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Accumu Vol.6

便利さと人間<性悪説>-個人情報保護のためのラディカルな問い

同志社大学文学部教授 北村 日出夫

「電話番号,教えてくれる?」

男性が女性にこう訊くことは,ある状況下では,男性が女性に「気がある」ことを示しているし,女性がそれに答えることは,男性のその気持ちを受け入れることを意味している。電話番号は,男女関係の機微の中で,女性の隠喩となる。

自宅(あるいは下宿)の《電話番号》は重要な個人情報である。上記のような状況で,自らの隠喩の働きをするときの電話番号についてはそれなりに慎重にはなるが,通常の人間関係の中では「電話番号くらい」と,比較的気楽に他人に伝えることが多い。しかし,自宅(あるいは下宿)の電話番号が,その人に属する固有の情報であるという意味において,また,ときにはその人の隠喩にもなるという働きにおいて,その人のプライバシーであることに違いない。

自らの住所も同様に重要な個人情報であり,プライバシーである。だが,これに関しても,一般にはプライバシー意識は希薄である。「毎日のように数多くのダイレクトメールが送られてくる。いまや個人の住所はそれほど重要なプライバシー(個人情報)とは考えられない」という人もいる。この認識は恐ろしい。

ダイレクトメールの氾濫はおそらく「名簿」の目的外利用・漏洩・売買の日常化がもたらした結果である。プライバシー権は,通常,①一人にしておいてもらう権利(干渉阻止権)と,②自已に関する情報の流れをコントロールする権利(自己情報支配権)の2つを含む。

「名簿」の目的外利用・漏洩・売買は,この②の自己情報支配権を侵害している。このことに気づかず,日常的なダイレクトメールの氾濫という現象だけに目を奪われて,重要な個人情報である《住所》を軽く考え,そのプライバシー権を意識しない傾向は困ったことだ。

先日,NTTから地域の「電話番号簿」が届けられた。私の名前と電話番号だけでなく,号地番号が入った詳しい住所まで記載されている。「住所を番号簿に載せることを了解した覚えはない」と地域のNTTに抗議すると,住所記載に本人の了解が必要だという認識がないばかりか,「住所記載を便利といわれる方が多いので」と,《住所》が第一級のプライバシー(個人情報)であり,自らが他人のプライバシー権(自己情報支配権)を侵害しているという意識が担当者にまったくないことに愕然とした。

「隠し事するのは水くさい」

私の職場の大学では,学生の個人情報を扱うことが多い。学生の個人情報には,大きく分けて,①学生が報告通知するもの,②の教育活動上発生する情報,がある。①は,氏名・生年月日・住所等々,②は学業成績を主なものとして,図書の借出や健康診断等の情報がこれに含まれる。

教師は学生生徒の上に立つもの,学校は学生生徒のために教育を行うところ,といった学校での権力関係から,彼らの個人情報を本気になって保護するという考えが顕在化したのは最近のことでしかない。また,学校が学生生徒の情報をどのように取り扱おうがそれは学校の自由である,という考えがまったくなくなったわけではない。学校に保管されている自らの教育情報の開示を求めることも,ついこの間までは「してはいけないこと」と考えられていたし,今日でも簡単にできるわけではない。自らに関する情報の開示は,先に述べたプライバシー権の②(自己情報支配権)に当たるものであるが,それが自らの権利であることの意識が,まだ,きわめて希薄である。

地位や立場の上のものは,下のものの個人情報を自分だけの裁量で自由に扱えるものだと考えてきた。人権という観念が存在しなかったから当然といえる。歴史的にいって,権力はいつも民衆のプライバシー権を踏みにじってきた。社会的に平等がタテマエになった今日でも,こうした伝統的な考え方はなかなかなくならない。

