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Accumu Vol.1

初代学院長の思い出

自己の理想を追われた先生

長谷川繁雄先生にとって私共(4名)は先生が職業人としての教育に携わられ始めた時の最初の生徒であった様だ昭和32年春私が和歌山県立桐蔭高等学校2年生であった時同学年の親友に誘われて学校の近くにあった英語塾へ通い始めたその時の先生が繁雄先生であった色白で少々太りぎみのにこやかな方で長めの髪は横分けにされていた当時は確か京大文学部哲学科にまだ籍を置かれていたと思う

先生の人生で初めて自分の生徒を持つことができたので感激されていたせいなのか何時も非常に幸せそうにしていられた事が印象的であり人に教えることが楽しくてしょうがない様子であった当時はまだ受験地獄も現在程酷いものでは無かったかも知れない――特に和歌山市の様な地方都市に於ては然し乍ら我々当事者としてはそこそこにプレッシャーを感じてはいた従って公立学校の先生で教育することにそれ程の熱意をお持ちでない方の授業はカーテンの陰やグラウンドのスタンドでの「早弁」で対抗することとなってしまった今から反省してもこれは「理の当然」であったとしか云い様がない私としては英語はどちらかと云えば得意の学科であり高校の授業は自分の知っている事を順番が来た時だけ発表させてもらえる場であるがそこで何を学べるのかと云うとやや物足りないものを感じていた

そんな折りしも繁雄先生の一風変った英語塾は我々にとって非常に新鮮なものに映り貴重な結果をもたらした

塾は市電「堀止駅」の近く表通りに面して並んでいる3階位の建物で入口からトントンと階段を昇った2階の左側に教室があった少し前迄歯医者さんをやっていた所である英語の授業に入る前に色々な話し合いがあり必ずしも先生からの一方的な説教では無く自分が世の中で何をやりたいか等々各自かなり活発に話題が展開されたその中で良く憶えているのは塾が始まってかなり経過した時点であったが先生が劇団を組織して農村部を巡り文化的教育的な会合を持っていたのだがこれが大変盛況で面白いと云っていられた先生の考え方はリベラルではあるが教条的な考え方は一切無く実践的であり生意気な云い方になるがドロクサイ面もあったその点が我々に好感を与えた訳である

さて先生の授業であるが教材は東京の教育大かどこかの副読本であり(当時の普通校には副読本等無かった)物語がいくつか全部英語で書かれているだけのものだったこれを全員で頭から翻訳してゆくのである文体は”JACK AND BETTY”風の教科書とは異なり難解ではあったが内容が理解できさえすれば面白いものであった今も記憶にあるのは英国人作家のスコットランド丘陵地帯の紀行文と米国人作家の短編でその後「ライダーズインスカイ」と云う流行歌の原作となった物語である先にも云ったが単に和訳するのでは無く完璧な日本語の最適な文章に「翻訳」するのである従って当時の英語の授業で良く使われた「……するところの何々……」と云った表現は使わせてもらえなかった単語の意味は予習していたから概ね文章が理解できても私の回答に先生が「うむ……まあそんなところでしょうね」と答えられるとこちらも意地で「それでは次回迄にちゃんとした答をしましょう」と云ったやりとりもあった先生から教わった秘術は次のようなものであった英語と日本語は語順が異なり英文をいったん最後迄いってからひっくり返して翻訳せねばならぬケースが多いのだが先にも云った通りこれを何と「頭から翻訳して行く」ことであったこれは同時通訳にも善く使われる技術であるそれ以外には言葉や発想自体の相違により意訳せねばならぬ事も多いが適当に意訳するのではなく全ての可能な訳文の中からシチュエーションに応じた最善の訳を作り出す作業で英語日本語の勉強のみならず非常に頭の訓練になった先ず本質を理解すれば恐いものが無くなり次にどの様に肉付けをして行くか先生の授業から学んだことは多かった

最初の4人の生徒の中私及び友人は昭和34年春夫々東京の文系私立大学及び大阪の歯科大学へ入学したので先生と別れてしまったが残りの2人は我々より1年下級だったので更に1年先生に教わりその2人は東大に合格することとなった私も後1年先生に教わっていたならば

