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Accumu Vol.7-8

熊楠の手紙

京都コンピュータ学院洛北校校長 牧野 澄夫

はじめに

1891年熊楠25歳アメリカにて
1891年熊楠25歳アメリカにて

インターネットばやりです個人が世界に向けて情報を発信することができる夢のような時代が到来したといたるところで喧伝されています

ところで個人が個人の資格で情報発信を行なうということは権威の後ろ楯をもたないということです考えてみればわれわれの発信受信する情報でそんなものがこれまでにあったでしょうか仲間うちのおしゃべりを別にすれば情報にはいつでも権威のお墨つきが必要であったといえませんかこれに対しインターネットはそうした権威をもたないとすればこれは非常に民主的なものといえますデモクラシー(民衆の力)の言葉通り平凡な名もない民衆の声が認められるのですから

つまりこれまで情報はいわば水と同じように高いところから低いところへ流れ同一平面にあって横へ広がるのはうわさだけだったというわけですしたがってインターネットがその真価を発揮するためには真に個人が個人の資格で世界に情報を発信する方法が問題になりますつまりどうすれば「うわさ」とは質を異にした情報を権威に頼らず自力で横へ広げてゆけるかを考えることが必要になります

「南方は大学には行かないで大学者になってしまった学会に所属しないお金もないし権力もないし名声もないけれども人から管理されるのが大嫌い自分一人で立って世界に向けて発信しているその快さ自由さが今の人にとってはうれしいのであって熊楠は自由のシンボルなんだと思う(*1)

インターネット大はやりの時代だからこそ私には稀有な存在として「自分一人で立って世界に向けて発信している」南方熊楠があらためて思い起こされます彼は権威におもねることを一切拒否して生涯在野の学者を通したのでした

そこでこれから少し情報収集と情報発信の両面において人並みはずれた巨人的な活動を続けた熊楠について考えてみたいと思いますなかでもここでは手紙というメディアを使った熊楠の情報発信活動を取り上げます後述するように(私的な)手紙というものはある意味で権威に頼らない自立した情報発信の中核部分だと思うからです

南方熊楠という人

南方熊楠は1867年つまり明治維新の前年に和歌山の裕福な商人の家に生まれ波乱に富んだ75年の人生を送りましたその経歴については1925年58歳の時に彼自身の筆による長大かつ特異な『履歴書』(巻紙で8m30cm字数37000字余り)が今に残されています実はこれも個人にあてた手紙なのですが

それによれば彼は「勉強大好き学校大嫌い」(*2)の人間でした和歌山中学時代成績のよくなかった理由として「これは生来事物を実地に観察することを好み師匠のいうことなどは毎々間違い多きものと知りたるゆえ一向傾聴せざりしゆえなり」(*3)と述べています中学卒業後は上京して東京大学の予科である大学予備門に入学しました正岡子規夏目漱石と同期でしたここでも「授業などを心にとめずひたすら上野図書館に通い思うままに和漢洋の書を読みたり」(*3)その結果落第しまた病気にもなりとうとう退学してしまいます

大学予備門を退学した1886年の終わり今度はアメリカへ留学しましたしかしあいかわらず大学を「欠席すること多くただ林野を歩んで実物を採りまた観察し学校の図書館にのみつめきって図書を写し抄す」(*4)という生活でありましたまたもや早々に退学植物採集に専念してフロリダからキューバまで出かけていますこの採集の旅ではコケの新種を発見しますが「これ東洋人が白人領地内において最初の植物発見なり」(*5)と大いに自慢もしています

1892年9月今度はイギリスに渡りロンドンの安宿に居を定めますここで彼は主として大英博物館に通って独学で勉強を続けます「抄出また全文を写しとりし日本などでは見られぬ珍書五百部ばかりあり中本大の五十三冊一万八百頁に渉り」(*6)という猛勉強の成果がロンドン抜書の名で今に残されています

1900年に14年ぶりに帰国した熊楠は南紀田辺にすむことになりましたそして以後はこの地から世界に向けて情報発信を行うのです一方で熊楠は粘菌の研究にいそしみ新種の発見を重ねるとともに時代をはるかに先駆けてエコロジーの立場から種々の自然保護運動に狂人的なまでの精力的な活動を行ないました他方では主として比較民俗学の分野で執筆活動にはげみますまずロンドン時代から継続して週刊科学雑誌「ネイチャー」に投稿総計50編の論文(英文)を発表しましたまた同じくロンドンで発行の週刊文学兼考古学雑誌「ノーツエンドクィアリーズ」には総計323編の論文(英文)を発表していますさらに邦文でも「十二支考」(現在岩波文庫で上下2巻)をはじめ数多くの比較民俗学関係の論文を書くのです

