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Accumu Vol.6

夢のあるコンピュータの世界を

国立民族学博物館教授(コンピュータ民族学専攻) 杉田 繁治

新しい種としてのコンピュータ

現在この地球上には少なくとも8千万種を超える生物が棲息しているという。個体の数にすればどれほどになるか見当もつかない。人類は人種としては4ないし5に大きく分類されているが,今56億を少し越える人口である。その人類は民族という単位で数えると4000を超える。日本も単一民族から構成されているのではなく,いくつかの民族が共存しているがその数はそれほど多くはない。

この民族は言語や生活習慣,価値観などを共にして社会を構成している。その社会の場に流れているいわば暗黙の了解のような雰囲気,それが文化人類学(民族学)で言う文化である。そのような文化を持つ人々が作りあげてきた生活のさまざまな装置系,制度系からなるシステムが文明というものである。

このように文化と文明を定義すれば,この地球上には4000を越える文化があり,文明があるということになる。歴史上有名な「ギリシャ文明」とか「ヨーロッパ文明」,「イスラム文明」などだけが文明なのではなく,どの民族もそれなりの文明を持つというわけである。しかしその姿はかなり違っている。

ところで最近この地球上に新しい仲間が加わってきていることを感じないわけにはいかない。それは1940年代の後半から出現したコンピュータである。当初は計算をするということが主たる目的で開発された。しかしそれは単に計算をする機械ではなく,さまざまな可能性を秘めたいわば有機体的存在である。

コンピュータは20世紀最大の発明・発見にかかわるものとして数え上げられることは間違いない。生物の世界ではDNAの分析技術とその応用が我々人類を含めて大きな影響をもたらすことも否定できない。これらは21世紀に入ってますますその重要性が増してくる分野である。それだけにまた使い方を間違えば人類にとって危険をもたらすものにもなりかねない要素も含んでいる。

まだすべての文明においてコンピュータが出現しているというわけではなく,ごく限られた領域に過ぎない。如何に交通や通信が発達しようとも必ずしもすべての社会が同じような進化の道をたどるものではない。機械やコンピュータなどとは無縁な社会は依然として多数存在する。しかし出現した社会においては,それがどうなっていくのか大問題である。やがてこれが我々人間にとって幸福をもたらすものであるか否か,あるいは幸福をもたらすように育てていくことができるのかどうか,今重要な時点にさしかかっている。

コンピュータとは何か

今までの道具や機械は如何にそれが精巧にできていようとも,人間の手や足の延長として機能してきた。あるいは目や耳の延長としての働きであった。ところがコンピュータは一寸異なっている。それは頭脳の延長として機能する可能性を秘めている。計算力のみならず,記憶,推理,判断など人間の尊厳にもかかわる領域にも侵入し始めたのである。

単に論理的な思考のみならず,感性にもかかわる領域にも関与し始めている。チャップリンが『モダンタイムス』で機械に使われる人間の姿を風刺したのは,まだ機械時代のものであった。コンピュータ時代のそれはロボット映画などではいくつか片りんが見えてきているが,その全容を想像することすらできないような深いものがあるように思われる。

コンピュータは単に人間が作った機械ではない。それは人間そのものを反映する機械である。その機械に息吹を吹き込むのは人間であるが,動き出した機械は別の人格を持つ。作った人間にもその動作が予測できないような反応さえするようになる。今までの機械からは考えられない現象である。時間がたてば磨り減ってしまうのが道具や機械の常であるが,コンピュータは知識を蓄積し発達していくような感じを持たせる。

一体コンピュータには何ができるのか。単純化して言えばたった次のようなことでしかない。データを蓄積すること。蓄積したデータを取り出すこと。データに対して演算や比較をすること。データの性質によって次に取るべき操作を選択すること。ということである。したがって問題はどのようなデータを与えるか,またどのようなデータの性質に着目して操作を行うかということになる。

写真をデジタル化してコンピュータに入力しておき,それを検索して表示することはできる。ではそれが「美人」であるか否かを判定させることはどうか。もし「美人」という概念が・コンピュータの基本操作に分解して記述できれば可能である。

しかし多分不可能であろう。我々でも確かな基準があるわけではない。コンピュータに出来ることはアルゴリズム(手順)が明確になっている事がらである。ファジー論理とか,パーセプトロン,ニューロ・コンピュータとかが話題になっているが,全く新しい概念というものではない。アルゴリズムが良くわかっていないパターン認識や学習の問題に適用しようというものであるが,その原理は現在のコンピュータでシミュレートすることが出来る。

人間と人工知能の共存

人間が人間についてわかっていることはまだほんの少しである。もっと単純な生物についてすらまだ良くわかっていない。解剖学的にはかなりわかっている。化学的にもわかっている部分はある。しかし生命体としてのふるまいはわかっていない。喜怒哀楽や愛や気というようなものがどこから生じてくるのかそのメカニズムはわかっていない。脳を解剖しても心はわからない。しかし現にそれらは存在している。これがわかればコンピュータにもそのような感情を持たせることができる。果たしてどうなるか。

コンピュータの出現した1940年代の後半から50年代にかけて人工知能の研究が盛んに行われた。機械翻訳,パターン認識,音声認識,ゲームなど人間が行っている知的な営みをコンピュータで行わせようとする試みである。表層的にはコンピュータでも人間と同じような結果を出すことができる部分もあった。しかしそれは人間のやり方とはたぶん本質的に異なる方法であろう。

