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Accumu Vol.4

宇宙創世のロマン-アインシュタイン宇宙よりホーキング佐藤の宇宙へ-

東京大学理学部物理学教室教授/理学博士

佐藤 勝彦

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北大西洋のまん中ほとんど北極圏に近いところに火山の島アイスランドがある

3年ほど前の夏この国を訪問する機会があったデンマークのコペンハーゲンから飛び立って3時間余大海原の中に島が見えてきたまもなく飛行機は一面溶岩に覆われた地面を整地した空港に着陸した空港から首都レイキャビクまで1時間弱リムジンは全く樹木のない荒涼とした溶岩台地を突っ走る私がアイスランドを訪問したのはアイスランド大学の招待によるものであった私の専門である宇宙論の講義と講演を依頼されたのであるアマチュアを含めても天文学会会員が数十名という国に宇宙論の専門家がいないのは当然で関連分野の研究者を含めて多くの方が熱心に講義を聞いてくれた帰国の寸前アイスランド大学の研究者である友人がせんべつに1冊の本をくれたアイスランドバイキングのサガ(伝説)イェーダの英語訳であったアイスランドはノルウェイなど北欧のバイキングが作った国で彼らはすばらしいサガをもっているしかし彼はこの国のすばらしい古典を誇るためにこの本をプレゼントしてくれたのではないその中に私の専門とする宇宙創世の神話が書かれているからであるこの宇宙創世の部分は旅人姿の王が3人の賢者に宇宙の始まりについて尋ねる形で展開されている「時が始まったときには何もなかった砂も海もまた冷たい波もなかった地は見あたらず上に空もなく大きな口を開けた裂け目があったがどこにも草木はなかった」と宇宙創世の頃が語られているいかにも北極圏に近い大西洋の中に浮かぶ火山の島アイスランドにふさわしい神話である私は人口わずか20万人余という小さな国でも人々は宇宙の始まりについて考えをめぐらせていたことを知りいたく感激したものである(図1)

宇宙には果てがあるのだろうか もし果てがあるのならその向こうはどうなっているのだろうか 宇宙はビッグバンで生まれたと言われているけれどもその前はどうなっているのだろうか 皆さんもきっとこんな疑問をふといだいたことがあるのではないだろうか宇宙の構造や宇宙の果ての問題は人間の歴史が始まった頃から人類が問い続けている問題である実際古代文明の発祥地であるエジプトメソポタミアやインドそして中国にはその文明の特徴を反映した面白い宇宙のモデルが絵になって残っていることを皆さんはご存じであろう例えば古代インドでは自分の尻尾をくわえた蛇=ウロボロスのうえに巨大な亀が横たわりさらにその背に乗った数頭の象によって支えられた宇宙のモデルの絵が残っているこのようなモデルを考えていた人はその果てに行けばどのようになると考えていたのだろうか

おなじみの落語に八つぁんが大家さんにこの道をまっすぐどんどん行くとどこに行けるかと問う話がある大家さんが答えれば八つぁんは繰り返し「でそこを過ぎてどんどんまっすぐ行けばどこに行くんですかい」と聞く江戸から京都長崎を経て海をわたり唐天竺に至りさらにその先はと聞かれ大家さんは大きな海でその端は大きな滝になってもうそれ以上行けないと答える大家さんだけではないこのようにその向こうはまたその向こうはと尋ねられれば答に窮するのは誰だって同じである

宇宙の始まりについても紹介したアイスランドのサガと同じように古代から宇宙創世神話として語られてきている日本の古事記もその一つである「国稚くして浮かべる脂のごとくしてくらげなすただよへる時…」という混沌とした状態から伊邪那岐伊邪那美の両命が天の浮橋に立ちて天の沼矛を指し下ろしてかきたまうことにより日本の国が生まれるのである神話の中でも最も論理的なものは聖書の創世記であろうこれによれば宇宙は「光あれ」という神の言葉により1週間で作られたことになっているしかし宇宙の始まりという時間の果てがあるというならばこれまた多くの人は「それでは神が宇宙を作る前はどうだったのだろうか」などと考えてしまうであろうどうも素朴な古代の宇宙論では宇宙の外は暗闇の空間が横たわっておりまた宇宙の創世とは物質やその構造の形成であり開びゃく前にはどうもからっぽではあるが空間そのものは存在していたと考えているようである

