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Accumu Vol.10

巻頭言 21世紀を迎えて・・IT時代は「情報と頭脳」の時代 ―システムの創造的破壊とソリューション教育を―

長谷川 靖子

21世紀の幕開けです。

新聞,テレビ,その他マスコミ上では,数年前とはうって変わり“IT狂想曲”の感がある昨今です。

さて,この話題の「IT」というのは,皆さんご存じの通り,ソフトウェア・ハードウェア・ネットの総合技術であることはいうまでもありません。

IT技術による合理化と効率化により,省庁,企業等全ての組織内でのペーパーレス化,組織のスリム化,また対外的にはB to B(Business to Business)による流通機構の省略化,B to C(Business to Consumer)による直販化による価格破壊など社会経済の仕組み,構造変化が次々と実現しています。更に,ネットを通じての知人・友人とのコミュニケーションや,ネットを通じての新しいコミュニティ・グループの誕生など生活文化面での大変容が起こっています。ITは単に技術革新でなくその本質は,社会構造・生活文化の大変容をもたらすイノベーションであると判断され,これが「IT革命」と呼ばれる所以となっています。この認識は大変に重要です。

ここでITの技術的側面に目をつぶり「情報」という切り口においてインターネットの本質を分析してみましょう。インターネットの本質は,一つには情報障壁がフリーになった。それがまず第一。つまり情報というものが一部の人間に占有されていて,草の根の人間はそれを簡単に見ることが許されなかった,そのバリアーが崩壊しました。「情報の開示性」の実現です。もう一つの重要な点は,誰もが発信できるという,インタラクティブ性にあります。言い換えれば「情報の平等性」です。三つ目の大事なインターネットの本質というのは,「情報の共有性」ということです。現在では,情報というのは,初期の頃の単なる「データの共有」という次元を超えて,「知識の共有」に拡大されています。つまり,大きな知的ストックを誰でもシェアする,その知的ストックの共有性です。自分の中にでなく外部に蓄えておく,でもそれは自分の中にあるのと同じようにいつでも引き出し得る。膨大な知識を自分のものとして活用していけるという,大きな知識の宝庫の共有性です。情報の開示性,情報の平等性,情報の共有性,これらの土壌は,草の根的な「民」の自由な抬頭を可能にします。

イノベーションの主導は,一握りのトップにあるのではなくて,草の根的な「民」に移行するという流れの変化はこの土壌において可能であり,これが新しい21世紀の特徴になってきているわけです。草の根が主導の民革ともなれば,当然一番大事なのが“教育”ということになります。情報化社会の中でイノベーションを推進する「民」の頭脳開発のための教育を何よりも優先せねばならない。国策としても,一番投資しなければいけないのは教育の分野でしょう。IT革命という言葉は森首相の代名詞のようになっていますが,政府当局のみならず,社会通念としてもITを技術的側面で捉え過ぎ,ITは実は“文化の大革命”なのだ,そしてそれを主導するのが「民」なのだという認識にまで徹底して及んでいないように思えます。

我々の如きコンピュータ教育機関としては,コンピュータ教育が専門だから,これまで通り,新しい技術に沿って教育をしていくだけでよいと考えていたら大変な時代錯誤になってしまいます。ITに関しては,技術面,生活文化面,社会経済面,国際政治面など全てが関わっているわけですから,我々はこれらの複数の側面を理解し,学校運営の方法も,教える対象も,教える内容も21世紀型で対応していかねばなりません。

技術の分野,教育の分野,経済の分野,政治の分野というように,縦割りでバラバラに共存するのではなく,IT時代においては,これら全てが相関関係にあります。この関係は学校の経営,運営面で考慮すべきだけではなく,学生にもしっかりと教えねばなりません。“技術立国日本”で世界に名を馳せながら,その富は殆どそっくり外国に持っていかれたという過去の経緯は,技術外の分野に無関心であった技術者の責任でもあるのです。我々は技術教育のみならず,社会時代的考察の教育を疎かにしてはなりません。

情報の自由化が進むにつれ,急激な世界的グローバリゼーションが進行していっています。国境を越え,民族を越え新しいIT時代のうねりの中で,企業はいち早くグローバリゼーションの波にのり,国際企業間で,合併吸収が盛んですが,つまるところ,弱肉強食の進行です。