さてその後先生はライフワークたる教育の道を追究され続けその御仕事が逐次拡大されていった事は人づてに聞いたり御本人から電話を頂いたりで存知上げてはいた但し人間誰しも人生で若干の回り道をしたり自己のサーバイバルに手一杯となり旧い知り合いの方に連絡を怠ることもあるものである私事繁雄先生が亡くなられたことを長い間存知上げなかったのは残念である特に平均寿命が永くなった今私とそれ程も離れていない御年齢で他界された事は天命に逆らえられないのが人間の定めとは云えことしほに残念で実にもったいないと思う御存命中は非常に幸せに自己の理想を追われた先生のあの世での御冥福を祈るのみである

川崎 昇(かわさきのぽる)

国際基督教大学教養学部社会科学科卒業

三井物産株式会社勤務(ブラジルペルー駐在後現在ポルトガル存勤)


現状に甘んじることなく先を見通しながら進んでいかれた先生

現在は高度情報化社会と云われあらゆる分野において情報の処理伝達が活発に行なわれている時代ですこの様な情報化社会の到来を数十年も前に予見しそれを支える技術者を育てるために日本で最も早く京都コンピュータ学院を設立された故長谷川繁雄先生は私の高校生時代からお世話になり尊敬する恩師でありました先生は京都コンピュータ学院の前身の前身とも云うべき和文研という学習塾を今から約30年前に経営されておられましたが私はこの和文研の初期の頃の卒業生でありその頃の話から述べてみたいと思います

私が長谷川繁雄先生それに靖子先生に初めてお世話になったのは今から29年前にさかのぽります当時私は和歌山県立桐蔭高校の1年生でした和文研は高校生を対象とした学習塾で当時は現在と違ってまだ学習塾は少なく先駆的な存在であったようです

私の高1生の時はのんびりしていたため学業成績はかなり落ち込みちょっとショックを受けていたんですが丁度和文研の生徒募集広告を手にしましたそれには「来たれ勉学の情熱に燃える若者よ」と云うような内容が書かれていて当時としては何か非常に新鮮で若い先生方がおやりになっているんだろうなという気がしましたしかし私の場合高校生の時から奨学金を受けている家庭の経済状態であったため学習塾に通うのはとても無理であったのですがその広告には経済的事情のあるものは授業料の減免も考慮してくれるとあったので厚かましいとは思ったものの塾へ話を聞きに伺いましたその時面接して頂いたのが繁雄先生と靖子先生であったと思いますが事情を聞いて頂いたところ繁雄先生は授業料のことは心配せず勉強に来なさいとおっしゃって頂き大変感激致しました和文研の教室は和歌山市内にある妙法寺というお寺の本堂の2階にあり英語と数学のクラスからなり1クラス10人位で行なっていました講師の先生方は英語が長谷川繁雄先生数学が靖子先生で他にも数人先生がいらっしゃいましたがいずれの授業も何となく自由な雰囲気の中で行なわれ楽しいものでした繁雄先生はテキストにかなり高級な英文のリーダーを使われていたように覚えていますがこれは私が英語を苦手としていたためそう感じたのかも知れません私などはテキストの英文を訳して答えてもほめていただいたことはまずありませんでしたが同級生の1人が名訳を行なった時これはうまい訳本に使ってもいいくらいだとほめられたことがありくやしい思いをしたことを今でも覚えていますこのように先生は原文の表現を文学性をそこなわずに行なうことも要求されただ訳をすればよいと考えていた私にとって大変しんどいことでしたまた靖子先生は数学が本当に好きで教えているという感じで例のように早口で説明されるのでこれまた大変なところがありましたしかし内容は明解でことに数学の勉強の方法論については大変参考になりあとあとまで役に立ったと思います

当時の和文研は先生方がいずれも若く張り切っていらっしゃって大変明るく自由で活発な空気が満ちていたと思いますそれも繁雄先生のお人柄が反映されていたのでしょう生徒も自然と優秀で熱心な人達が集まってきていたようで彼等はその後東大京大阪大等へ進学し現在各界で活躍されていますまた勉強のことだけでなくクリスマスには教室でパーティを開いてもらい楽しく過したことなど昨日のことのように思い出されます次に私自身の話になりますが私はこのような和文研を卒業しお陰様で現役で東大理科一類に入学でき工学部電子工学科を卒業し大手電機メーカーに入社致しました