今日科学的な意味で宇宙といえば我々の住む三次元の空間と一次元の時間からなる四次元時空とその中に存在する物質的存在全てを合わせた系をさすものと考えてよいであろう漢籍「准南子」には「四方上下これを宇と謂い往古来近 これを宙という」とあるそうである普通宇宙といえば空間的広がりのみをさしていると考えられているが時間的広がりを合わせたものとして定義されているわけでたいへん的を射たものとなっているつまり少し難しく言えば宇宙とは四次元時空多様体とその中で物質的存在なのである従って宇宙の創世とは入れ物である時空と物質の二つの創世を論じなければならないのである混沌としたところから天地が別れ島が作られ…という古代の宇宙創世のシナリオはすでに存在する時空の中でまたすでに存在している物質エネルギーの存在形態を進化させるものであって現在的意味ではそれらは創世論ではないのであるしかし時空を科学的に研究することが可能になったのはほんの76年前アインシュタインによる一般相対論が完成してからのことであるアインシュタイン以前においては空間とは単に物質の入れ物でありまた時間とは無限の過去から無限の未来に向けて絶対的に流れるものであった時空は物理学を記述するうえで不可欠であるがそれは物理学の対象ではなかったのである時空は一般相対論によって初めて物理学の対象になったのである一般相対論の基本方程式はアインシュタイン方程式と呼ばれているこの方程式は物質の存在によって時空の幾何学がどのように決まるかを計算するようになっているつまり時間とか空間の性質は絶対的なものではなく物質の存在によって変わってしまうということを示しているのである

一般相対論に基づいたビッグバン理論は現在の宇宙の観測とも一致し標準理論と呼ばれているこのモデルは150億年の昔宇宙は熱い火の玉として生まれこれが膨張冷却する中で銀河が作られ星が作られ現在の宇宙に至ったというモデルであるこのモデルは確固とした二つの観測事実に基づいたモデルである第一の観測事実は宇宙が実際膨張していることである全宇宙を考えるときの基本構成要素となるのは銀河である銀河は我々のあまの川銀河やとなりのアンドロメダ銀河のようにほぼ1000億個の恒星の集団であるこの銀河は観測可能な範囲におよそ1000億個存在していると考えられている1929年ハッブルは当時世界最大の望遠鏡を駆使しより遠方にある銀河ほどより速いスピードで我々の銀河より遠ざかっているという法則を発見したあたかも我々が宇宙の中心に位置しているように銀河は遠ざかっているのであるこれがハッブルの法則であるコペルニクス以来科学の方法として我々が宇宙の中心であるという立場は放棄しなければならないそして我々が宇宙の中心にいるように見えるのと同じように如何なる銀河に住む知的生命体にとっても自身が宇宙の中心に位置するように見えなければならないという完全民主主義の立場に立たねばならないこの条件を満たすものが宇宙全体が一様に膨張しているというモデルである風船の表面に一円玉を一様に貼り付けそれが膨らんでいくイメージであるどの一円玉から見ても自分を中心に他の一円玉は遠ざかっているように見える

第二の観測事実は宇宙を満たしているマイクロ波の背景放射の存在である1965年アメリカのベル研究所のペンジャスとウイルソンは通信衛星のための装置の研究を進めている中で宇宙全体から弱いマイクロ波の電波がやってきていることを発見した1989年NASA(アメリカ航空宇宙局)はCOBEという宇宙背景放射探査衛星を打ち上げこの電波のスペクトルつまり電波の波長によってその強度がどう変化するかを精密に観測したそのスペクトルはプランク分布と呼ばれる理想的『火の玉』から放出される電磁波のスペクトルであったその温度は絶対温度で2.735Kという温度であったこの温度は火の玉どころか極低温であるがそれが存在することは過去の宇宙が圧縮された状態に遡ればそれは宇宙が超高温の火の玉として生まれた証拠なのである

ビッグバン理論は標準ビッグバンモデルと呼ばれているように確固としたモデルではあるが宇宙の初期まで拡張して考えると色々問題が生じるこの理論では宇宙は時空の曲がり方を示す量が無限大になったまた無限のエネルギー密度をもった数学的特異点から生まれたことになっている宇宙の昔に遡っていけば必ずこの特異点に至りもはやそこから先には遡れないという時間の果てがはっきりと存在しているわけである

