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Accumu Vol.2

同志社の創立者 新島襄と現代

同志社大学文学部教授 井上 勝也

新島 襄41歳(明治17年3月)
新島 襄41歳(明治17年3月)

現代を変革の時代と表現するならば同志社の創立者新島襄の生きた時代も幕末明治という激変の時代であった彼は天保14年(1843)年江戸の上州安中藩邸内で下級武士の長男として生まれたが彼の青少年時代は幕府や藩の財政が破綻し全国各地に飢餓や百姓一揆が起こり尊皇攘夷の運動が尊王倒幕に発展しつつある時期であった眼を海外に転ずると彼の誕生の数年前イギリスの清国に対するアヘン戦争や彼の10歳の時のペリー艦隊の来航と翌年の開国は我が国に植民地化の危険が迫っていることを示し極東の小国日本は疾風怒濤に翻弄される小船のようであった青年新島が国防の責を負う武士として日本の現状を憂い将来を真剣に考える憂国の武士として成長していく要因が上述のような諸状況にあったといえよう

新島は元服後祐筆職補助を命ぜられ藩邸に詰めることになるがしばしば職務を離れて蘭学塾に通っている彼は上司に見つけられ厳しく叱られ殴られているが既に13歳の時にオランダ語を勉学し始めていた彼は国家存亡の秋に退屈な職務に貴重な時間を費やしたくない今すべきことは学問をすることであり先進諸外国について学ぶことであるといった考えを抱いていた

新島は17歳の時江戸湾に浮かぶオランダ軍艦の偉容と我が国の木造帆船を比較して欧米の物質文明の偉大さに驚いたこのころから海国日本は諸外国と貿易をするにも国防のためにも遠洋航海に耐える洋式の船が必要であると考え軍艦操練所で数学と航海学を学び始めている

当時の武士は概して漢文に長け攘夷或いは開国の視点から中国で出版され輸入される外国紹介の書物を耽読し先進諸外国についてかなり豊かな情報を持っていた彼らの中にはさらに洋学(蘭学英学)を通して直接西欧諸国の知識を得るものもいた新島も諸外国を紹介する数多くの書物を読破していたそれらの中に吉田松陰佐久間象山横井小楠といった憂国の武士たちが耽読したという『連邦志略』が入っていた彼は彼の伝記Life and Letters of Joseph Hardy Neesima,1891の中で「繰り返し読み脳髄が頭からとろけ出る程驚いた」(fp.3-4)と書く程にこの書物からショックを受けているその理由はこのアメリカ概説書には独立宣言文の要約が載っており大統領制や無月謝学校養老院貧民救護所など具体的に主権在民の民主主義が説かれていたからであるそれは幕末の桎梏の中で自由を求めていた彼に実際にそのような国を自分の眼で確かめてみたいという海外渡航の願望をひきおこした

新島は幕末当時禁教であったキリスト教に関心を抱き密かにそれらの書を読みキリスト教の本質にせまる理解をしていたことがわかる

元治元(1864)年3月彼は函館へ行く機会を捉えて海外脱出を考えた彼は周到な準備のもとに彼の密航を幇助する人を得6月14日(旧暦)の夜半アメリカ商船ベルリン号への乗船に成功した同年7月上海で同じくアメリカ商船ワイルドローヴァー号に乗り移り翌慶応元(1865)年7月20日アメリカのボストンに着いている

新島の恩人A・ハーディ
新島の恩人Aハーディ

新島は日本はもとよりアメリカでも至る所で彼のために生命財産を投げうって援助しようという多くの親友をつくっているその中でワイルドローヴァー号の船主Aハーディーは親代わりとなって彼に9年間も中等高等教育を受けさせ彼の帰国後も種々の精神的財政的援助を惜しまなかった最大の恩人である

自力で密航を企て成功した新島は南北戦争後のニューイングランド及びヨーロッパで九年間も生活し幕府や藩から束縛を受けることなくまた藩から研究課題を出されることがなかったので自由な立場からキリスト教を始め近代科学を討究することができたその結果彼は欧米文明の現象面よりもそれらを根底から支えているものに関心を向け民主主義とキリスト教と教育こそ欧米文明の基礎であることを発見した

