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Accumu Vol.12

40年前,日本人の大リーガーがいた!~マッシー村上~

野球評論家 村上 雅則

村上 雅則

1964年3月10日,プロ入り2年目の私は後輩二人を連れてサン・フランシスコへ飛び発ちました。当時南海ホークスは技術の向上を図る為,プロ野球界初の試みとして有望な選手を海外留学に派遣したのです。

私は太平洋戦争終戦の約1年半前,1944年5月6日に生まれました。その時父は既に満州(旧ソ連,今のロシア)に召集されていました。終戦後約3年間ソ連の捕虜生活をおくり,ちょうど私が5歳の誕生日の時に舞鶴港へ帰って来ました。

5歳になってはいましたが,私は父親の存在や顔を知りませんでした。私の父のイメージは,ただただ怖い人でした。その地方では旧家で,男の子の孫である為にそれまで祖父をはじめ家族から少々甘やかされて育った私でしたので,父の帰郷翌日から私の生活は180度変わりました。父には絶対に服従で,言う事を聞かないと容赦なく平手打ちが飛び反抗も出来ず,父には正面から物をねだるなど絶対出来ませんでした。

終戦直後の日本は当然の事ながら物資も少なく,男の子たちはビー玉,めんこ,釘倒しなどで遊んでいました。当時私たちの野球は,自分たちで山へ行って切ってきた竹でバットを作り,軟式テニスボールを使い三角ベースで遊ぶといった感じのものでした。小学4年の時にようやく父の許可を取り,ソフトボール部に入部しました。それは小学生の間のみ野球をしても良いというものでした。ソフトボール部に入った私は当初素手でプレーしていましたが,グラブが欲しいと直接父に言えない私は,姉のアドバイスで父が寝入ったのを見計らって枕元にそっと置き手紙をし,やっとのことで手に入れました。

中学に入学すると父の言う通りに柔道部に入部させられましたが,私は3ヶ月で退部してしまいました。当時,塾通いをしていましたが,2年生の秋には父に内緒で野球部に入ってしまいました。しかしながら,秘密はすぐにばれるものです。その土地では名士であった父は私たちが練習をしているグランドを横切り,監督の先生に会うために教員室にまっすぐ入っていきました。何十年も後になってから,先生に伺ったところ,「息子が勉強をおろそかにせず,成績も下がらなければ野球を続けさせてもよい。」という条件で,在部許可が出たとのことです。当時まだ若かったその先生はその時の我が父親に少々ふるえたそうです。

父は戦地で何人もの負傷兵を目の当たりにしてきたせいか,また自身も戦地で負傷し入院した事があったせいか私を外科医にさせたかったようです。そのために勉強にはかなりうるさい父でした。

中学で1年足らずの野球生活を終えた私は,思いがけず野球の名門「法政二高」に入学する事になりました。この時点で父の夢は消えました。中学と違い,厳しい練習が待っていました。新人部員約200名が入部したため,部員の数を減らすために,毎日練習が終わってから過酷なランニングが待っていました。ダービーという,3年生を筆頭にグランドをダッシュで10周以上走らされたあげく,グランドを整備して終わるような日々が続きました。毎日20~30名ずつ部員は減り,休んだ者は即退部となります。こんな事を何度か繰り返すうち部員が必然的に減り,私が3年生の時までには部員は30名程度になりました。

そんな厳しい練習の中,昭和36年春の選抜大会に元ジャイアンツの柴田さんの1年後輩として甲子園に出場しました。そして優勝した事は今でも忘れられません。しかしながら,私の3年間の高校生活はあまりついていたとは言えません。2年の夏は左腕を骨折し,3年の夏は県大会の前に食中毒になり散々でした。

その夏,当時南海ホークスの鶴岡監督が私の家にスカウトに来ました。その時の交渉で,もし入団すればアメリカへの野球留学を約束するという条件があり,その事も魅力で南海に入団する事にしました。

