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Accumu Vol.4

京都駅前校舎竣工記念講演 国際化社会における日本の教育-世界の中の日本 期待される人間像をめぐって-

ハーバ―ド大学教授 ウィリアム・K・カミングス

William K. Cummings

ウィリアム・K・カミングス

この新校舎竣工記念フェスティバルは,日本の人達と世界の人達との友情を深める式典であります。そして,実は世界史における新しい時代の幕開けの祝典ともいえるロマンチックなこの場で,お話をさせていただくにあたり,その責任の重さを感じます。

私は自分の人生の中でかなりの時間を日本の教育の研究に費やしてきました。それで今日は,かなりの成功をおさめている日本の現代教育についてのお話から始めることにします。

日本の教育方法において,特別な点とは一体何でしょう。現代教育といっても,もうそろそろ時代遅れなのではないでしょうか。今や新しいポストモダンの時代に突入しようとしています。この来るべき時代は国家より個人が,より重要視され,製造工場や腕力の代わりに頭脳や人間関係が尊ばれる時代となるでしょう。情報技術が卓越した地域では,新しい世界秩序が生まれようとしています。ではそんな時代に必要とされる教育とはどんな教育でしょう。

アメリカ人の目から見た日本の現代教育は,驚くべき成功を遂げています。私どもアメリカ人が特に羨ましく思う点は,日本では,すべての人に教育が施されているということです。それに対してアメリカのシステムでは,どうしても子供達の10~20%をとりこぼしています。アメリカでは教育を受ける権利は,平等に与えられると考えているにも拘らず,その理想を実現し得ないでいます。つまり日本での方がうまくいっているのです。日本はその教育制度により,勤勉で法律を遵守する十分な情報をもち,親切かつ誠実な市民をつくってきました。

日本人はある意味では批判的な人々で,それが長所ともなっているように思います。日本の皆様は教育の話となると,批判すべき問題についてお話しになる傾向があります。例えば受験地獄,登校拒否,ついていけない子供達,いじめ,大学におけるのんびりムードなど,そういう話がよくでてきます。だからこそ私に今日の講演をする依頼がきたのではないでしょうか。つまり,今述べましたような暗い話をこえて何かもっと前向きなテーマについて話してくれるのではと期待されているのかもしれません。

日本には現在進行中の,大がかりな教育改革の結果もたらされうる,ポストモダン時代の教育との対比において,現代教育を論じた本は,あまりありません。日本の教育に関する書物の多くは,近代の教育制度に関するものが多く,よく徳川時代の教育と対比させています。歴史的にみて日本の近代教育はドイツ,フランス,イギリス,アメリカ,ロシアあるいはガーナ,タイ,ポーランドの教育同様,19世紀に生まれたものです。19世紀までは正規の学校教育のようなものはほとんどなく,また,教育も人文科学に焦点をあてたものでした。

ウィリアム・K・カミングス

19世紀に各国の中央政府が,富国強兵をめざして教育制度を作りました。その教育制度を通して,若者達を工業化社会で生きていけるように教えました。ある意味で,各国の制度は互いに似ていました。国語や歴史などの科目を通して,愛国心を育むことに力点をおき,また,数学や科学などの新しい科目も導入しました。どの国の学校も工場のような校舎で「工場型」として知られる教育法を開発しています。

このシステムでは一年生になるとベルトコンベアに乗せ,くる日もくる日も学校という名の「工場」で決まった順序で少しずつ新しい知識を加えていき,数年後教育のある人という「製品」ができあがるわけです。

このように大まかに見れば,類似点があるのですが見逃せない重要な相違点もあります。そこで,私の考える日本とアメリカの教育の違いを述べてみたいと思います。

相違点の一部は,その国が歴史的に受け継いだものによって生まれます。アメリカの文化は,キリスト教の伝統と,新しい国に移住してくるという強い意志を持った人でなければやっていけなかったという歴史から,日本の文化に比べて個性を重んじてきたと思います。したがって,アメリカの教育の理想とは,日本における相互協力及び人との和を奨励する教育と比べ,常に個性を育てるという点にありました。ですから同じ学年でも一クラスの人数がそれぞれ異なっているわけです。

