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Accumu Vol.16

初代学院長の思い出

京都コンピュータ学院 教育統括部 小西 薫

初代学院長と現学院長

私は1977年に京都コンピュータ学院に入学しました。元々ものづくりが好きで,新しい技術にも関心のあった私は,コンピュータを学びたいと思って,学院に入学したのです。コンピュータを知ったのは,1970年の大阪万国博覧会でした。コンピュータの持つ未知の可能性に漠然とした憧れはありましたが,まさか現在のようにコンピュータが私たちの生活に密着したものとなるとは予想もしていませんでした。当時,幾つかの大学でもコンピュータの講座が開かれていましたが,学院に入学してから,大学でコンピュータを学んでいる高校時代の同級生に会って話をきくと,学院のほうが大学よりも進んだ教育を行っていることがわかりました。

当時は,メインフレームの全盛期で,パーソナルコンピュータの黎明期でした。在学中は東芝製のメインフレーム,TOSBAC3400で実習をしました。バッチ処理なので,処理回数が1日何回と決められていましたが,コンピュータセンターには,熱心な学生が夜遅くまで残って勉強をしていました。データを紙カードにパンチャーで打ち込むという時代です。

3回生になったとき,経済的に余裕のなかった私は,学費免除を求めて特別奨学生に応募し,採用していただきました。特別奨学生は,学院卒業後,教職員となって後輩の指導にあたることが義務づけられていましたが,あるとき入校前の面接があり,他の奨学生とともに長谷川繁雄先生に面接していただきました。そのとき先生は,20歳を超えたばかりの私たちに対して,2時間ほどご自身の教育論を語られました。緊張していたせいもあるでしょうが,ただただ圧倒されたことを記憶しています。長谷川繁雄先生は,学生の私たちが相手だからといって,話のレベルを落とすようなことはなさいませんでした。途轍もない情熱があって,言っておかねばならないと思ったことは,そのまま相手に伝えようとされていたように思います。

教職員になって2年目のことだったと思います。コンピュータ分野の変化は激しく,若い私たちは,新しい技術をどんどん学ばねばならない状況にありました。しかしコンピュータ関連の専門書は値段も高く,特に洋書などだとそう簡単に手が出ないこともあります。

あるとき,その状況を長谷川繁雄先生にストレートに伝えました。すると先生は,月1万円までなら,好きな本を購入しなさいと即座に承認してくださいました。どんな本を買うかも全て任せる,しっかり勉強しなさい,ということでした。これは嬉しかったです。以後,毎月,丸善やオーム社に行き,専門書を買いあさりました。

長谷川繁雄先生のご専門はコンピュータではありませんでしたが,独自に新技術の情報へのアンテナを立てておられました。あるとき「小西君,パーソナルコンピュータをどう思うか」と尋ねられました。将来性はあるだろうけれど,普及するには時間がかかるのではないかとお答えしました。他の教職員にも同様の質問をされていたようです。暫くして,パソコンを3000台購入して学生に一人一台貸すという決定が出されました。1983年のことです。私たち教職員はびっくりして,どうやって貸すのか,故障したらどうするのかなどばかり考え,戸惑っておりました。長谷川繁雄先生は,理想の教育実現のために必要だと判断すると,そこからは梃子でも動かぬ信念で,それを実行されました。結局,学生全員にパソコンを無料で貸し出すというこの制度は,世界初の試みとなりました。先生は,本当に真摯に理想の教育を実現しようとされていました。

おそらく先生の教育への情熱は,既成の学校制度のなかでは,ルールや規範とぶつかることもありえたのではないでしょうか。理想の教育を行うためには,独立して自身で学校を創造せねばならないと思い定めておられたのだと思います。先生は「勉強したい」という学生の気持ちを尊重され,京都コンピュータ学院は,コンピュータを学びたいという人の集まりなのだと常に語っておられました。長谷川繁雄先生は真の教育者でした。

私が長谷川繁雄先生と直に接したのは,5~6年のことにすぎないのですが,その間,先生に鍛えていただきました。先生から,直接に業務の指示をいただくことも度々あり,私にとっては,難題と思えるような指示もありました。かなりしんどい思いもしましたが,先生のおかげで,自分で考える姿勢を身につけることができたと思っています。今になってみれば,指示を出す際に,先生はその課題をどのようにすれば解決できるのか答えをお持ちだったのでしょう。しかし,あえて,若手の教職員が自分で考えて解決するようにしむけて,育てようとされていたのだと思います。

当時,月に一回,全教職員が集まる会議が開催されていましたが,そうした会議の席で若手の教職員が意見を述べる場合でも,先生は,何も言わず頷きながら耳を傾けておられました。本当に人を差別することなく,接することのできる方でした。

裕福な資産家の家に生まれなくても,コンピュータの技術を身につければ,頭だけで勝負ができる。世の中を立派に渡れるだけの力を持つことができる。また,技術だけではなく,人間としての魅力を備えるためには教養も必要であり,それらを身につけるチャンスを若者に与えることが大切だ。先生は,そう考えて,京都コンピュータ学院を創立されたのではないかと思います。現在でも学院では,最先端のコンピュータ技術の授業のほかに,音楽会や文化講演会なども開催し,独自のカリキュラムで教育を行っています。

晩年,先生は,大規模となった学院の経営に奔走されました。理想の学校創造の道半ばで,先生が斃れたと聞いたときの衝撃は未だに忘れられません。

青春時代以来,人生の大半を過ごしてきた京都コンピュータ学院で,現在でも私が,まがりなりにも教育の事業に携われていることを心より感謝したいと思います。長谷川繁雄先生の影響は確実に私のなかにあり,私は日々の実践を通じて,先生に教えていただいたことを,きちんと後世に伝えていきたいと思います。


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小西 薫
Kaoru Konishi
  • 京都コンピュータ学院 教育統括部

上記の肩書・経歴等はアキューム16号発刊当時のものです。