新島は明治7(1874)年10年ぶりに帰国するや早速キリスト教の伝道に全国を駆けめぐるかたわらキリスト教主義の高等教育機関の設立に努力した彼はそこで近代国家に役立つ人物即ち政治家実業家官僚教師医師看護婦などを養成することを考えた彼は明治21年に全国に発表した「同志社大学設立の旨意」の中で「一国を維持するは決して二三英雄の力に非ず実に一国を組織する教育あり智識あり品行ある人民の力に拠らざる可らず」(『新島襄全集』/P.140)といい同志社大学では「独り技芸才能ある人物を教育するに止まらず所謂良心を手腕に運用するの人物を出さん」(同 P.132)ことを目ざすと宣言した彼はこのような一国の良心ともいうべき人物を育成するために前述の如く知育に偏することなく知識を正しく運用しうる品性(Character)の陶治を重んじそれをキリスト教の道徳に求めるのである

新島にとって国家は国民のための国家であり主体的な国民の力によって始めて国家の維持発展が可能であると考えた彼はいう「若し教育の主義にして其正鵠を誤り一国の青年を尊いて偏僻の模型中に入れ偏僻の人物を養成するが如き事あらば是れ実に教育は一国を禍ひする者と謂はざる可からず」(同P.138)

明治国家は早急に国家の近代化を推し進めようとして富国強兵殖産興業に役立つ人間天皇や国家に忠良な臣民の育成を目ざしたそれに対して新島は上述の明治国家の意図とは対照的に国民一人一人が自主的な人間に自らを教育し自己の属する国家を愛しその将来を真剣に考え国家に主体的にかかわって初めて安定性復元力の高い活力ある国家を建設することができ国民の力によって真の独立と国家の近代化を達成しうると考えたのである彼はルネサンス以降の西欧の近代国家をモデルとし欧九年間の生活を通して下からの近代化の必要性を痛感していた従って彼は明治国家によってつくられた帝国大学にのみ我が国の高等教育を任しておくのではなく私立大学を設立して「自治自立の人民」を育成することこそ緊急の課題であると考えた彼の大学構想は欧米の伝統的な人間教育(liberal education)をおこなうリベラルアーツカレッジ(liberal arts college)的基盤の上に神学哲学法学医学といった学問の蘊奥を攻究する専門学部を構築する欧米の伝統的な総合大学であった彼は国家の命令に盲従する狭い視野の専門家が国家にとって危険であることを認識しキリスト教の福音にねざした人間教育と専門教育が相補的におこなわれる大学を構想した

新島は一人一人の人間(日本人)が自己の価値尺度をもち常に正しい判断を下すことができるよう価値尺度を広い視野と展望のもとに磨き上げ自己の良心に従って是非を意思表示し行動することのできる人間をそして自己の専門学問を隣人のために国家のためにそして世界の平和のために用いることのできる人物を育成することを目ざしたのである

昨年から今年にかけてこの1年間の世界の動きはまことに目まぐるしいものがあるソ両大国の冷戦の終結と国際的影響力の低下ソ連のペレストロイカに端を発した社会主義の根本的改革-一党独裁の放棄と市場原理の導入自立志向を強める東欧諸国の民主化など国際情勢はデタント(緊張緩和)に向い世界は大きく軍事から経済の時代に転換しつつあるこのような状況の中で経済大国日本は政治経済文化の面で世界にどのような役割を果たすべきか現在政府と国民はむつかしい決断と実行をせまられている

国際化価値の多元化激動する国際情勢の中で我々国民は政府の判断に頼ることなく自らの力でさまざまな変革に大所高所から判断し果断に対応していく必要がある

120年前激動期に生きた新島襄が主張した「自治自立の人民」「一国の良心」としての人間が地球時代の日本人に求められているといえよう

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井上 勝也
Katsuya Inoue
  • 1936年大阪生まれ
  • 1954年同志社大学文学部入学
  • 同大学院博士後期課程の1年目に助手に採用され以後2004年に退職するまで43年間教壇に立つ
  • その間大学紛争を体験した
  • 【主要著書】▽「新島襄 人と思想」晃洋書房 1990年刊▽「国家と教育-森有礼と新島襄の比較研究」晃洋書房 2000年刊
  • 【ラジオ放送】「新島襄を語る」と題してNHKラジオ(第2)で4回3時間にわたり全国放送(1991年1月)
  • 【テレビ放送】「新島襄の求道の生涯」と題してNHKテレビ(教育)で60分全国放送(1993年7月)

上記の肩書経歴等はアキューム17号発刊当時のものです