しかし時間に果てがあるということは一般相対論を十分理解している研究者にとってもあまり気持ちの良いものではないこれは無限の過去から無限の未来に向けて絶対的に流れるものというニュートン的絶対時間の概念が染み付いてしまっている故だと批判することもできるができれば時間に果てはないように宇宙の理論を作り上げたいという考えが1960年前半までかなり支配的であったのである実際アインシュタイン白身時間に果てがあるようなモデルを忌み嫌ったアインシュタインは1915年一般相対論を完成させたが彼は直ちに自分の作り上げたこの理論が宇宙全体に適用できることを悟り宇宙のモデルを作ろうとしたしかし当時まだ宇宙が膨張していることは発見されておらずアインシュタインも当然の事として宇宙は膨張も収縮もしない永遠不変のものと信じていたのであるところが困ったことに一般相対論に基づき静止したモデルを作ってもそれはすぐに収縮に転じてしまい最後には潰れてしまうのであるアインシュタインの相対論は時間空間の物理として極めて革命的な理論であるが当然のことながら重力に関してはニュートンの万有引力の拡張なのである物理を静止させそれを宇宙においた場合それが引力によって引き合い最後には一点に集まり潰れてしまうのは一般相対論でも同じなのであるアインシュタインは万有引力に抗して宇宙が崩壊しないように空間に斥力を持たすように自分の方程式を変更することを決めたつまりそのために新しく宇宙項といういわば『宇宙斥力』を元の方程式に付け加え物質の間に働く万有引力とちょうど釣合うようにし膨張も収縮もしない宇宙のモデルを作り上げたのであるアインシュタイン方程式は見かけ上やや複雑な方程式であるしかしこれは極めて簡単な原理から導かれるもので物理学の方程式の中でもこれほど美しい方程式はないしかしそのアインシュタインでも自分の美しい方程式と宇宙は永遠不変でなければならないという信念がぶつかったとき自分の方程式を修正する方を選んだのである数年後ロシアのフリードマンが修正前の元のアインシュタイン方程式を解いて宇宙が膨張することを導いたしかしアインシュタインはそれを認めようとはしなかったフリードマンの計算は誤りで自分がやり直すとちゃんと始まりも終わりもない宇宙になると主張したのであるしかしその計算は結局フリードマンの方が正しいことがわかったしかしそれでも彼はフリードマンの導いた解は単に数学的な解にすぎず物理的には全く意昧のないものだと信じていたのである同じようにアインシュタイン方程式を解いて膨張宇宙論の解を発見した一人であるベルギーの神父ルメートルにも「あなたの計算は正しいが物理的センスは忌まわしい」といらだちながら答えているのであるアインシュタインは1929年宇宙が本当に膨張しているという事実を観測家であるハッブルから突きつけられ最終的に宇宙は永遠不変なものではないことを認めたのである「宇宙項の導入は私の人生最大の不覚だった」アインシュタインは後にそう語っている

しかしハッブルの発見によって宇宙が膨張しているという観測事実を認めても宇宙に始まりがあることを認めようとしない人がいなくなったわけではない宇宙が膨張しているにも拘らず宇宙の姿が変化しないためには膨張によって薄められた物質の密度を元と同じ密度に保つために何も存在しない空間に新たな物質が生まれなければならない無限に大きい宇宙が無限の過去から無限の未来に向けて膨張を続けているこの宇宙のモデルは定常宇宙モデルと呼ばれるまたカラッポの空間の中に物質が生まれるなどということを考えなくても時間の果てはなくすることはできる宇宙は膨張したり収縮したり繰り返しているのだと考えればよい現在はちょうど膨張している時代だと考えるのである振動宇宙モデルであるビッグバンモデルでは曲率正の閉じた宇宙は必ずや収縮に転じ一点に潰れ特異点に帰るここで曲率正の閉じた空間とは空間が正に曲がっていることで地球の表面と同じように三角形の内角の和が180度より大きくまた無限に広がっているのではなくやはり地球の表面積が有限であると同様にその宇宙の体積が有限な空間のことである次元を二次元に下げて頭に浮かべるとすればそれはまさに地球の表面のようなものを浮かべればよいしかしもし収縮がある有限の大きさで跳ね返り膨張に転じることができるならば無限の過去から無限の未来に向けて振動を続ける宇宙のモデルが可能となる読者の中には収縮に転じた宇宙では密度が高くなりそれに伴って圧力も高くなるのだからその圧力で宇宙は跳ね返るのではないかと考える方もおられるかもしれないしかしそのような可能性を決定的に潰してしまったのが若き頃のホーキングとペンローズによる特異点定理の証明である宇宙は必ず特異点から出発しなければならずまた収縮に転じた宇宙は同じく必ず特異点に帰らねばならないのである宇宙は必ず時間の果てから出発しなければならないのである標準ビッグバン宇宙は物理学が有効性を失う特異点から火の玉として生まれたつまり宇宙はまさに神の最初の一撃によって始まったのである物理学にできることは神によって与えられた初期値のもとに以後宇宙がいかに進化するかを計算できるだけなのであるローマ法王ピオ12世は「現代の科学は初めに発せられた『光あれ』の証人になることに成功した よって天地創造は時間の中で起こったゆえに創造主は存在する」と語ったというアインシュタインもまた「私か最も興味あることは宇宙創世の時神がどのような選択をされたかということだ」と語っている特異点からの宇宙創世は神の存在証明とも理解されているのである

