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Accumu Vol.16

サラエボ紀行

「悲劇」が眠る 豊かな心と自然の国 ボスニア・ヘルツェゴビナ政府にパソコンを寄贈

京都情報大学院大学 准教授 植田 浩司

ボスニア・ヘルツェゴビナ

ボスニア・ヘルツェゴビナ

到着したのは夜中だったので気が付かなかった。朝食をとるためホテルのレストランへ入るとすでにテラスには多くの人がおり,その向こうにサラエボを囲む山々が見えた。朝霞みの中に赤茶色の屋根の家々が見えた。屋根の赤茶色と白い壁,そして木々の緑が美しいコントラストをおりなしている。

どこかから,鐘の音が聞こえ,それに自動車とトラムといわれる路面電車が走り去る音が混ざる。実に平和な朝だ。この町が戦場となっていたとはにわかには信じがたい。このサラエボの地で,モスリムとカトリック,それに対抗するセルビア正教を信仰する人々との間で戦闘があったことは記憶に新しい。1991年に始まったこの戦争により亡くなった人の墓地が町のあちこちにあり,真新しい墓石で埋め尽くされている。

ボスニア・ヘルツェゴビナ

ここは歴史上,ローマ帝国や,ハンガリー・オーストリア帝国のヨーロッパ文化とオスマントルコに代表される東方の文化の交流地であった。人々には異教徒,異文化を超えた結婚をも許容するおおらかさと豊かな文化とがあった。しかし,それは民族の浄化・統一を目指したセルビア人勢力による蜂起によって崩されてしまい,争いは隣人や親戚を引き裂く戦争へと発展してしまった。どのような理由にせよ許されがたい悲劇であった。しかし,いまテラスで食事をとる人たち,レストランのウェイター,フロントの人たち,そして街行く人たちの顔からはそのような過去は伺い知れない。

空港に着いた翌日,我々はホテルからタクシーに乗り込んだ。日曜日なのでまずは観光地に行くことにした。タクシーの運転手に半日で観光できるスポットを相談した。あらかじめ在日ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館から得ていた情報もあり,ボスネ川の源流へ行くことに決めた。タクシーの運転手は流暢とはいえないが,英語を話す。通常,ここでは人々はボスニア語を話す。

ボスニア・ヘルツェゴビナ

ヴォルラ・ボスネといわれる場所は車で30分ほどのところにあった。ボスネ川の源流といわれるところに行ってみた。岩の間から勢いよく水があふれ出てきている。地下水脈がここを出口として,川が始まっているのだ。まるで地下から水が水道の蛇口をひねったように勢いよくあふれ出ている。透明で,清らかな流れの始まりだ。その流れは川となり,いくつもの小さな中州をつくりながら,下流へと続いている。たくさんある中州は迷路のように入り組んだ地形を作り,いくつもの小さな橋が架かっている。自然のままの川岸に沿って緑豊かな公園がひろがり,ところどころでピクニックを楽しむ人や,ベンチで語り合う恋人たちや,ひっそりたたずむ老人の姿が見られた。とても平和で,美しい自然に囲まれた場所だ。最初にこの地を訪れてよかった。この自然がボスニアの人々の心を表しているようだった。


サラエボ旧市街

ボスニア・ヘルツェゴビナ

モスクのとがったタワーとその向こうに広がる山,そしてその斜面を埋める家々の白い壁が夕日のオレンジに染まってゆく。視線を下げると,旧市街地を友人たちと語らいながら歩く人々,土産屋を覗き込む人,レストランの店先。そのような景色を見,日が落ち少し肌寒くなってきた空気を感じた時,自分はサラエボという,知らない土地,異文化の地に居るのだと実感した。しかしその中になぜだか,すごく懐かしい感覚を覚えた。少し古めかしい家,低い屋根の路地,飾らない人たち,それらは自分が子供のころ見ていた昭和の日本の景色に似ていたのかもしれない。


ボスニア・ヘルツェゴビナ
ボスニア・ヘルツェゴビナ

サラエボ旧市街はオリエンタルな雰囲気にあふれている。土産屋はトルコ風の銅細工を扱う店が多い。入ったレストランもトルコ風で,二階の床は中央がくり抜かれ,建物の中央が天井まで吹き抜けになっている。階段が壁伝いにらせん状に設けられている。 一階のキッチンの暖かい空気が家中に循環する仕組みだ。食事のあとのコーヒーも,小さなカップに細かく挽いた豆が底に沈殿し,その上澄みを飲むトルコ風だ。狭い路地は石畳で,何百年もの間,その上を歩く人々によってツルツルに磨かれている。旧市街を流れる川にはいくつもの橋が架かっており,川べりの道をトラムが走る。トラムの多くは日本からの寄贈によるもので,側面にJAPANと書かれてある。橋のひとつをタクシーの運転手が指差し,ここが第一次世界大戦勃発の引き金となった,オーストリア皇太子暗殺の場所だと教えてくれた。