プロ入り2年目のキャンプ後半,いきなり球団フロントの方からパスポートを取る準備をするよう言われ,新人2人と3月10日に渡米したのです。当時私はまだアメリカの事などよく知りませんでした。羽田から飛び立ったジェット機は一度ホノルルで給油し再びサンフランシスコへと向かいました。サンフランシスコ上空から地上を見下ろした時は,まるで美しいおとぎの国に来たかのように思えました。到着するとすぐジャイアンツ所有のキャンドルスティック・パークへ行き,球団関係者に挨拶した後マウンドに立ちました。その時,「こんな所で投げられたら幸せな事だなあ」と思ったのですが,その半年後にそれが実現するとは,私を含めて誰が想像し得たでしょう。

我々一行はアリゾナから一時間ほどのフェニックスに向かいました。そのキャンプ地は砂漠の真ん中で,たった一本通っている道に面していて,樹木はなく,遠くに茶色い山があるだけで,まるで西部劇の映画を観ているようでした。アメリカに行くまでは通訳がついていてくれましたが,1週間で帰国してしまいました。言葉のわからない3人だけでこのキャンプ1ヵ月半の間,マイナーの選手たちと練習するとなるとちょっと心細い気もしましたが,単語だけの会話に終始し辞書をポケットにグランドに出て選手たちと出来るだけ会話をする事を心がけました。今でも忘れられないのは,朝食の美味しかった事!当時の南海ホークスのキャンプなどはご飯と味噌汁,目玉焼きにアジの干物と純日本風でしたから,オレンジジュースやフレッシュなレタスのサラダ,ハム,ベーコン,ミルク等全てが当時の日本では味わえない贅沢感とうまさを感じました。今から38年前の事です。

最初のうちは,練習は朝10時から午後1時過ぎで終わってしまい,どう時間をつぶしてよいか手持ち無沙汰で困りましたが,日が経つにつれて結構友達も出来,楽しくなってきました。特に日本人を見た事のない選手が多く,向こうから英語やスペイン語で話しかけてきて,だんだんと楽しく過ごせるようになりました。

はじめマイナーのシステムを知らなかった私は,昨日友達となった選手を翌朝見かけないので他の人に聞いてみると,首になり国へ帰らされたと知らされたこともありました。マイナーの選手はまだ契約をしていないので,実力がないとすぐその場で首になると聞かされ,あらためて「アメリカ野球社会は厳しいなぁ」と実感しました。練習の後には時々ヒッチハイクで近くの町へ行き,とは言っても100キロのスピードで約20分もかかりましたが,買い物も楽しみました。練習試合も始まり最初3Aに配属されましたが,途中から1Aに降格させられました。月末,待ちに待った給料日がやって来ると思っていたのですが,いつまで経っても給料をくれずに,しかし言葉が通じないので理由を聞くことも出来ませんでした。そのうち日本から持参したお金も残り少なくなり,町へ行く事もやめてしまいました。

いよいよキャンプも終わり選手たちはそれぞれのクラスのホームタウンへ向かいました。私たち3人の配属はバスで24時間もかかるカリフォルニア州のフレズノという町でした。ここがこれから140試合する1Aの町だったのです。いったんホテルに入った私たちは聞かされていた世話をしてくれるという日系人の後見人を待ちました。しかし3日経っても現れず,お金のなくなってきた私たちはこの町にある東京銀行に飛び込み,事情を説明しアパートを探してもらう事にしました。しかし,そこで偶然出会った日系二世の佐伯さんという方の自宅に下宿させてもらう事になり,このときは本当にホッとしました。