1980年以前においては私も含めて神の存在はともかく初期値というものは物理法則で決まるものではなく自由意志を待った存在者が決定するもの少なくとも物理学の対象外であると信じていたしかし1980年代になって素粒子論に基づいた宇宙論の研究の中からこの初期値についても物理学で語ることが可能なのだということがわかってきたのである宇宙という最も巨大な存在の起源が逆に最もミクロな存在である素粒子の研究が基礎となるというのは何とも逆説的であるインドの宇宙図にでてきたウロボロスの絵蛇が自分の尻尾を飲み込んでいる絵は正反対のものが実は本質的につながっているという哲学をあらわしたものであるがこれもその一例であるまずその理由の第一は宇宙の創世期に遡るにつれ宇宙の温度が極めて高くなり全ての物質は素粒子にまで分解されてしまっていることであるそのような初期を研究するためにはどうしても素粒子の理論なしには進むことはできないのである

私達の住むこの物質世界は元をたどれば重力電磁気力弱い力強い力という四つの基本的な力によって運動変化している重力は言うまでもなく地球月など天体の間に働きその運動を決めているニュートンの万有引力であるまた電磁気力も日常生活で最も馴染みのある力であり特に説明する必要もないであろう弱い力や強い力は原子核や素粒子などのミクロの世界で働いている力であり実際それらの力が及ぷ距離は10-16cm~10-12cm程度である弱い力は原子核のベータ崩壊を引き起こす力であるまた強い力は陽子や中性子をくっつけて原子核を作る力であり原爆水爆また原子炉のエネルギーの源となっている力である読者の中には「世界の運動を起こしている力はその四つだけではないのじゃないのか 例えば私の筋肉の力も物質の運動を変えるじゃないか」という方がおられるかもしれないそれでは筋肉の力を物理的に考えてみよう筋肉において力が発生するのは化学反応によって筋繊維が収縮するからである化学反応とは分子を構成している原子と原子のつなぎかえをすることであるが原子と原子を結び付けているのは電子や原子核に起因する電気力であるつまり筋肉の力というものは結局物理的には電磁気力の一つなのであるこのように物質世界に働いている力は元をたどれば結局この四つの力に帰すのであるそれではなぜ物質世界を支配する力は四つなのかこれらの力は相互に全く何の関係もないのだろうかこれらの疑問に答え四つの力を統一的に理解しようとするのが相互作用の統一理論であるアインシュタインはプリンストンで晩年を過ごしたが彼がそこで熱中していたのはこの統一理論の研究だったのである

現在私達物理学者が素粒子的宇宙論の研究の中から到達した現代の『創世記』は以下のようなものである

(一)『宇宙』は時間空間物質の全くない『無』の状態から量子重力的効果によって創世された

(二)創世された宇宙はプランクサイズ10-34cm程度の閉じた宇宙であるがそれはインフレーションによって直ちに何十桁何百桁と引き伸ばされマクロな火の玉宇宙となった同時にその宇宙から子供の宇宙さらにそこから孫宇宙ひ孫…と無限に宇宙が生まれるそれらもインフレーションによって巨大な宇宙となる