そこでは電話交換をコンピュータ制御にて行なう電子交換機というものの開発設計にたずさわりました入社後数年は仕事も面白く張り切っていたのですが何年か過ぎると組織の中に組み込まれた立場が次第に窮屈になりことに上司や先輩の生き方が将来の自分の生き方になるのかと思うと何だか先が見えてしまったように思われもっと自由に自分のなっとくのいく生き方をしたいと思うようになってきましたしかしそうは云っても妻子のある身で会社をあてもなく辞めるわけにも行かずずるずると9年もたった昭和50年に阪大医学部で社会人の学士入学募集をしていることを知りしかも前々から直接人の役に立ち自由に仕事のできる医師の仕事に憧れていたこともあって試しに受験してみましたしかしにわか勉強でものの見事に失敗しましたこのことがあってから何としても医師になろうと決心がつき家内も私の思うようにやってよいと賛成してくれたので翌年1月住みなれた会社を退職し3月にもう一歩も後へ退けないため確実なところをとまた入学後の生活のことも考えて故郷の和歌山県立医大を32歳にして受験し幸に合格することができました入学してからの生活費は学習塾を開くことによって何とかなりました塾を開く時和文研のことを思い出し当時の教室を使わしてもらおうと妙法寺を訪れましたが当時の住職はすでに亡くなられており御長男が跡を継いでおられましたあの教室は和文研が京都に移られてからいろんな用途に貸していたが傷んでしまったためお貸しできないと云われましたしかし見るだけでもと見せてもらいましたが二十数年前のあの懐かしい教室はもはや面影もなく荒れ果てていたのは寂しいかぎりでした

医大の在学中繁雄先生が大きなコンピュータ学院を経営されていることを知り先生の先見の明と実力に改めて感心致しましたまた変な方向に転向した私のことをいろいろと御心配頂き医大を卒業するとすぐに京都コンピュータ学院の学校医をおおせつかり内科検診を2年間にわたりやらせて頂きましたこの時学院の大きさに驚いたのですがなおも拡張計画があることを知らされ常に現状に甘んじることなく先を見通しながら進んでいかれる繁雄先生またそれを実務の面でがっちりサポートされている靖子先生の御努力に今更ながら敬服したものですその後私の方の医大の仕事が忙しくなったため学校医を辞退させて頂いたのですがそれから間もなく繁雄先生の寝耳に水の訃報を聞き大変な衝撃を受けました志なかばにして旅立たれた繁雄先生はさぞかし御無念であったろうと思います私自身も折角医師になっていながら何のお役にも立てず残念で仕方がありません

しかし学院は靖子先生と立派な御長男が跡を継がれていると聞き繁雄先生の遺志を継いで今後も益々発展されることを信じて疑いません私は現在和歌山市内で小さい医院を開業しておりますが繁雄先生の様にいつも先を見て現状に甘んじることなく生きがいのある人生を送りたいと思っております繁雄先生天国で安らかならんことをお祈り致します

前田 親彦(まえだちかひこ)

医師


あの下駄の音がよみがえってくる

京都コンピュータ学院が開校25周年を経過され今日日本一のコンピュータ専門学校としての実績を継続して維持しておられることに対し学院に多少なりとも関係した者として誇らしくしかしその後の我が身のコンピュータなるものとの関わりから大いに気恥かしくそしてここまで学院を育て引っ張ってこられた各位に最大級の敬意を表さざるを得ません

さてこの稿で先ず語らねばならないのはいうまでもなく故長谷川学院長先生のことです

78年前のことになりましょうかある仕事上の知人から紹介され故学院長と現学院長靖子先生に(改めて)お会いしました(改めて)と書いたのは私が学院に通っていた当時から178年学院に通った事すらすでにほとんど記憶から消えかかっていたため再会も意識の中では再会でなく初対面だったからです

学生として学院に通っていた当時故学院長は直接コンピュータの授業には携わっておられなかったはずで授業中の教室へは彼が鉄骨製の階段を上下する下駄の音のみが伝わって来てその存在を我々にアピールしていたかのようです

そして再会後幾度か直接お話しさせていただくうちに故学院長の人柄にうたれその大いなる理想主義に私までも一緒になって心浮きたちその桁はずれの学識と向学心に頭の下がる思いでした周囲から見れば故学院長は京都大学文学部の特質を十二分に身につけそれを発揮しておられたようですこうして書いているとあの下駄の音がよみがえってくるようです