同様に,アメリカは近代教育が始まった時はまだ若い国で,中央集権の国ではありませんでした。よって教育制度も,一つの決まった制度を中央政府が決めるというものではありませんでした。それにひきかえ,日本では徳川時代からすでに複雑な国家行政制度ができあがっており,明治維新の指導者達により,簡単に中央集権制度に統一されたわけです。

結果,日本の教育制度も行政制度同様,中央が代表して,全国の制度を決定しています。

相違点は,また,歴史的なタイミングの違いからも生じます。世界的な工業化が始まって,しばらくしてからできた日本の教育制度は,数学や科学の重要性,また,工業技術の訓練の必要性を十分に意識してできた制度です。ゆえに,アメリカや他のヨーロッパの多くの国々と違い,その点が教育の中で強調されています。

19世紀の初めに始まったアメリカの教育は自由,平等というフランスの啓蒙主義の影響を受けています。日本の教育は19世紀の中頃から始まっているので,同時代のドイツ人が理想とした国家主義や愛国者としての責任という考えに影響を受けています。

日本では他国と違い,私立の専修学校が多いのですが,それは旧来の教育制度とは違った独自のものをつくっていこうという人が多いからかもしれません。

ある意味では,日本は国家主義に傾き,その結果,明治時代の教育者達は小学校を中心に力を注いでいます。明治維新以来,10年も経たないうちに日本には25000もの小学校ができました。今日の日本の小学校数はたったの25000,つまり同数です。

日本の学校制度を理解するには,小学校をみるのが一番というのが私の持論です。中学校や高等学校は後からできたものですし,小学校に似ています。

一方,アメリカでは,小学校ではなく大学を崇拝しており,独立戦争の時代にはすでに50もの大学がありました。同時代に英国では二つしかなかったのですが。

アメリカでは初等・中等教育は後になって開発されたもので,大学ほど念入りにつくられていないように思います。

また,ほかにもこういう結果になる要因がありました。日本の明治維新は,主に地方の貴族達が推進したもので,彼らはそれぞれの出身地の人達のためにも新しい社会をつくりたかったわけです。

その結果,日本の教育は地域的な不平等が排除されています。すなわちすべての児童に同じだけ経費をかけようというやり方です。(ただ数少ない例外として,山奥や離島など過疎地に住む児童の場合,政府は余分なコストをかけています。)

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このような徹底した平等な扱いはまれに見ることであり,これこそが日本の教育普及率がアメリカのように90%ではなく,100%である理由の一つであると思います。

日本の近代教育制度が最初にできた頃は,西洋の帝国主義の脅威の可能性があるときだったので,日本の指導者達の防衛戦略の一環として,日本国民の間に西洋に対する親近感を育むことを考えていたようです。

その結果,近代教育のカリキュラムに西洋文化に関することが多く含まれました。

例えば,音楽教育,児童達は日本の音楽より,むしろ西洋の音楽を教わりました。美術についても同じことが言えます。また,外国語教育が重視されました。このように日本の若い人達が,西洋の文化を理解できないにしても,知り鑑賞することができるようなカリキュラム設定になっていたわけです。

ここまでお話を聞いてくださった皆様は,私が日本の教育について昔の話ばかりしているとお思いになるかもしれませんが,今私かお話ししましたことは今日の日本の教育になお根強く残っています。そしてそれが日本の教育の長所の一つともなっているのです。

おさらいの意味でまとめますと,日本の教育制度は,初等教育に重点を置いています。内容は,道徳教育や,国語や日本文化など非常に日本的なものである一方,驚くほど西洋的な内容も持っています。すなわち西洋史,美術,音楽,言語などをかなり取り上げています。それから,充実した数学と科学のカリキュラム,極めて平等な教育を受ける機会の提供,そして非常に効率的な教育行政があります。

次に,日本の教育が直面している問題についての話に切り替えたいと思います。

日本の近代教育制度はできあがってから最初の100年間ほどはうまくいきましたが,100才の誕生日近くになって,すなわち1972年ですが,少し問題が出始めました。日本の社会が予定以外の方向に急速に変化し始めたのです。そしてもっと重要なことに,日本の世界経済,及び,国際システムとの関係が劇的に変化したのですが,教育はその変化についていけなかったのです。このことについては多くの人がいろいろなことを言っていますが,そのいくつかを挙げてみたいと思います。

