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Accumu Vol.5

寧夏・内蒙の旅 留学生Y君に寄せる

京都コンピュータ学院 米田 貞一郎

内蒙古自治区

その後,ご機嫌如何ですか。

君が中国から,本学院京都駅前校に留学してから早や4年余。最初1年を本校に学んだ後,京都大学工学部研究生に採用されて2年,この1年余はSEとして会社勤務という慌ただしい中にも幸運な道を歩まれた。その間,3年もきびしい単身生活。やっと昨夏念願叶って,奥さんと息子さんを呼び寄せ,今年は一家水入らずの新春を迎えられて何よりおめでたいことでした。

さて,君が帰郷の途次,時間を割いて私たちを北京・上海・蘇州と案内してくださったのは一昨春。私はそれが励みになって,一昨夏は杭州・紹興から桂林へ,昨夏は寧夏・内蒙古へと足を伸ばしました。そんなことを話したら,君はまたその柔和な顔に目を細めて,「私も知らない所へ」とあっけにとられたように言うでしょう。それを思ってここに昨夏の旅行記を少々まとめました。読んでみてください。

私は旅に出る時,よくこの言葉を思い出します。「月日は百代の過客にして,行かふ年も又旅人也」という,あの俳聖芭蕉の『奥の細道』の冒頭です。そのほんとうの意味はまだ会得しがたいのですが,悠久の歳月の中に身をおいて,歳月とともに歩みながら,何か永遠なるもの,人間の業といったものに出会いたいというのが私の旅にかける期待です。昨夏の寧夏・内蒙古の旅では,銀川の西夏王陵,包頭のラマ寺五当召,そしてフフホト(呼和浩特)の草原祭ナダムに出会うことを,前もって楽しみとして出かけました。

西夏王陵

賀蘭山
賀蘭山

銀川市は北京から西へ空路約2時間半。寧夏回族自治区の区都です。その寧夏回族自治区は,中心となるイスラム教徒の回族が15万人。東は沙漠オルドスから西は賀蘭山脈の間,北流する黄河の沖積土上に南北にひろがる平原は,古来「塞上の天府」「塞外の江蘇」といわれた農畜産の豊庫。別に「漁米の里」ともいうそうですが,それは黄河の名産鯉魚とともに,ここで穫れたお米が真珠米で,かっては皇帝に供され,今では高級ホテル用に輸出されているからだと聞きました。

銀川市はこの寧夏平原の中部,黄河沿いにあって,市域人口約60万。さすがに緑も水も豊かで,周辺の沙漠地域でも今,緑化運動が展開されているという,想ってもみなかった風景です。黄河文明の発生地の一つ。古くは匈奴が占有していましたが,秦始皇が征服以来漢人が治めました。宋代になって,タングート族の一部,拓跋部が西夏王国を建てる(1038年)と,ここに都興慶府が置かれます。

西夏文字(銀川)
西夏文字(銀川)

西夏王国は寧夏の中・北部を中心に,東はオルドスから西は敦煌,南は青海まで広大な地域に割拠して,宋・遼・金と抗争しました。一方,儒教・仏教を基調とした西夏文化を生み,独自の文字を作ります。しかし,元の侵攻を受け,チンギス汗の率いる軍勢の飽くなき掠奪の前に1227年,10代190余年で忽然として消滅,幻の国となりました。というのは,当時の西夏について十分な記録が残されてこなかったからです。ところが,今世紀初め西夏王陵が発見され,以来発掘,調査が進んで神秘の王国の姿が次第に明らかになってきています。

西夏王陵
西夏王陵

私が待望したその西夏王陵は市の西北30キロ,賀蘭山脈の東麓にありました。傾く夏の太陽を背に南北に伸びる山脈の黒い陰となった草原に,点々と散らばるピラミッド型の小山,土塊の姿を,バスの窓から「あれが王陵です」と指呼された時は,エッとかたずを呑みました。その驚嘆は今もなお忘れることができません。王陵というからには,北京北郊の明13陵や西安近郊の秦陵・漢陵の壮大さを夢みていたからでしょう。

バスを降りて砂礫の中の道なき道を進む間に,ふと口をついて出たのが「夏草や兵(つわもの)どもがゆめの跡」(芭蕉)の句でした。見はるかす王陵区,東西4キロ,南北10キロ内に,9王陵,70余の陪葬陵。王陵は二重の墻壁に囲まれ,門闕・角楼・碑亭など緑色瓦を頂いた堂塔・伽藍があったというのに,今はただ高さ数メートルの赤褐色の墳土と台座跡を残すのみです。近年の発掘で,金銀の飾,銅牛,石馬などの副葬品や1メートル余の緑色琉璃獣頭鴟尾などが見つかったといいますが,元代破壊の後度々の盗掘で,魂ごと抜去られた陵墓跡は痛々しい。足許の石塊・雑草にまじってぬり瓦の小破片が散在し,中には西夏文字らしい彫刻のあるものまで掌中にできるのにはただただ傷心の思いでした。