開校当初学生の数やその人達の職業等は私には定かではありませんが様々な人達の集まりであったように思います私達(同級生と2人)は京都大学工学部の助手であったときに名誉にも教授から指名され通いはじめました専攻である建築意匠学とコンピュータの関係など皆無に等しくただその将来を予測し得た故の教授にはるかに及ぶべくもない先見力の欠如から私はフォルトラン4とかの教科書と数枚のパンチカードを手みやげに大学から授業料が出ていたにもかかわらず中途で脱落してしまったのですその時の私の感想は「ハードウェアがもっと進歩すれば普通人にも簡単にコンピュータは使いこなせるであろうからハードの発展に期待しよう」というものでした以来25年私の思考に応えてくれるコンピュータが出現したか否かすら確かめ得ない場所に身を置いてワープロの扱いすら我社の若年社員にまかせている状態ですしかるに当時独学でコンピュータを学習していたいわゆる「機械好き」の同窓生が建築計画学の分野でコンピュータを駆使し大阪大学環境工学科の教授に就いているのは当然の帰結なのでしょうか学院に功績を残せなかった1期生としては我が非力に恥じ入る次第です

それにしても1期生の他の方々は現在どこにどうしておられるのでしょうか発足当初はもちろん専修の学校ではなく従って確立した分野もなく様々な分野からある程度経験を積んだ人々が期待と不安を併せ持ちコンピュータを各分野にいかに取り入れ利用していく事が可能かと真剣に模索しておられたかと察しますその方々の現在を知ればコンピュータの果した各分野への功績やコンピュータ自身の歴史がより鮮明に浮かび上って来るように思われます

次に建築設計の分野におけるコンピュータの占める位置を私の知り得る範囲内で記してみます

先ず私の専門とする建築意匠の分野ではその思考と回答の各人の多様さ身勝手さそれにもっと厄介な好みの問題が入り組んで設計過程にいまだコンピュータは使用されていませんただ先日ある建築専門誌にアメリカの大学での研究の中間報告が掲載されていましたまだやっと緒についたばかりといった所でしょうか何はともあれ思考するコンピュータの完成成熟が望まれる所ですそしてこのハードウェアを使いこなすソフトウェアの開発も並行して行われてゆく事を待望しています

その他製図や図形の転換透視図の作成といった点では徐々にその用途が広がりつつあります少々複雑な建物の日影図の作成やその検討はコンピュータ無しではほぼ不可能といって良いでしょう

構造設計では解析と計算においてコンピュータ無しでは成り立たない程建築は複雑にそして巨大になって来ました設備や電気の設計においては記号化された図面の作成に積算作業においては単価の記憶とそれを利用した計算へと建築の各分野でコンピュータの存在無くして考えられない所へと来てしまったのです

私がコンピュータとはじめて接した時には先見性もなく時代を先どりする進取の気概もなく入口を覗いただけで終ってしまいましたがその後のかくも急速なコンピュータの発達普及はコンピュータが市民生活に押し寄せて来たとの観すら呈していますそれだけにコンピュータに関係する方々の数も増し比重も増しその責任も重いと思われます

京都コンピュータ学院の今後のますますの御発展と社会への御貢献を心より御祈り申し上げます

番 齋(ばんさい)

京都大学工学修士

京都ソフトウェア研究会1期生

現株式会社環境施設計画 代表取締役


社会的弱者に対して最大限の優しさをもって接しられた先生

初代学院長は一度これをやると決めたからには何かあってもそれを成し遂げられる意志のかたい方でしたまた何でも活字にして見なければ気がすまないというところがありワープロの普及によって事務作業が減るどころか元職員のTさんと私の仕事量は増える一方でした

そんなある日深夜3時頃までTさんと私はワープロ入力をしていましたもう終わりという頃学院長から「こんな時間にタクシーで女の子が帰るのは危険だからぼくが送ってあげます今から行きますから待ってなさい」と電話がありました学院長はスピード狂だといううわさを聞いていましたのでTさんは自分のバイクがあるからとさっさと帰ってしまいました一人残された私は断る理由もなく学院長の車に乗せられ家路につきました

途中高野の交差点より300メートルほど前で信号が黄色に変わり止まるものと思っていましたら学院長はまだ加速されています私は青ざめましたとっくの昔に赤に変わっている信号の目前で急ブレーキをかけそこで一言「もうちょっとやったのにな」と残念そうでした

特に子供老人女性と社会的弱者に対して最大限の優しさをもって接しられた方でしたが二度と学院長の運転する車にだけは乗るまいと決心しました

まためったなことで弱気になる方ではありませんでしたが学院長が翌日入稿する入学希望者宛の手紙文を考えておられるとき(勿論深夜で随分お疲れの様子でした)たった1回だけ「末広さん文章を作るというのは本当に難しいことやなあ何度も何度も読み直して何回も何回も修正してやっと1つの文章ができあかっていくんやで」と教えきかすように言われたことがありましたいつも『前進あるのみ』という感じの学院長からは想像できない言葉でしたので今でもこのことは文章を書くたびに思い出します