人工知能とは何かという問いに対してチューリングの判定というのがある。結果を比較してそれが人間がやったかコンピュータがやったのかわからないような答を機械が出した場合それを人工知能という。それは実用という観点からすれば従来の機械と同じように役立つものである。しかしコンピュータはそれで終わらせるにはもったいない発明物である。我々の仲間として共存していけるような存在であってほしいものである。

今までの人工知能の研究は多少せっかちであった。とにかく人間が行っているのと同じ現象をコンピュータでやらせようとしてきた。ある程度機械翻訳もでき,文字認識もできるようにはなっている。しかしこの線上でスピードや量をこなしてもたかが知れている。人間の認識とは程遠いものでしかない。

そこで原点に戻り,じっくりと生物や人間のふるまいを研究する方向に転回することが重要である。そして良く解った機能をコンピュータに移植していくというのが良い。それはコンピュータだけにやらせるのではなく,人間との共存の場において仕事を分担させるという方法である。

米国のマサチューセッツ工科大学(MIT)のマービン・ミンスキー氏などが考えているのは,ナノチップによって人間の頭脳活動をサポートする装置を作ろうというものである。例えば帽子のようなものをかぶることによって,人間の脳と機械の脳がドッキングして記憶力や判断速度を高めようというのである。また国際的な広がりの中でコミュニケーションの補助として翻訳イヤホーンなども面白いものである。

人間の記憶は忘れていくことがあるから良いのだという面もある。しかし帽子をかぶるかかぶらないかは個人の選択である。決して人間をロボットにしてしまおうというのではない。恐ろしいことのようにも思えるが,夢のある話でもある。このようなことも決して不可能なことではない。

この基本にある考えはハンディキャップを持つ人に対してコンピュータでサポートしようということであろう。今までにも運動機能や視聴覚機能を補助する道具はあった。しかし知的な頭脳活動に対しては出来ていなかった。今それが可能になりつつあるというわけである。

コンピュータ民族学

ナノチップ頭脳はかなり先の話であるが,コンピュータ利用という点では身近な問題がある。それは人文科学への応用である。理学や工学での利用は当然のように考えられているが,人文系ではむしろコンピュータは拒否されているような雰囲気があった。

しかしマルチメディアがコンピュータで扱いやすくなった今,知的生産の道具としてコンピュータは大いに活用すべきものである。しかし人文系の人はどちらかといえば機械類に弱いという気があり,また実際コンピュータはまだ使いづらいものではある。そこで人文系の問題に対しても使いやすく役に立つ道具としてのコンピュータ・システムを開発し,それによって今まで出来なかったような新しい研究をしようというのが我々の試みである。

その具体的な内容については別の機会に譲るが,少なくとも次のような3つの事がらがある。

1つはマルチメディア・データベースの構築と活用である。従来はコンピュータのデータベースは文字が中心であったが,静止画,動画,音響なども自由に検索出来るシステムにすることである。民族学博物館ではすでに8万件の標本画像や6万件のスライドなどを含む200万件のデータが蓄積されている。これを活用して諸民族の文化や文明の比較研究を行っている。

2つ目はデータの加工である。集積されているデータはそのままの形で見ていたのではよく解らない。分布図の形にしたり,クラスター分析をしたり,画像に変形を加えたりすることによって潜在的な情報が浮かび上がってくることがある。コンピュータによる情報処理である。

3つ目はモデルとシミュレーションによる分析方法である。例えばコンピュータの中に架空の人間集団を設定する。そこでは性別,年齢を持った人々がおり,時間と共に年をとり,結婚し,子供を持ち,死亡するというプロセスがコンピュータによって実現される。さてその中の何人かがあるウイルスのキャリヤーであると仮定する。モデルとして親から子への感染率,男女間での感染率を仮定し,そのウイルスのキャリヤーがどのように増減していくかを計算することが出来る。これは現実の社会における現象とは必ずしも一致しないが,ある程度その様子を反映させることが出来る。

コンピュータを用いることによって,今まで手作業でやっていた研究を質的にも量的にも拡張させることが出来るようになる。

ネアカで夢に挑戦を

コンピュータは人間を反映する機械だと先に述べた。ちょっとしたプログラムでも,大掛かりなシステムでもそれが本当に利用者にとって有用なものになるか否かはそれを開発する人の資質にかかっている。

現代社会においてコンピュータは必ずしも快く受け入れられているわけではない。人間性を否定するもののように思われている面もある。それはコンピュータの可能性をまだ十分うまく活用していないからでもある。多分コンピュータにかかわっている人々が生き生きとした気持ちで取り組んでいないからではなかろうか。世間ではプログラマーやパソコン少年は「ネクラ」であると思われている。人間好きの「ネアカ」でなくてはならない。

コンピュータはこれからの社会をリードする役割を担っている。それが良くなるのも悪くなるのも,それとかかわっている人によっている。誇りと自信と責任を持って夢のある面白い問題に挑戦してもらいたいものである。

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杉田 繁治
Shigeharu Sugita
  • 国立民族学博物館教授(コンピュータ民俗学専攻)

上記の肩書・経歴等はアキューム6号発刊当時のものです。