ところで情報収集に関して彼には独特の方法がありました前述のように抜き書きという方法がそれです少年の日に「『和漢三才図会』百五巻を三年かかりて写す『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』等の書を十二歳のときまでに写し」(*7)とった時以来の方法です娘の文枝さんの言に「父はいつも私どもに『本を五度読み直すならば代わりに二度筆写せよそして毎日日記を怠るな』と教えてくれました父は幼少の頃からすべて筆写と日記をつけることにより記臆力を養ったようです」(*8)とあります

こうして南方熊楠は情報収集(*9)と情報発信に関して自力で人並みはずれた業績をあげたといえるでしょうなお手軽に読める(しかし単なる子供の本ではない)伝記として『南方熊楠-森羅万象を見つめた少年-』飯倉照平(岩波ジュニア新書)があります

柳田国男との往復書簡

1914年11月21日付 柳田あての熊楠の手紙(冒頭部分の拡大図)
1914年11月21日付
柳田あての熊楠の手紙
(冒頭部分の拡大図)

熊楠は生涯にぼう大な量の手紙を書きました平凡社の全集全12巻のうちでも4巻が書簡集にあてられていますさらにその後発見された手紙も多数あります

その中でも有名なのがロンドン時代に知りあった真言宗の僧土宜法竜との往復書簡(飯倉照平長谷川興蔵編八坂書房)と前出の『履歴書』(これは矢吹義夫あての手紙)それに民俗学の父柳田国男(*10)との往復書簡(飯倉照平編平凡社ライブラリー)です

ここでは柳田国男との往復書簡を取り上げます「柳田国男に宛てた部分は(*11)書かれた時期や内容から見ていちばん密度が高いように思われる」 からです

1911年3月19日柳田国男は南方熊楠あてに最初の手紙を出します「拝啓オコゼのことは小生も心がけおり候ところ今回の御文を見て欣喜禁ずる能わず」熊楠の『山神オコゼ魚を好むということ』を読んで感動した柳田の手紙でしたこれに対し熊楠はすぐさま応じ両者の間で手紙のやりとりが始まりました

現在柳田国男の手紙75通熊楠の手紙162通が残されています特にひんぱんに手紙が交わされたのは1911年から14年までの4年間でした(その間の柳田の手紙65通熊楠の手紙159通全体的に柳田の手紙より熊楠の手紙の方が長いものが多かった)最後の手紙は熊楠から発信された1926年6月6日朝7時という日付をもっていました

その多くの手紙のやりとりの中で熊楠が1日に2通以上の手紙を書いたのは18日にのぼります中には1911年6月25日のように午後5時夜10時と夕方から夜にかけて3通の手紙をしたためた日もあるのです(柳田にはそんなことはほとんどありません)

また柳田から卍について万字と読むいわれをたずねられたのに対して熊楠は実に7通の手紙の中で論及しています

1912年

   3月11日夜9時

      「卍を万とよむは

   3月12日午後6時

      「卍との別

   3月13日午後5時

      「卍の源を説きし人」

   3月19日夜10時

      「故に卍が本字にて」

   3月20日夜11時

      「卍字世俗まんの字」

   3月29日

      「卍字を如来の胸のしるしと」

   3月29日

      「卍字(土宜師はとかけり」

柳田にとってはまずその手紙の回数と量だけでも圧倒される思いがしたでしょうさらにその内容において和漢洋の文献を縦横に駆使した底知れぬ知識のほとばしりには仰天し感嘆するばかりでした柳田は人を頼み熊楠の手紙を清書させて「南方来書」として保存したのでした

熊楠の手紙

ロンドン抜書の一部
ロンドン抜書の一部

「熊楠の手紙は日本で最高の手紙です書簡文学という分野があるとすれば書簡文学の最高傑作は熊楠のそれと言ってもだれも反対できないでしょうそれほどすばらしい書簡ですとにかく手紙に熊楠が情熱をそそいだことは読めばすぐにわかります(*12)