末広 ゆかり(すえひろゆかり)

1981年卒

学院本部事務局文書係長


”ソフトウェア″の重要性を力説された繁雄先生は今でも私の心の師です

株式会社近畿リサーチセンター 管理部課長

安達 利夫(1971年卒)


学生時代高野校でアルバイトをしていた時によくお見かけしました休みの日に河原町で遊んでいたところ突然あらわれて「あれはどうなっているんですか」と仕事の話をされたことがありました

学院百万遍センター 松本 裕二(1985年卒)


情熱家で全てに積極的にものを考える人であった

学院京都駅前校 渡辺 敬


私は営業マンとして昭和59年から約3年間学院長にコンタクトさせて頂きましたが仕事では百万遍校舎にて何回か徹夜になったこともあり仕事に対する厳しさ教育に対する情熱については何時もお手本にさせていただきました

故人から学校設立時より一貫としてソフトウェアの重要性をコンピュータ教育の基本理念に歩んでこられたことを聞くにつけ故人の先見性に感服しておりました

当時病気入院中とは知らなかったので訃報に接した時はあのバイタリティを待った方が死去されたことはまったく信じられず現在でもこの気持は変りませんここに故人のご冥福を祈るとともに貴学院の益々のご発展をお祈り申し上げます

日本ユニシス株式会社 平松 照敏

現所属 九州支店営業一部第三営業所長

担当時 社会公共営業部


日本の教育体系を見直し教育の抜本的改定を実践そして我々の生きるべき路を伝授して頂いた師と仰ぐ

日本システム技術株式会社 大阪本部 営業部営業第一課

次長 堀 正憲(1972年卒)


時代に対する先見性を待った素晴らしい情熱家そして永遠のロマンチスト

株式会社貿易広告社 専務取締役 渡辺 浩


教育について夜を徹し話し合った日に先生の運転で京都駅まで送って戴いたのがつい先日のようです

株式会社中央企画センター 常務取締役 亀井 恵之祐


長谷川先生との初めての出会いは二十数年前私がピカピカの新人社員の頃広告出稿の打ち合わせで夕方から延々2時間程自分の夢コンピュータの話等一人熱心に話されました純粋な教育者として心を打たれた半面商売として考えるとこれで良いのだろうか と思いましたしかし以後の発展を見るにつけ教育は産業になってはいけないな教育者としての純粋な気持ちがブレーンに感動をあたえ盛り立てて健全な発展が出来るのだと思いました

株式会社朝日広告社 京都支局 福井 浩二


創立25周年 おめでとうございます

長谷川繁雄初代学院長殿との最初のお付き合いは当時国立大学にしか設置されていなかった電子計算機TOSBAC-3400を導入していただいた時からですこの時から15年間仕事を越えたお付き合いを賜わり一つ一つがすべて思い出として今まで深く脳裏に刻まれております前学院長はすべてに真摯で持てる物の内から最高を求められる生き方私にとっては人生訓としての思い出で今も心に宿っている人です

株式会社東芝 神奈川支社 産業システム営業部

情報システム市販担当課長 岩森 哲夫


初代学院長には真の教育とはこれからの専門学校のあり方などについて教えていただきましたいつも学生の立場に立って学校を運営されていたと思います前学院長から教えられたことが私の仕事をやる上でも基本姿勢になっていると思います

株式会社栄美通信 安永 光弘


存在感のある人でした

学院京都駅前校教務課長 中川 由美


世間体にとらわれないで生きることを教えていただきました最も尊敬する人です

社会福祉法人瑞穂福祉会 救護施設さつきの園主任

高橋 雄二(1978年卒)


力強い握手と輝いていた目が忘れられません

     ~1979年度卒業パーティーにて~

システムコンサルタント

代表 中村 州男(1980年卒)


人間味のある方でした

株式会社銭高組 大阪支社 建築支店建築部建築課長 大前 高義


偉大な人だった

学院広報課長 藤井 幸広(1978年卒)


常に夢と理想を追求していた人でした

学院本部事務局 岸本 詳司(1979年卒)