情報化社会が進むにつれ,今後は次々とベンチャーの抬頭が現れるでしょう。情報の自由化の土壌において,「IT」は個人に真っ先に有利に働くからです。草の根から生まれる傑出した頭脳を持つ個人は,ダイナミックに経済社会を変えていくでしょう。“情報と頭脳”を武器に,草の根からボトム・アップ・パワーの勝ち組が,途上国からも続出してくることでしょう。知価社会のベンチャー企業が次々抬頭し新しい世紀の国家社会における経済発展の牽引力となるわけですから,まさにITの時代は,「情報と頭脳」の時代です。

ITリテラシーの重要性は,世界的にも充分認識され着々とその普及が進行していっていますが,今,なお,なおざりにされている重要な課題は「傑出した頭脳育成」という教育の課題です。

アメリカの前財務長官サマーズは新国富論として,ニューエコノミーを謳っています。“物を作り,売ることによって経済が発展する時代ではなくなった。知識による付加価値によって経済が発展するのだ。ダーウィンの「適者生存」則が適用され,弱者は強者に淘汰されていく。勝ち組が全てを手に入れる。・・・”云々です。ソフトウェアは知識です。新しいビジネスモデルを作るというのも知識です。お客さんのニーズをキャッチして,それに合うサービスを提供し,その対価としてお金をもらうというソリューション・ビジネスも知識です。「知識」が主たる商品として登場します。これは工業化社会の「製品」が主たる商品であったのと大きく異なります。つまりサービス業が製造業にとって代わる知価社会の到来です。

もうひとつ,先般から述べて来ました適者生存則の支配するつまりは弱肉強食のグローバリズムもニューエコノミーの特徴です。

知識の付加価値をばねにして経済が発展するという時代は,工業化社会の設備に対する投資に代わって,頭脳に対する投資優先の時代です。頭脳への投資が如何に国富の為に重要かが力説されています。“教育”が,世界的に重要視される時代になったわけです。

ではどういう「教育」が今日的な教育になるのでしょう。明治以来,日本の教育というのは,知識の吸収でした。一生懸命になって知識を吸収する。吸収した知識を活用し,それを伝えていく。そういう類型的な学習のパターンは今日求められている教育に叶うのでしょうか。当然見直しが迫られています。絶えず学んでいき,絶えずそれを捨てていかなければいけないという,そういう教育が21世紀型教育に必要です。絶えず学んでは捨て,学んでは捨てという,そういう創造的破壊の才能開発が,教育のパラダイムとして,今日的な意味において,考えねばならないのです。

こういう方法は,陶芸家,彫刻家,画家などの芸術家の創造過程によく見られるパターンです。作っては壊し,作っては壊しを繰り返しながら満足のいくまで作品を完成させていく。芸術創造の過程では珍しいことではありません。しかし,集団として,組織として動いてきた歴史を持つシステムの場合,創造のための破壊というのは大変です。例えば,職場において,我々が「学ぶ」という時,それは同時に「習う」ということを意味しました。先人の作ったシステムを教えられ学び,先人に習って仕事をし,またそのまま次の人に伝えていく。この学習の過程は,学び習う単純な繰り返し作業であり,創造性とは程遠い物です。組織において,すでに惰性化されている仕事に対する考え,仕事の流れの処理を打ち破ることは,メンタルの面で,本当に難しいでしょう。しかし今,時代の流れ,社会の変化はそれを厳しく要求しています。先人の作った道を創造的に破壊すること。単に壊すのではなくて,創造のための破壊であり,新しい構築の中に,過去の良きDNAを違った形で蘇らせなければなりません。弁証法の中の「否定の否定の法則」です。

芸術家が創作活動において,作っては壊し,作っては壊す・・・ということができるのは,個人の閉じた責任空間においてであるからですが,もう一つ大きなファクターは自らのidentityを死守するからです。つまり,その作品が「どうあるべきか」が,妥協できない精神において捉えられているからです。一方,組織内では反対に,協調的であることが個性的であることより優先され,その結果,自己を無にし,組織に依存し,主体的な自己責任の文化とは程遠いところで,かえって組織は,うまく機能してきたのです。

今,時代が変わり,“創造のための破壊”が打ち出されても,システムへの依存心が習性となった自立心なき人々は,次に依存できる新しいシステムを本能的に求めようとします。新しく依存できるシステム探しに右往左往する姿は,現在の日本の断面図です。

ここに,これまでの日本の教育の大きな盲点が暴露されています。すなわち,明治以来,教育を“学習”と定義し,急速に西洋文化を輸入吸収し,近代国家を形成してきたわけですが,最も大事な“個”の独立がなおざりにされたのです。