娘の文枝さんの話では熊楠は「書きだしたら決して反古ができないのです書き損じて破ったりするようなことは一切ないのですサーと一気に書くんです手紙でも原稿でもぶっつけで書き出したらこちらへちょっと休みに来ましても2時間ですね眠るのは」(*13)というありさまでした実際熊楠自身が手紙の中で「今回の御通知は右にて擱筆仕り候かき終りしは五月二十五日夕にてかき始めし日よりかれこれ一週間かかり申し候」(*14)とか「小生は件の土宜師への状を認むるためには一状に昼夜兼ねて眠りを省き二週間もかかりしことあり」(*15)こうして前に書いたように長いものは文庫本で80ページ余にわたる書簡(『履歴書』他)を書き続けたのでした

なぜ熊楠はそんなに数多くの手紙をまたそんなに長大な手紙を書いたのでしょう単に人の安否を問うものではなくて論文にするのがむしろふさわしい内容をなぜ特定の個人にあてた手紙という形で書いたのか送られた相手がなくしてしまえば永久にこの世から消えてしまう恐れがあるというのに

ロンドン抜書の一部
ロンドン抜書の一部

その理由として熊楠は日本の学界を相手にしなかったという説があります真に書くべき論文は英文で書いて世界の学界に発表したのだと柳田にあてた手紙の中で熊楠自身次のように書いています「従来欧米で出せし自分の論文は到底今の邦人には向かぬものとあきらめ筐底に放置しあり日本人が自前日本ばかりの凡衆にほめられたりとて後日までの功名にならず」(*16)受け取りようによっては彼の書いたものの中で最も価値のあるものは英文論文であって邦文で書いたものは一ランク下だということになりそうですそのためこの手紙は柳田国男の反発をかっています

しかし熊楠の真意は別のところにありました別の手紙で「ライプニッツはdoctor universale (一切智)といわれし常に書状を智識の貯蓄所(レパ-トア-ルあずけどころ)なりとて念入れて書き今に遺れりその他の学者いずれも深奥重畳の学問の底処は公刊せず多くは後年を期して一二会心の友に書き与えしものなり(ダーウィンなどすら然り)これ欧州に死後集の出板多き所以なり小生も今後ひまあらばせめてこの状ごときものを多く筆し貴下に預け置くべし」(*17)柳田に書き送っています熊楠は「世間に知らるるを期して書く文書には深きことは書きおおせられぬものに候」(*18)つまり論文の形で情報発信のしにくいもの(*19)を手紙にしてそうしてまさに知己に送ったというわけです

また熊楠は前掲の「土宜師への状」にふれた手紙の中で続けて「何を書いたかは今は覚えねどこれがために自分の学問灼然と上進せしを記臆しおり候」(*15)と述べていますつまり彼にとって手紙を書くことは「深奥重畳の学問の底処」を「会心の友」に書き送ることだけでなくまずそうした「学問の底処」をつかむための手段でもありました熊楠にとって手紙はいわばソクラテスの対話法(ディアレクティケー)にあたるものでもありました

さらに熊楠にとって手紙を書くことは食べること眠ることと同様に生きてゆく上で必要不可欠のものであったのかもしれませんはなはだしい癇癪もちで狂人になるのが心配された熊楠は植物標本を集め顕微鏡をのぞくことで精神のバランスをとったといいます彼のエネルギーをまるごとそそぎ込んだような手紙にもそんな書かずにはいられない思いが伝わってきますそのためかもしれません彼の手紙は混沌とし錯綜しているともいえます「話にどんどん枝がはって」(*20)ゆくのです一言でいえば猥雑なのです(その点で柳田国男のはるかに冷静で紳士的筋道立った手紙と大きな違いがあります)しかしそれこそ熊楠の手紙の大きな魅力と言えるでしょう

おわりに

「わかった」と嘆声をあげたくなるほどに感動した文章とはまさに手紙の如くあたかも著者が肉声で自分に語りかけていると感じられるものではありませんか

英国の作家ヴァージニアウルフのエッセーにケンジントン公園ではじめてクロッカスが咲いているのを見て心動かされる作家の話があります作家はまず誰にあてて書くかを考えるといいます「『そんな者のことなどすっかり忘れてしまいたまえただ自分の見つけたクロッカスのことだけを考えるのだ』こんなふうに言ってみてもはじまらないなぜならものを書くということは人と交わるための一つの方法だからである(*21)