シーズンも始まり月末に1週間分ほどの給料を貰った時はなんと嬉しかった事でしょう。異国の地で,懐が淋しいという事が,どれだけ心細いかがこのとき身に沁みてわかりました。2週間程して後輩2人はモンタナ州にあるルーキー・リーグへ行くことになり,私一人となりましたが,佐伯さんが日本語を話せた事と球場への送り迎えをいつもいつもしてくれた為助かりました。私はクローザーとして7・8・9回を投げる役目にまわされました。フレズノ・ジャイアンツは私の好投で首位を突っ走り,8月中旬には優勝を確実にする所まで来たある日,クラブハウス内で選手たちが神妙な顔をして話をしていました。9月1日からメジャーのベンチ枠が25名から40名になるという事で,この1Aからも誰か行くかも知れないというのです。このチームには,首位打者とホームラン王の2人,それに最多勝の投手がいるから誰かが行くかも知れないと噂をしていたのです。そしてその話をしている中の一人が「マッシー!ひょっとしたら君にもチャンスがあるよ」と言っていましたが,その時はなるほどそんな事もあるのかな―と思うくらいでした。8月28日,監督が「どうもマッシーがメジャーに昇格するらしい」と言ってきたのです。翌29日の試合前,私にそっと「君に決定した。マイナーのGMがエアーチケットとホテルのアドレスを持ってくるからその指示に従いなさい」と伝えてくれました。翌日GMが来て選手たちの前で私がメジャーに昇格する事を発表しました。選手たちは心から祝福してくれました。試合後私はあわただしく荷物をまとめ,下宿先へ飛んで帰りました。

しかしこれからが大変だったのです。8月31日朝,プロペラ機でサンフランシスコに飛び,ジェットに乗り換えてニューヨークのケネディ空港へ,そこからバスでマンハッタンにあるホテルへ一人で行かなくてはならなかったのです。このとき約半年間の短期間で習得したての少ない英語を使いながら苦労して行った事は,今でも昨日のように覚えています。それにしてもサンフランシスコへ誰かが迎えに来ても良いのではないかとも思いました。当時日本では考えられない事でしたから。でもここはアメリカ,仕方のないことです。ホテルでようやくチェックインしようとしたら私の名前が載っておらず,ロビーで待つこと20分,再び心細くなりました。この時ほど時間が長く感じられた事はなかったでしょう。やっと球団職員がやって来て無事チェックインすることができました。部屋で待つ事2時間,何の連絡もなく腹は減ってくるし,知らない街なので表へも出られず仕方なくホテルのレストランへ入りました。ウエイトレスに案内され席に着こうとすると,スパニッシュ系の2人の男から「君はジャパニーズ・ピッチャーか?」と声を掛けられました。私は即座に「そうだ」と言うと2人は「ここに座って一緒に食べよう」と言うので喜んで同席しました。後でわかったのですが,この二人はジャイアンツのエース,ワーン・マリシャルとショートのホゼ・パガーン選手だったのです。メニューがわからず同じ物を頼んで食べましたが当時の私には値段が高くビックリしてしまいました。昨日までの1Aではホットドッグかハンバーグがご馳走でしたから。この時ですら私は,「今日は同席の2人に合わせてローストビーフでも仕方ないが,給料の安い私はとても明日からはこんな贅沢は出来ない」と考えてしまいました。

9月1日,私はメジャーの選手に紹介され,ニューヨークで開催されていたワールドフェアーを見に行き,その後会場の隣にあるメッツの本拠地,シェア・スタジアムへ行きました。日本の球場よりも綺麗でしたし,前日まで板塀の薄暗い球場で試合をしていたからなおの事でしょう,出来たての球場が本当に本当に美しく思いました。練習をしていた私は突然叱られました。私のアンダーシャツの色がジャイアンツカラーと違う為でした。その色はライバルのドジャーズカラーだった為尚更でした。私はすぐ袖を切りグランドに飛んで出ました。練習をしていると球団職員が私を呼びに来て,契約書にサインをするように言いました。が,私は拒否しつづけました。それはフレズノを出る時「契約書には十分気を付けなさいよ」と言われていたからでした。頑として拒む私に球団職員は困り果てスタンドから日本語のわかる人を探してきて,説明を聞いて初めて納得してサインをしたのは試合開始15分前でした。メジャーでプレーする契約書にサインを拒んだ選手は私くらいのものでしょう。GMはその契約書を持つやいなや電話の所に走っていき,ナショナル・リーグの事務局へ電話で報告していました。

