり」に触れさせていただいたように思います。公私共に大変にお世話になり,本当に感謝しております。その万分の一もご恩返しできないままに,旅立ってゆかれてしまいました。このお正月以来,日に日に寂しさの増す思いでおります。

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新實 治男
Haruo Niimi
  • 京都産業大学コンピュータ理工学部教授

上記の肩書・経歴等はアキューム22・23号発刊当時のものです。