パソコン寄贈

ボスニア・ヘルツェゴビナ

京都コンピュータ学院による海外コンピュータ教育支援活動の事業として,パソコン45台をボスニア・ヘルツェゴビナ政府へ寄贈した。今回の訪問はその受取機関である外務省,教育省への表敬訪問がその主たる目的だ。まず外務省多国間経済関係・復興部(Head of Unit for Multilateral Economic Relations and Reconstruction)を訪問した。既に東京の在日ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館から我々の訪問について情報が伝えられており,担当のFadzan氏に関係各署へ伝達していただいていたおかげで今回の訪問はとてもスムーズに行うことができた。我々はとても歓迎されていることを実感した。事実,ボスニアに住む日本人は30人にも満たないが,日本はボスニアにとって最大の援助国家のひとつであり,ボスニア政府から感謝されていると日本大使館を訪問した時,大使が教えてくれた。


大学訪問

ボスニア・ヘルツェゴビナ
ボスニア・ヘルツェゴビナ

ボスニア訪問のもう一つの目的は多くの大学を視察し,京都情報大学院大学との将来の提携の可能性を探ることでもあった。訪問した大学はサラエボ大学,サラエボ科学技術大学,バニャルーカ大学,アペイロン大学の4大学。これらの大学はコンピュータの学部を持っているが,多くの設備や実験室が戦争によって破壊されてしまい,再建の途中であると説明を受けた。しかし,学校,学生はみな活気にあふれており,今後ボスニアは必ずや復興を果たすと感じることができた。大学について多くの情報を得ることができたので今後,提携へ向けて期待ができる。


ボスニア・ヘルツェゴビナ
ボスニア・ヘルツェゴビナ

スルプースカ共和国

ボスニア・ヘルツェゴビナ

サラエボに住む人たちと敵対していたセルビアの人々が住む国,スルプースカ共和国。ボスニア・ヘルツェゴビナはスルプースカ共和国とボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の二つの国からなる連合国家で,ひとつの国の中に二つの国が存在する。統一国家としての名称はボスニア・ヘルツェゴビナで,統一国家には外務省は一つであるが,教育省は各国(エンティティと呼ぶ)にそれぞれ存在する。スルプースカ共和国では教育省と大学を二つ訪問した。我々の訪問団はここからは私一人となる。運転手付きのレンタカーをチャーターし,サラエボからは車での移動である。片道約5時間かかる。

スルプースカの人口は男1人に対して女7人の割合の構成と聞いた。戦争で多くの男が亡くなったからであろう。サラエボに比べると金髪の人が多く,ヨーロッパ系の人であろうことがわかる。土地は平坦で,きれいに区画整理がされており,アメリカの郊外都市のようである。ここには一泊だけで,あわただしい訪問であったので,あまり町を見ることができなかったが,人々は町の中心を流れる川とその周辺をとても大切にし,公園やレストランなどがあり,憩いの場所となっているそうだ。


再びサラエボへ

ボスニア・ヘルツェゴビナ

サラエボへ戻り,ひとり旧市街へ足を運んだ。名物料理のチェバプチチを食べるためだ。ピタのパン生地にソーセージのように細長くしたひき肉を挟んで食べる。好みによってサワークリームやオニオンも挟む。肉汁がピタパンにしみ込みとても美味。平日の夜であったが,町は賑やかで屋外のテーブル席は憩う人たちであふれていた。

最終日,空港へは大学訪問や観光でずっと世話になったタクシーを再びチャーターした。運転手は2ヵ月後,イラクの米軍基地へバスの運転手として出稼ぎに行くと言っていた。

暖かくもてなしてくれたボスニアの人たちの明るい将来。そしてタクシー運転手のネルミンさんの安全を祈りながら空港を発った。


ボスニア・ヘルツェゴビナ
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植田 浩司
Koji Ueda
  • 京都情報大学院大学教授
  • 関西大学工学部卒業
  • 関西大学大学院工学研究科修士課程修了(機械工学専攻)
  • 工学修士
  • (米国)ロチェスター工科大学大学院修士課程修了(コンピュータサイエンス専攻)
  • 元松下電工株式会社勤務
  • JICA専門家(対モザンビーク共和国)

上記の肩書・経歴等はアキューム24号発刊当時のものです。