ゲームが始まると私はすぐレフト側にあるブルペンへ行くよう言われました。試合はジャイアンツが点を取れずに7回が終わったところで4対0とリードされていました。8回表ブルペンに「8回裏マッシーが行け」と電話が入りました。既にウオームアップはしていたのですが,いざ決まると少し緊張していました。8回裏,場内アナウンスが「ナウ・ピッチング! ナンバー・テン・マサノリ・ムラカミ」と響きました。ブルペンで最後の一球を力一杯投げレフトフェンスの扉を開け場内に入っていきました。芝生はカクテル光線に照らされ,濃い緑色のじゅうたんの上を一歩一歩踏み締めながらマウンドへ向かいました。

4万の大観衆の中,緊張のあまりあがってはいけないと,咄嗟に「スキヤキ・ソング」を口ずさみながらマウンドに進みました。当時「スキヤキ・ソング」(「上を向いて歩こう」 歌・坂本九)は全米ヒットナンバーワンになった曲で毎日のように流れていました。監督,キャッチャーと内野手が集まり「グッドラック!」と励ましてくれました。スタンドの声も言葉が通じなかったのが幸いしてかウォーミングアップは意外と落ち着いて出来ました。さぁ!プレイボール!サインはアウトコースの速球,思っていたとおり私の気持ちがキャッチャーのトム・ハラーに伝わっていきました。アウトローへパーフェクトのストライク,そして三振,ヒット,三振,ショートゴロに打ち取り私はデビューをゼロに抑える事が出来ました。チームは2対4で負け続投は出来ませんでしたが,日本人として初めてメジャーリーグのマウンドに立ったのです。感激はその日より翌朝の新聞を見た時です。各紙大きな見出しで「日本人初のメジャー・リーガー」と書かれてあり胸が高鳴りました。マイナー時代から一転して一流のホテル,一流のレストラン,待遇ががらりと大きく変わりました。それだけメジャー・リーガーは国民的英雄なのです。ニューヨーク,フィラデルフィア,ヒューストンと転戦して本拠地サン・フランシスコに帰った時は,空港にアメリカ人は元より日系人の方々が私の快挙を祝福しに集まっていました。この年,8試合に投げ1勝1セーブ,防御率1・80を残しシーズンを終わりました。

「野球留学」という事ではおかしな話かとも思ったのですが,南海とは一向に連絡が取れずにいたため,南海が依頼した世話人の指示で私は翌年のサインをして帰国しました。このサインをした事が後に二重契約といわれる原因となりました。帰国した私はまずマスコミから犯罪者のような扱いを受けました。新聞記者には張り込みをされ,私が旅館に宿をとると新聞記者も隣の部屋に泊り込み,私がふすまを開けると同時に廊下に出てくる始末でほとほと参りました。日米両コミッショナーが入り解決するまで私は日本での公式ゲームに出る事も出来ず,宙ぶらりんでした。ようやく5月初めに事が解決し,再渡米する事が叶いました。このとき初めて当時の監督鶴岡氏に言いました。「私はこの決定があと1ヵ月遅ければプロ野球界から足を洗うつもりでした」と。長い悩みの時期でした。

5月5日,再渡米しチームに合流した私は,6日再会を祝して同じ誕生日であるキャプテンのウイリー・メイズと誕生日を共に祝いました。

しかし私には一抹の不安がありました。何故なら練習はしていても今年はまだゲームで投げた事がなく,メジャー・リーガー相手にどれだけのピッチングが出来るのか自信はなかったのです。最初の5試合程は納得のいく内容ではなかったのですが徐々に自分のピッチングが出来るようになってきました。特にドジャーズ相手には内容も良く,その年シーズンが終わってみると2ゲーム差でペナントを逃した事は非常に残念でなりません。私が開幕からいれば絶対に優勝をしていたと思います。