“learning to be”という言葉をよく耳にしますが,まさに自分が,また自分の属している組織が,更には日本が,“何であるか”,“どのように成るべきか”,その基本的な問いかけが近代国家成立のスタートラインであるべきでした。歴史や,哲学を勉強して,“自分とは何か”,“自分はどうなるべきか”を考える過程で,自分の判断力が育ち,自分のidentityが熟して来ます。“組織内ではナンバーワンにならなくともよい。オンリーワンになれ”と言った人がいます。“learning to be”の思考において,自分のidentityが確立していれば自己責任空間を持つことができるでしょう。そしてそれが組織のよき創造をもたらす一方法になるかもしれないと考えられます。

自分の属しているシステムの再生の為に,ひいては,日本再生の為に,我々は自分で律することが肝要ではないでしょうか。

さて,最近,我々の専修学校への大卒者・大学中退者の入学が毎年増加しています。これは大学が学生に対する要望に応えられなかったことの現われです。

「教育」という視点で世の中を眺めれば「大学」に限らず小学校・中学校・高校のどこでも深刻な問題が山積みです。「教育」の本質が問われなければならない時です。小学校・中学校・高校・大学ともに,文部科学省からのトップダウン方式で,教え,習う,知識の偏重の「教育」が主流であり,また私学はそれに追従して来ました。

今後は,ボトム・アップの力学で,抜本的な教育の見直しがなされねばなりません。子供,生徒,学生の人間の内部にフォーカスした教育におけるソリューションが明確に見えてこないのです。まず教育機関のシステムの創造的破壊が必要です。特に教員の「教育」に対する意識改革が必要です。そして,教育方法論としてのボトム・アップ力学です。

“これからのビジネスは顧客ニーズを拾い上げ,ソリューションを与えると言うところに重点をおかねばならない。サービスの対価としてお金を受け取るのだ”というニューエコノミー論に基づいて,ヒューレット・パッカードを皮切りに,富士通その他も,メーカーの名を捨て,ソリューション・ビジネスを看板に打ち出すようになって来ました。教育界においても学生の求めに従って,学生に合うように教える。そのサービスによって,授業料を受け取るという基本に戻らねばなりません。しかしこれは,ニューエコノミーを待つまでもなく,まさにギリシャの時代から始まって,その後,大学大衆化の時代まで続いた大学の原風景でした。

数年前より,京都コンピュータ学院では,教育方法のIT化に踏み切りました。従来の教科書・黒板・ノートによる現代学生にとっては,極めて退屈な授業の代わりに“ソリューション教育”を掲げ,コンピュータ,デジタル・コンテンツ,パワーポイントを用いたノートレス・ビジュアル講義に切り換えました。これが在学生の現代気質に大いに受け,授業は活性化しました。

おそらく,全国で初めての試みでしょう。学生は大変に満足し,先生と学生間の親近感も盛り上がりました。トップダウン式の“知識を与える”というマンネリ教育を捨て,学生たちの人間の内部に入って,誰でもが必ず持つ,成長しようとする芽を発見し,現代気質として関心を持つ方法を用いて知識を高め,知能を啓発する。

このようなボトム・アップ教育こそ一人一人の創造的才能開発教育になっていくのだと信じます。勿論,先程の“learning to be”は自立の基本であることは,申すまでもありません。

学生は学校に何を求めて入学したか。社会は,時代はどのような人材を要請しているか,そのソリューションを出すことに,教育機関は自らの命運を賭けなければなりません。

「教育」が最重要視されるというIT時代,低迷する日本がめざすのは“ソリューション教育”であり,その教育こそが国家繁栄のキーを握っているのではないでしょうか。

(新世紀年頭の講話より)

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長谷川 靖子
Yasuko Hasegawa
  • 京都大学理学部宇宙物理学科卒業(女性第1号)
  • 京都大学大学院理学研究科博士課程所定単位修得
  • 宇宙物理学研究におけるコンピュータ利用の第一人者
  • 東京大学大型計算機センター設立時に,テストランに参加
  • 東京大学大型計算機センタープログラム指導員
  • 京都大学工学部計算機センタープログラム指導員
  • 京都ソフトウェア研究会会長
  • 京都学園大学助教授
  • 米国ペンシルバニア州立大学客員科学者
  • タイ・ガーナ・スリランカ・ペルー各国教育省より表彰
  • 2006年,財団法人日本ITU協会より国際協力特別賞受賞
  • 2011年 一般社団法人情報処理学会より感謝状受領。
  • 京都コンピュータ学院学院長

上記の肩書・経歴等はアキューム22-23号発刊当時のものです。