まず,国際的視野,日本はリーダーあるいはパートナーとしてアジア,太平洋地域との関わりをますます深めているにも拘らず,日本のカリキュラムは未だに西洋嗜好です。学校では日本語以外のアジアの言語は教えられていません。しかし,例えば,アジア太平洋地域における貿易をみると,日本の輸出入の40%以上がアジア,太平洋地域におけるものなのです。

次に教育の多様化について。一年生から九年間,学校教育でしっかりとした基礎教育を施してはいるのですが,アカデミックなもの以外を求めている若者に,あまりオプションを提供することができないでいます。高等学校に入ってもなお基礎教育に重点が置かれているのです。

次にコンピュータ技術。職場では,コンピュータヘの依存度がますます高まっているにも拘らず,子供達へのコンピュータ技術の基礎原理を教える教育は,目を見張るほど遅れています。

次に主導性と創造性。社会は進んで新しいことを考える若者をますます必要としていますが,今日の日本の学校は主に古い知識を教えるところであり,若者が独自のアイデアを実験する機会を十分に与えていません。

今,申しました点などについて政府レベルで審議会が数多く開かれていますが,現時点ではまだ日本の公立学校制度には,変化は現れておりません。

この点に関して言えば日本の教育も他の先進諸国とよく似ています。先進工業国はどこも新しい技術の時代,知性的にも新しい時代に入ろうとしていることに気づきながら,その教育制度をどのように変えていけばよいかを決めかねているようです。

とはいえ,日本には特殊な長所があるように見受けられます。

ビジネス,及び教育の非常に大きな,かつ,精力的な民間の諸団体があり,彼らが時代に対応するかなりの努力をしています。

例えば,日本の民間企業が海外で活躍できる若者を平和部隊として派遣したり,引退した上級技術者達を技術援助のために,上級技術者部隊として海外派遣したりしています。

民間企業は他にも日本への外国人留学生の学費を援助したり,日本の企業で外国人が働くことができるように努力を重ねています。

また,外国における有益な,かつ,意味ある体験ができるように,日本人学生を留学させたり,外国人留学生を迎えるといった点において,特に民間の諸団体の精力的な動きは目ざましいものがあります。

この数年間で外国に留学する学生数は20%ぐらい増えています。また,日本に留学生としてやってくる外国人の数も同様の率で急速に伸びています。

留学は言葉では簡単に言えますが,実行はそれほど簡単なものではありません。よその国に行けば,文化も非常に違うわけですから,若い人達が苦労することも多いわけです。しかし,そういう大変なことは若いうちに,まだ体も丈夫で心も開かれた状態にあるときに経験しておくのが一番です。このように,日本の国際化は書物で学べる域を越えて進んでいます。

ウィリアム・K・カミングス

現代の国際化の波の中で,本日お祝いの式典がもたれております。新しい事業を京都コンピュータ学院が率先してお始めになりました。新しい校舎の竣工を祝うだけでなく,日本政府,及び各国政府の支援でここにお集まりになったガーナ,タイ,ポーランドの研修生の皆様に歓迎の言葉を述べたいと思います。

日本の頂点を成す,すばらしい英知がこの事業の背後にあります。

すなわち,日本の進んだコンピュータ技術,そして一つの国で余っているコンピュータを不足している国に分けようという考え方,そして実際にこのような高価な物を寄付してしまおうというアプローチ,そしてどんな苦労があってもこのアイデアを実現させていこうという意志,そして,違った国の人達の間に懸け橋を渡そうという意気込み。

京都コンピュータ学院のとられたイニシアティブは極めて興味深い,時代にかなったものであります。事業に関わっておいでのすべての皆様に,お祝いの言葉を述べさせていただきます。

京都コンピュータ学院による事業は,全世界の人々の良きアイデアと良き人間関係が,他のいかなる力よりも重要視されるという証明であり,新しい時代における新しい教育へと向かう,大切な一歩となると,信じています。

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William K. Cummings
  • ジョージワシントン大学教育大学院 教授

上記の肩書・経歴等はアキューム13号発刊当時のものです。