工業都市包頭と五当召

原子力発電所
原子力発電所

西夏王陵の感傷から現実の世界に戻ったのは,銀川発包頭行の京蘭鉄道快速列車の中でした。

発車から間もなく,銀川市の北部いわゆる銀北地区に入ると,遥かに黒光りする昿野がひろがります。良質の無煙炭を露天堀りしている炭鉱で,日本を含む二十数ヵ国に輸出しているというのです。やがて黄河が東に向かって迂回するあたり,北の大青山山脈の麓には,大規模な原子力発電所が草原の中にくっきりと見えるではありませんか。さらに広漠たるゴビ灘を黄河と並走しながら内蒙古自治区に入ると,今度は発電所や石炭の山と並んで鉄鉱石が山積みされているのです。それは内蒙切っての工業都市包頭が間近く,銀川市から9時間半,飽かぬ車窓からの眺めにも,夕のとばりとともに幕が降りることを知らせるものでした。

包頭

さて,包頭市は人口176万,市域106万,内漢人が90%。黄河の北岸,3千年前からの水陸交通の要衝。南はオルドス沙漠に連なって歴代北方民族が中原に向かって進攻をくりかえした所です。清代末から都市として発展し,今や「草原の中の鉄の町」,鉄鉱コンビナートがひろがり,大阪や福山との通商貿易が盛ん。市中を走っていても,とても活気があるのです。

廣覚寺(包頭)
廣覚寺(包頭)

私の目ざしたラマ寺五当召は市の東北50キロ,五当溝という所にありました。五当とはモンゴル語で「柳の樹」,召は「寺」の意だそうですが,寺は松の生えた低い連山の谷間,山腹に南面して建っています。階段状に主なる殿堂が数殿,それに連なりまた両側の谷の向こうに多数の僧房が並び,見廻すと西洋の小都市の中にいるような景観です。すべてがチベットのラサのボタラ宮を模したといわれており,建物は白亜の外壁で屋根は陸屋根。石造の2階・3階の高層で,軒下に黒ずんだ赤色の帯が廻らされて金色の飾りが光っています。主殿正面の寺額には「廣覚寺」の名が,満・蒙・西(チベット)の3語と並び彫まれていますが,いずれもチベット語の「パタガル」(広大なる悟りを具する寺)の意だそうです。

壁画(五当召)
壁画(五当召)

インドからチベットに入って独自の発展をとげた仏教,即ちラマ教を,元朝はチベット懐柔策の一環としてモンゴルの上層部に採り入れました。元朝滅亡後,ラマ教はモンゴルの民衆の間に定着し,明代・清代には今度はモンゴル人懐柔のために奨励され,モンゴル各地にラマ寺院が建設されました。この五当召も清朝4代聖祖康熈帝の時に創建されたということです。寺額が4通りの文字で記されているのもラマ教とモンゴル人との経緯からきたものかと合点をしたことでした。正面の壁画もラマ教独特ですが,寺内の仏像・神像,諸仏具まで珍重なものばかりでした。

壁画(五当召)
壁画(五当召)

当寺はもともと学問寺です。その学問の優秀さは,かってここに留学した京都大学長尾雅人名誉教授によれば内蒙第一であろうといわれます(『蒙古学問寺』)。以前はここに1200名ものラマ僧が学んできびしい修行に耐えたそうですが,今は30名ばかりだと案内の老僧が歎いていました。肝腎の主役活仏さえ,6代回生の後,後継者がまだ無いという宗教離れの現象は,それが現代というものなのでしょうか。

五当召
五当召

フフホトとナダム

包頭をあとにした私たちのバスは,黄河流域を離れ凡そ120キロ東のフフホトを目ざします。二車線の軽舗装道路の両側には延々とポプラ並木が胡沙吹く風に銀色の葉裏を返しています。左の窓からは,遥か彼方に陰山山脈の巍峨たる山肌が望めます。山麓に向かって縹緲とひろがる平原には緑の作物が栽培され,降雨量よりも蒸発量が数倍も多いというのが嘘のようです。今まで抜けるように青かった空に北の方から雲が出てきたと思ったら驟雨です。ひとしきり車の窓をたたきつけるように降ったあと,特大の虹を残して去って行きました。