師に三変ありこれを望めば儼然たり

これに即けば温なりその言を聴けば厲し

学院高野校 山本 武(1980年卒)


私にとって最も強烈な印象を与えた人

言いだしたら絶対に引くことなく有無を言えない状態にひきずりこまれてしまう

しかし全てが的確で大きな勇気を与えてくれた

先生のもつ先見性と読みのするどさにただただ敬服するばかりですいまだに話しかけられていると思うことがあります

大和ハウス工業株式会社 営業本部営業推進室部長 西村 正宜


最高にガンコで最高にやさしいおやじ

日本システム技術株式会社 大阪本部

総務部人事教育課長 東田 八郎(1972年卒)


独創的な人だった

学院経理課 青山 公子(1979年卒)


雄しく頑強にして内面繊細で心やさしいお人柄   合掌

学院京都駅前校 山本 美智子


京都コンピュータ学院創立25周年を迎えられお祝い申し上げます

今から25年前といいますとコンピュータは今日のように一般家庭にまで活用される時代ではなくごく限られた特別な人々のものでしたそのような時代に情報産業社会の到来を確信され”創造性豊かな情報処理技術者の育成”をしようとお考えになった初代学院長はいかに鋭い洞察力を持っておられたかが伺えます初代学院長長谷川繁雄先生と私のお付き合いは今から思えばごくわずかでしたが色々な事をご指導くださったことは今でも印象深く私の心に残っております

大変残念なことに今はもう亡き人となってしまわれましたが現在もそのお志を現学院長をはじめ数多くの教職員の方々が受け継がれていますそれもやはり初代学院長のご人徳の現れだと常々拝見させていただいております微力ながら私も京都コンピュータ学院のお手伝いをさせていただくことが初代学院長へのご恩返しと思っております

京都コンピュータ学院の今後益々のご発展をお祈りいたします

宮川勝工務店店長 宮川 勝夫


笑った顔のやさしい人

ひらが株式会社代表取締役 平賀 裕茂


バイタリティあふれる人荒地の情報処理教育を高い理想を持ってブルドーザーのごとく切り開いていかれた人

株式会社CSK 西日本事業本部 マイコン応用システム事業部

松井 博也(1981年卒)


初代学院長在職の頃を振り返ってみますといつも緊張の日々であったように思いますそして厳しさの中に何かやさしさがあり印象の強い人物で親近感(人間性)を受け今でも心のどこかに根強く残っています

学院洛北校 鈴木 正彦(1980年卒)


独特の雰囲気があり一見恐そうな印象だが話しているうちにとても神経の細やかな人だということがわかってきたしかしその表現が下手だったまた業者を非常に大事にしてくれているという気持が伝わってきた

山代印刷株式会社 代表取締役 山代 能之


いろいろなことを教わりました

学院EDPルーム室長 河尻 年晴(1981年卒)


優しく厳しくめんどうみがいい人

正栄電機株式会社 営業課長 松下 薫


初代学院長を思い出すとまず初めに頭に浮かぶことはよく怒られたなという思いです現実にはそれ程怒っておられたことはなかったのでしょうが印象としてはよく怒られ説教のようにいろいろなことを聞かされたなと思いますそういう意味では新人職員であっても学院長はよく直接会ってくださって仕事や学校や世間のことを話してくれました初代学院長にとっては学生を教育指導するとともに職員をも教育指導することにも大きなウェイトがあったのだと思います初代学院長は私にいろいろな仕事をさせしかしそれに十分に応えることのできない私に対して怒っておられたのだと今更ながら思いますそして確かに学院長にいろいろな形で鍛えられた結果今の自分かあるのです少なくとも今の自分がこれだけの仕事ができるのは初代学院長のおかげだと思っています初代学院長が聞いておられたらまた怒られそうな気がしますが

学院洛北校 小西 薫(1980年卒)


もう一度お声を聞きたい

学院高野校 山村 充(1983年卒)


私の生涯の中で二度と同じような人には巡りあえない程偉大な人でした

学院高野校 前田 勉(1980年卒)


その時はおかしいと思っていたことも今になってみれば正しいかなと思えることがあった個性的でそして人情家だった

学院鴨川校 信末 昌弘(1980年卒)


学院生のため実習用設備等の勉学環境を整えることにとても意欲的な人であった

日本システム技術株式会社 大阪本部 第一システム部

設計グループ課長 辻 正則(1975年卒)


この10年前学院長には生きがいを与えてもらいました

学院白河校市電保守係 原田 聰