(三)それらの中では銀河が生まれ星が生まれまた人類が誕生するというドラマが進行する

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宇宙が『無』から生まれたということを最初に主張したのはアメリカのタフト大学のアレキサンダービレンケンである彼はソ連ウクライナ生まれのユダヤ人であるソ連在住中は大学の物理学科を卒業したにも拘らず動物園の夜警のような仕事しか得られずアメリカに移住したのであるこの七月アルゼンチンで国際天文学連合の国際会議が開かれた会議のある日「いいレストランを知っているので一緒に行こう」という彼の誘いで一緒に夕食を共にしたその時「夜警の仕事はきつかっただろう」と尋ねた「なにいい仕事だったよ見回りながら物理の研究のことをずっと考えることができたからね」と返事が返ってきた

私が初めて彼のこの研究を知ったのは彼から『無』からの創世という論文原稿が送られてきた1982年のことである一体何を言い出したのか というのが正直なところの印象であったしかし考えてみると科学を離れて哲学議論と考えてもそれしか答がないことも自明であったもし宇宙の起源を何かの原因に求めるならばその原因の原因も考えられるわけである八つぁんの大家さんへの質問と同じようにきりがないのである結局『有』を説明するのに『有』をもってすることはできないのである

先日のNHKの特別番組「アインシュタインロマン」でサハラ砂漠に住むドゴン族の宇宙哲学が紹介されたドゴン族のドロ長老は雄弁である「初めには何もなかった完全な無であったそこに小さな種が突然発生したそれが爆発し四方八方に飛び散り宇宙ができたのだ」それではその前はどうなのですかという質問に対して動揺することなく豪倣に笑い「それはくだらない質問だ初めの前は完全な無であったことをお忘れかないくらそのような質問を繰り返しても無駄だ無から自然に種ができそれが膨張して宇宙になったのだ」我々の到達した現代の「創世記」と全く同じことをこの長老はとうとうと語るのである

しかしこれがサイエンスになるためには科学の言葉で『無』からの創世を具体的に示さねばならない多くの科学者がこの論文のタイトルを見てまず考えたことは彼の言う『無』とは一体何かということである一般相対論では宇宙とは時間と空間を合わせた時空多様体とその中に満たされている物質のことであるビレンケンのいう『無』とは従って単に物質が存在しないという意味ではなくその入れ物である時空-時間空間-も存在しない状態なのであるビレンケンはこの時間も空間も物質もない『無』の状態から量子的効果により極めて小さいがミニミ二時空がトンネル効果により作られることを示したのである量子論は相対論共に現代物理学を支える二つの柱である現代物理学の体系はこの二つの柱の上に構築されているのである量子論というと難しそうで余り日常の私達の生活とは関係ないことと考えがちであるがクオーツ腕時計電卓などの中にある半導体素子はこの量子論に従って動いているのである量子論の最も重要な性質は全ての物理量の値は『揺らぎ』をもっており確定に決まらないという不確定性原理とトンネル効果である

ビレンケンの『無』に量子論を適用して考えるとこの『無』もまた量子論的に揺らいでいるのである『無』は決して確定的な完全な無であることはできず常に『無』を中心として『有』と『無』の間を揺らいでいるのである仏教の宗派を越えて広く読経されるお経に般若心経があるその初めの部分に「色即是空空即是色」という有名な一節がある相反するものが実は表裏一体でそれを理解すること哲学用語で止揚することによって本質的理解に至るという弁証法の心髄を述べたところである最も根元的な『存在』である宇宙についても量子論は『無』が無で有り得ないことを示しているのである量子論では『無』の揺らぎは『ゼロ点振動』とも呼ばれる宇宙の大きさゼロの近傍で振動しているのであるしかしこれはあくまでも揺らぎで現実のマクロな宇宙ではない大きさゼロの宇宙と大きさが有限な値をもつ宇宙の間には普通の意味では決して越えることのできない障壁山が存在し両者ははっきり区別されているのである宇宙はゼロを中心に振動しこの山にぶつかっているのであるしかしエネルギーゼロの宇宙にとってこの山を越えて大きな宇宙へと成長することは普通は不可能であるしかし量子論的に考えるならば『無』の状態にある宇宙も小さな確率ではあるが必ず自分で山の中にトンネルを掘って反対側に飛び出すことができるのであるこれはミクロな世界ではいつも起こっていることである半導体素子の中ではボールとは電子のことであるしばしば講演会などで「宇宙はなぜ生まれたのか」という『哲学的』質問を受けることがある答は簡単である「宇宙は生まれるべくして生まれた」のであるゼロ点振動もトンネル効果も量子論の必然であり宇宙が生まれるのは物理学の必然的結果なのである