フフホトはさすがに広大な内蒙古自治区の都だけあって道路巾も広く,近代的な高層建築が並んでいます。政治・文化・学術の中心であるだけでなく,近代工業化が進み,中国各地から漢人労働者が迎えられ,人口120万,市域70万の中,漢人とモンゴル人の比は7対1となっています。しかし,町全体の雰囲気にはモンゴル色が豊かです。

フフホトの女性
フフホトの女性

23階建ての洋式ホテル「内蒙古飯店」に入った私たちはロビーで,先ずモンゴル式歓迎儀礼をうけました。民族服の男女数人の陽気な歌と踊りのあと,女性が一人ひとりに,両手に渡しもつ青い布に金盃をのせ,強い酒をにこやかにすすめます。髪や眉が濃く,大きい鼻に白い歯。活き活きとした顔貌に何だか血のつながりを覚えるほどの親しさが湧きました。着ている服は赤が目立ちましたが,いわゆる胡服か,細い筒袖,右胸の上部で襟を紐・ボタンで止めており,革帯の大きな留金の彫刻が金色に光っているのが立派です。

フフホトはモンゴル高原の入口で標高1000メートル。高原は内蒙古自治区の北東から南西にかけて3000キロ,自治区全面積の3分の2を占めます。平地と盆地,草原と赤土の荒地とが交互に起伏して変化に富む,これが牛馬羊の遊牧に適していて,特に7・8月は黄金の季節だそうです。フフホトから北へバスで2時間余。私たちはウラン平原に入って,幸運にも農業祭・神乞祭のナダム最終日のイベントに出会うことができました。

「天は蒼々,地は茫々,風吹き草低く牛羊を見る」と古人がうたった大草原のまっただ中。その一角に騎馬の者が群をなしています。見ていると一斉にその群がこちらの方へ動き出しました。競馬のスタートです。地響を立てて迫ってきます。トラックらしいものはありませんが,数十騎の集団は私たちの前を疾風怒涛のように通過すると間もなくカーブを切って遥かの彼方に走り去り,微かに砂煙らしいものを見せるだけで出発点の方に大きく迂回しているようです。どれほど走ったのでしょうか。しばらくして見ると,さっきの一角に群ができ,喚声らしい声が聞こえ,レースは終わったようです。この騎馬集団こそ正しく,モンゴル平原から世界を席捲してまわった元軍の後裔にちがいないと思いました。

モンゴル相撲(フフホト)
モンゴル相撲(フフホト)

反対の一角には,幾重にも取り巻いた人垣の大きな環ができています。中ではモンゴル相撲の最中です。人垣の隙間からカメラを差し出したら私の背を押して前列に出してくれる人がいます。ありがとうと振り向いたら,大男のモンゴル人がにっこりと笑って会釈をしてくれるのです。相撲は日本と違って戎衣のように身を堅めていますが,大入道が四つに組み丁々発止,相手がもんどり打つまでの肉弾相撃つ格闘には見ている方にも力が入ります。勝利力士の偉丈夫ぶり,堂々として横綱曙にも決してひけをとりません。

私も,袖つき短衣の民族衣装を借りて馬に乗ってみましたが,馬は案外低く,大きい頭,太い首,脚は短大で毛深い。お客に馴れているとみえて,手綱を引くと素直に歩いてくれました。

ナダムは男の祭典というだけあって,草原に女性の姿は少ないようでしたが,包(ゲル)の村ではさすがに民族衣装の女性がお茶のサービスをしてくれます。モンゴルの喫茶はチベット僧のもたらした磚茶(たんちゃ)が始めだそうですが,茶にバターを加えたミルクティはまた乙なものといえましょう。

大草原中のオポ
大草原中のオポ

草原の中に天神を祭るオポ(積雪時には道標になる)に道中の平安を祈ったのを最後に,ウラン平原に別れを告げましたが,この大自然の中に,きびしい遊牧生活を送りながら攻防をくりひろげた諸民族諸部族の歴史は,何とも悠久・壮大なものといわざるを得ません。

今やこの塞外の地にも,その豊富な天然資源・地下資源を活用する近代工業化計画が進められ,お国の経済発展,市場経済展開への貢献が大きく期待されていると聞きましたが,駈足で廻った私たちの目にも宜なるかなと映りました。日本とのかかわりもますます深くなりましょう。最先端の情報技術を身につけた君にとって,いよいよ出番が廻ってくるのではありませんか。お国と日本とのかけ橋役を果してくださる日を期待しています。

くれぐれもご自愛とご一家の平安を祈ります。

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米田 貞一郎
Teiichirou Yoneda
  • 京都帝国大学文学部卒
  • 元京都市立堀川高等学校校長
  • 元京都市教育委員会事務局指導部長
  • 京都学園大学名誉教授
  • 京都コンピュータ学院顧問

上記の肩書・経歴等はアキューム20号発刊当時のものです。