シーズン中には色々な出来事がありました。ロベルト・クレメンテはこの年最後の試合に生涯3000本安打を達成していたのです。ピッツバーグの球場で私のところに来て,自分とメイズと比べて実力は今どちらが上かと尋ねてきたので,私はメイズの方が上だと言うと「何故だ?」と真顔で言ってきました。その年メイズは本塁打王と打点王のタイトルを取りMVPに輝いた年だからです。今メジャーではロベルト・クレメンテ賞というのがありますが,彼は1972年12月31日,その年のニカラグア震災の為の救援活動をしていた時に,物資を運ぶ飛行機と共にプエルトリコ島のサンファン沖に墜落して亡くなってしまいました。コミッショナーは彼の功績を称え,すぐにこの賞が設定されました。今彼を懐かしく思い出します。また,かの有名なピート・ローズは私に会うなりいきなり腕まくりをして,メジャー・リーガーはこのくらいの腕をしてないと戦えないのだと自慢していました。またある時は私があまりにもドジャーズに好投するので,監督に村上を使うと殺すという脅迫状が来て一時はFBIが見張っていたという事があったと聞きました。

この年の忘れられない大きな事件は,ドジャーズ戦でドジャーズのコーファックスとジャイアンツのマリシャル投手両エースが投げ,打席に入ったマリシャルはキャッチャーのローズボロの返球が頭部をかすめた事に激高して振り向きざまにバットでローズボロの頭部を一撃しました。10分間ほどの乱闘の末,プレーが再開した時,3番メイズはコーファックスのカーブを見事に3ランホーマーし,ジャイアンツは勝ちました。そのメイズのユニホームは頭部を割られたローズボロの鮮血で真っ赤に染まっていました。私もこの試合に抑えで出てセーブを取りました。

言葉の違い,習慣の違い,人種差別等,若い選手たちは面白半分に私をからかい喧嘩になる事も多々ありました。しかし私は性格的に物おじすることがなく,積極的にアメリカ社会に入っていった事が幸いしてか,比較的アメリカ社会に早くなじめたと思います。当時は日系人はアメリカ社会では大変気を使って生活をしていた時代です。実際町で見かける光景も頭をぺこぺこ下げ,新聞の漫画などには日本人と言えば必ず眼鏡をかけていて,面白おかしく描かれていました。今では考えられないでしょうが,敗戦国の民に対し差別も多くあった時代でした。

2年間のシーズンも終わり帰国する時が来ました。次の年は私自らが日米どちらでプレーするか決める事が出来ました。自分の気持ちの中では100パーセント,メジャーでプレーする事を望んでいたのですが,あえて私は南海に復帰する事にしました。何故なら入団時の鶴岡監督との約束で「野球留学」という言葉が私の脳裏から離れる事が無かったからです。当時は義理人情を特に重んじる時代でした。私は約束を曲げてまで自分勝手な事を決定できませんでした。今思えばあのままメジャーでプレーしていれば私の人生は随分変わり,アメリカの野球界にもっと貢献出来たのではないかと思っています。が,さて…?

帰国後私も人並みに様々な苦労もありましたが,南海ホークス,阪神タイガース,日本ハムファイターズと歩き貴重な経験をしました。現役を退いた翌年1983年には,心を残してきたアメリカに家族で1年ほど住み,アメリカの野球を外からもう一度味わい勉強してきました。まさに「I left my SF」です。

現代の若い方々へのメッセージは,「思いっきり飛び立って欲しい」です。土地や他人に縛られず,とらわれずもっと自由に飛んで欲しいと思います。そして当然のことですが,その責任も自分で取って下さい。

私もまだまだ野球を勉強し,日米の球界にまだまだ何らかの形で貢献していきたいと考えています。今後も応援を宜しくお願い致します。

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村上 雅則
Masanori Murakami
  • 野球評論家
  • 1963年に南海ホークスに入団
  • 1964年より65年までサンフランシスコ・ジャイアンツに在籍
  • 日本人初の大リーガーとなる

上記の肩書・経歴等はアキューム12号発刊当時のものです。