これが『無』からの宇宙創世の第一ステップである生まれた宇宙の大きさは10-34cm程度小さいものを塵芥というがこの宇宙は遙かに塵よりも小さくまたどんな知られている素粒子よりも小さい宇宙である宇宙創世の第二ステップはこの時空を巨大な空間にしエネルギーを満ちあふれさせることである私やグースは10年ほど前創世間もない宇宙は指数関数と呼ばれる関数に従って一瞬のうちに急激に膨張することを示したこの急激な膨張は今日インフレーションと呼ばれているこれによって無から作られた時空は現実的宇宙としての大きさをもつことができるのであるしかしこの時空を単に膨張させ100億光年を越えるような宇宙としたところでその宇宙は現実の宇宙とはなり得ないなぜならその宇宙のエネルギーや物質の密度は空間が膨れた分薄くなりとても銀河や星が豊かな構造を作っている現在の宇宙の姿は再現できないのである

しかしインフレーションは単に空間を拡大するだけではなくその中にエネルギーを満ちあふれさすメカニズムでもあるのだインフレーション中宇宙の体積が2倍になればその中のエネルギーも2倍にそして体積が1兆倍になればエネルギーも1兆倍になり決して密度は減少しないのであるこのようなことを言えばエネルギーの保存則という物理学の基本的法則を知っている皆さんからは直ちにそれはこの法則に違反しているのではないかとクレームがつくにちがいないもちろんインフレーションはゆるぎない物理学の法則に基づいた理論でありエネルギー保存則をちゃんと満たす方程式の解なのであるではそのエネルギーはどこからきたのかひとことで言えばそれは宇宙の重力のエネルギーがどんどん負になることによってまかなわれているといってよいそして合計のエネルギーは『無』から生まれたときからずっとゼロのままと考えればよいのだしかし見かけ上インフレーションによって宇宙の中の物質エネルギーは作られるのであるインフレーションの終了と共にこのエネルギーが熱エネルギーと転化するこれによって宇宙は光に満ちた熱い火の玉宇宙となるのであるビッグバン宇宙の誕生である

インフレーションのもう一つの重要な帰結は宇宙が無限に生まれることを示唆していることであるこれは宇宙で相転移が進む時因果関係もない異なった場所で同じ時刻に相転移が進むとは考えられないからである相転移が宇宙のいろんな場所で勝手に進む様子はちょうど沸騰しているお湯の中のようなものであるぼこぼこと泡が発生し大きいスケールでは宇宙は凸凹となりその時空構造は極めて複雑になりワームホールやブラックホールが次から次と生まれるワームホールは二つの空間がアインシュタインローゼンブリッジと呼ばれるくびれた虫の穴的経路で結ばれた時空構造であるこの穴の向こうの空間は因果関係が切れているために別のミニ宇宙と呼ぶことができるさらにこのように相転移によって作られたミニ宇宙の中でも再度相転移が進行するのでミニ宇宙からさらにミニミニ宇宙が作られる元の時空を母宇宙と呼ぶならミニ宇宙は子供孫宇宙と呼ぶことができるがこれらのミニ時空もインフレーションによって一人前のマクロな宇宙となることができる従って我々の住んでいるこの宇宙はまず母宇宙ではなく実際何代目かわからない遙か後の子孫にしか過ぎないであろう

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このように宇宙は第一ステップとしての『無』からのミニ時空の創世第二ステップとしてのインフレーションによるエネルギー創世の二つのステップで創世される第三ステップはその中に豊かな構造を作り上げることである