ものを書くのが特定の人との交わりであるとするならものを書く基本は手紙であるといえないでしょうかもっと広く情報発信受信の全体を考えてみても特定の人との交信が基本となりませんか

コミュニケーションはコモン(共通の)コミューン(共同体)コミュニオン(霊的な交わり)等と起源を同じくする言葉ですコミュニケーションの基本は「我と汝」という特定の二人の間の交わりなのです

手紙を書いている間は相手のことを考え続けているのですその時相手のことを考え続けることによって「我と汝」のいわば共同体を打ち樹てるのだといえますその意味で手紙は口頭での会話とともにいや時には会話以上に情報発信(コミュニケーション)の中核部分といえるのではありませんか

インターネットによって個人が世界に向けて情報発信する可能性が見えてきた現代です今こそ権威を盾にしない自立した個人による「横に広がる」情報発信が問われていますそこで熊楠です彼が「一人で立って世界に向けて発信した」英文論文は特定の個人にあてた手紙という形での情報発信の上にこそ花開いたものといえないでしょうか真性の「私」から真性の「公」へと広がる情報発信を実現するために今こそあらためてその最も原初的かつ基本的な形態として手紙の価値を考えてみてはいかがですか

*1 鶴見和子鼎談「萃点に立つ熊楠」(『現代思想』1992年7月号青土社)51頁

*2  鶴見和子『南方熊楠』(講談社学術文庫)117頁

*3 南方『履歴書』(南方熊楠コレクション第4巻中沢新一編集河出書房新社)299頁

*4 同右書 300頁

*5 同右書 302頁

*6 同右書 309頁

*7 同右書 299頁

*8 「父南方熊楠を語る」(谷川中瀬南方『素顔の南方熊楠』朝日文庫)299頁

*9 幼い日の抜書ロンドン時代の抜書田辺での抜書とぼう大な書類が白浜の南方熊楠記念館に保存されています書物の抜き書きだけではありません例えば東京時代に土器から人骨からありとあらゆるものを収集していますまた田辺時代の熊楠は文枝さんの言によればつとめて市井の人々と交わり書物では知りえぬ情報を集めています洋服屋紋描き金物屋指物屋桶屋さらに「これと思う人が銭湯にくる時間を見はからって出かけてゆくこともありました」と(同右書)

*10 柳田国男(1875~1962)政治史経済史等に偏った「歴史学」に対し名もない庶民の暮らしと神話伝説を通して日本人とはなにかを研究する民俗学の創始者

*11 『柳田国男 南方熊楠往復書簡集』下編者によるあとがき

*12 谷川健一「二人の巨人」(『素顔の南方熊楠』朝日文庫)232頁

*13 「父南方熊楠を語る」83頁

*14 『柳田南方往復書簡集』上「明治四十四年五月二十五日夜九時過」(1911年にあたります

*15 同右書 「明治四十四年六月二十五日午後五時」

*16 同右書 「明治四十四年十月十三日朝」

*17 同右書 「明治四十四年十月二十五日午後」

*18 同右書 「明治四十四年十月二十五日午後五時」

*19 最近こんな文章を見かけました「『自分の思いや感性をどこかでそぎ落として論理だけで社会を見ようと』した結果正確なようでいて事象に肉薄していない論文『私』の動機と『私』の責任があいまいな仕事が生産される」これは本年6月9日朝日新聞で見た阿部謹也『ヨーロッパを見る視角』(岩波)の書評の一部です

*20 「父南方熊楠を語る」104頁熊楠は子どもに小言を言いだすととまるところを知らず「話にどんどん枝がはって」いったと文枝さんが語っています熊楠の手紙とどこか似ています

*21 ヴァージニアウルフ「パトロンとクロッカス」なおこの文章はストー『人格の成熟』(山口訳岩波同時代ライブラリー)から引用しました45頁

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牧野 澄夫
Sumio Makino
  • 京都大学大学院文学研究科博士課程修了
  • 専門は「西洋哲学史」
  • 京都コンピュータ学院副学院長京都コンピュータ学院京都駅校前校長

上記の肩書経歴等はアキューム15号発刊当時のものです