また,日本文化はプライバシー(個人情報)を保護する意識を育ててこなかった。「隠し事をするのは水くさい」「自分のことを言わないなんて,何と他人行儀な」といった《裸のつき合い》を最高と考える人間関係の中では,およそプライバシーという観念自体生まれようがない。プライバシーと関連するプライベイトprivateの対比語はパブリックpublicである。日本語の「私」と「公」は,英語のプライベイト・パブリックとは似て非なる言葉である。プライベイトには,西欧の個人主義からくるindividual(独立した個人=《個》)の観念が内包されており,パブリックと緊張関係をもちつつこれに対立する。これに対して,日本語の「私」にはindividual(独立した個人=《個》)の観念はまったく含まれず,「公」の付属物・従属物でしかない。

このように,日本は,その歴史の中で,二重の意味でプライバシー(個人情報)意識が存在しなかったといえる。

便利さと人間〈性悪説〉

コンピュータの発達・普及で,大量の情報の処理が短時間に手軽にできるようになった。たとえば,地方自治体が管理する住民情報は,かっては,手書き・人手による検索・コピー機などの組み合わせで処理されていた。戸籍抄本を請求すると,役所の職員が,戸籍簿が収納されている棚に行き,当該の冊子を取り出し,請求本人のページを探り当て,それをコピー機でコピーする(コピー機が普及する前は,手書きで書き写していた),という一連の手作業が必要で,職員の労働と所要時間は大変なものだった。役所にコンピュータが導入され,種々の住民記録がインプットされ,コンピュータでそれらの情報が処理できるようになって,これらの一連の手作業は姿を消し,あっという間に必要情報を取り出せるようになった。さらに,これらの住民情報のさまざまな加工も役所内でいとも簡単に行われる。住民にとっても,請求した情報が短時間に手にできて便利になった。

高度情報化社会は,情報処理作業の便利さとその便利さの適用範囲の飛躍的拡大を意味している。便利さを手にした人間は,できることを次々と試みてみたいという欲望を抱く。自然の人間心理である。プライバシー権とか人権という観念はこのときどこかに行ってしまう。個人情報の取扱いをどのようにするのがよいかということより,コンピュータを使ってどれだけの処理が,どれだけ早くできるかに関心がいく。

人間を機械の奴隷にする《便利さ》に打ち勝つ方法は,便利なものを扱うとき,人間は必然的に悪いことをする,という認識に立つことである。この歯止めをもつことが,高度情報化社会といわれる今日の情報処理取扱い者に求められる。

《慣れ》を断ち切ること

本年(1994年)9月8日(日本時間)に,アメリカの旅客機がアメリカ東部ペンシルベニア州ピッツバーグで,着陸直前に墜落,爆発炎上し,乗客ら131人全員絶望?,という事故があった。

この種の事故が起こると,日本のTVなどは「乗客に日本人がいたかどうか」を報じるのが常である。ところが,航空会社のUSエアから「乗客名簿」がなかなか発表されず,今までの航空機事故と異なっていることに気づかされた。しばらくして,TVは「航空会社が,名簿に記載されている乗客の各家庭に電話連絡をしており,その際,名簿を発表してよいかどうかも確認しているところなので,乗客名簿の発表が遅れている」と報道した。USエアは,どの航空機に乗っているかはその乗客のプライバシーだと捉え,亡くなったにしても,プライバシー権の考えに基づいて,その家族に当人のプライバシーを「公表してよいかどうか」を確認していたのである。この航空会社のとった態度と比較するとき,日本人のプライバシー意識の遅れを痛感させられる出来事であった。

世界に例をみないTVの「ワイドショウ」が日常的に個人のプライバシーに土足で踏み込んでいる状況に,われわれ日本人は慣れ切っている。この慣れから脱出し,《個人》,個人情報,およびプライバシー権を尊重するように日常的・自覚的に努力すれば,日本も世界史的な意味で「文明国」になりうる。20世紀末の今日,これまでの殆どの思想は使い果たされたといわれている。便利さが思想を食いちぎったのかもしれない。それでも,コンピュータを上手に扱い,情報処理に長けたわれわれに突きつけられているものは,依然として「人間とは何か」「情報とは何か」というラディカルradicalな問いである。

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北村 日出夫
Hideo Kitamura
  • 同志社大学文学部教授

上記の肩書・経歴等はアキューム6号発刊当時のものです。