光に満ちあふれた初期宇宙も膨張と共に次第に冷却し普通の物質が宇宙の主な構成要素となる第二ステップの段階で作られた物質エネルギーの空間的揺らぎが次第に重力によってかたまり宇宙の中に構造が発生するのであるまず後に超銀河団となるような大きなガスのかたまりが収縮を始めるその中でガスは重力で収縮し銀河が生まれる現在観測することのできる範囲の中には少なくとも1000億個の銀河が存在している私達の住むあまの川はそのような銀河の一つで乙女座超銀河団に属している銀河はおよそ1000億個の恒星の集まりであるあまの川銀河は渦巻銀河でほとんどの星は渦巻をもった円盤状に集まっている私達の太陽系はあまの川銀河の中心からおよそ三万光年離れたかなりの田舎に位置するそしてその第三惑星地球も太陽が生まれるとき周りを円盤状に渦巻いた物質の中から生まれたのである強過ぎもまた弱過ぎもしない適度な太陽からのエネルギーを受けて炭素窒素酸素原子は有機分子を形成し生命体へと進化したのである

現在宇宙の観測は理論的宇宙創世論と共に爆発的に進歩している高感度の光電素子それと連動したコンピュータによる情報処理などハイテクノロジーを駆使した方法によってこれまで知り得なかった宇宙の姿がどんどん浮かび上がってきているその姿は10年前には想像もできなかった実にダイナミックなものであったその最も驚くべき例は宇宙の巨大構造に関するものであるこれまで近くの銀河については詳しい研究がされていたが遠くの銀河についてはそれらが宇宙のどのくらい遠方にありどの場所にあるのかという研究はほとんどされていなかったそれは遠くになればなるほど銀河は暗くなり観測が難しくなるからであるまたその数も遠くなるにつれて急激に増加するからであるしかし最近高感度の光電素子をつかって大宇宙の地図作りが始められその結果銀河がほとんど存在しないボイドと呼ばれる空白地帯が泡状にたくさん存在していることがわかってきたのであるそして銀河はあたかもそれを囲む蜂の巣のセルの上に存在しているような構造で宇宙に分布していることもわかってきたまた宇宙の中の万里の長城とでもいうべき数億光年の長さをもった壁状に銀河が密集して分布している『グレイトウォール』も発見されているこれは非常に厚い蜂の巣のセルのようにも見えるさらに驚くことにこの『グレイトウォール』は4億光年たらずの間隔で周期的に20層も存在しているのではないかという観測もある一体どのようなメカニズムでこのような巨大な構造が宇宙にできたのであろうか 宇宙の年齢は100億年程度と考えられている人間的スケールでは極めて長い時間であるがそれでもこのような巨大な構造を今の宇宙で作ろうとすれば光の速さに近い速さで銀河が場所を変えないとこのような構造は作られない宇宙の巨大構造は大きな謎である

さらに銀河はまたただそのような空間分布をしているだけではなく大きなスケールで集団で運動をしているようである我々の属する銀河集団はうみへびケンタウルス座の方向に引き寄せられるように運動しているこれはこの方向1億光年余り遠方に存在しているらしいグレートアトラクター『巨大重力源』に引き寄せられているのだと考えられている巨大重力源があるとすればその正体は一体なんであろうか このように観測か進むにつれ宇宙に対する理解は急速に深まっているが同時に新たな謎が次から次へと現れてくるのである

今日までの半世紀パロマー山の直径6mたらずの望遠鏡が実質的に世界最大の望遠鏡としての地位を保ち続けてきたしかしこれからの10年世界で8m10mという大型望遠鏡が驚くことに10台以上建設され観測を始めることになっている観測データは理論の証明となるものもあろうが多くはさらに謎を深めるものになるかもしれないしかし矛盾が生じることはむしろ歓迎すべきことかもしれないなぜならその矛盾を解決することによって新たな深い理解に到達するというのが科学の進歩の歴史であり矛盾は新たな「宇宙の起源」理解への鍵とも言えるからであるこの世紀末の混沌の中から新たな21世紀の発展の種が芽生えてくるにちがいない

■参考文献

(一)「宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった」佐藤勝彦著同文書院

(二)「壷の中の宇宙」佐藤勝彦著二見書房

(三)「ビッグバン宇宙からインフレーション宇宙へ」佐藤勝彦木幡﨣士共著徳間書店

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佐藤 勝彦
Katsuhiko Sato
  • 京都大学大学院理学研究科博士課程修了
  • 東京大学理学部長
  • 文部科学省宇宙開発委員会特別委員
  • 元日本物理学会会長
  • 2002年紫綬褒章受章

上記の肩書経歴等はアキューム12号発刊当時のものです