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Accumu Vol.5

在京懐京(きょうにありてきょうをおもう) 京に老いてはシルバーシートの巻

東京大学名誉教授

京都コンピュータ学院情報システム開発研究所所長

理学博士

小亀 淳

京都に生まれ育って40年その後東京で四半世紀以上を過ごし去年の春再び京都に戻って来た

ふるさとに帰り住んだ日々の暮らしの中で二つの「みやこ」首都と古都の違いをちらちら垣間見る場面にときおり出遭うそれが確かに昨今の東京との違いなのかたまたまの経験に過ぎず一般化できない事なのか簡単には結論づけられないこともあり正しい判断には多少年月をかけねばなるまい

東京に出て長く住んでいると何かにつけ日本最大の近代都市での新しい習俗がそのまま全国を代表するものとしらずしらず思いこむ東京の首都意識に感染しているのである「アップデートの日本文化とは東京主導文化に他ならない」と東京に住む人々は疑いもしない新造語やファッションにしても人情風俗や日常生活にしても旧習がとんでもない新風に吹きさらされ影も形もなくなりそうな気配など東京での出来事は全国的現象と受け取る少なくとも情報発信量第一の東京が日本の歩みを先駆けており地方はひたすら追いかけて来るものとなんとなく思い込んでいる

それはそれで間違いのない事も少なくないのだが東京から見て地方に位置するわが京都に帰ってみれば京は京で千年のみやこの歴史の延長上に現代を生きている人びとの集まりであったここでは『日本文化』とは過去も現在も未来でさえ依然として京都が育てた文化に他ならないと信じられている一枚看板である『文化』を失っては古いだけの化石都市になってしまうという知識人の危機感などは独特のものであるかつて住んでいたころの京都には無かった進歩よりも失うものの多さにいらいらした活路さがしのようなものが感じ取れる他都市特に東京大阪あたりに対して内心「構えてしまう」ところがあるのも特徴だ狭い日本しかも情報化の進んだ現代で基本的には大都市として似たりよったりのはずだが東京との違いはたしかにある

一方東京に果敢ななぐりこみをかけ東京人にもはっきり意識されはじめている関西は大阪であるマスメディアをバロメーターにすればタケシやタモリとサンマや文珍との掛合いが象徴的と言える古くから大坂江戸の三都論があるが現代では(笑いの文化での)東京VS大阪のむつみあいが目立ち京都は忘れられているか時に敬遠気味に別格として蚊帳の外にまつられている

活気に満ちた近代都市として似た者夫婦になりそうでならない東京大阪の比較もまじえながら京都を思うのが一番おもしろいに違いないが大阪のことはほとんど分からない私には三都論の試みなど柄ではない考えられることは古都と首都の呼応を頼りに現在ではいささか異色の対照となった二都比較論の域を出ないそれも大型テーマはさておきごく卑近な事柄の一つに触れてみたい

京都で真っ先に気付いた事はバスの中でシルバーシートに座る若者や「未老人」が少ないことだ他に席が空いているときは当然優先席に座らないが比較的混んでいて席がないときでさえ色分けされた空席の優先シートの側に座席無視の面持ちで立ち続ける男女の姿をしばしば見掛ける東京では絶対見られない光景で彼の地ではお年寄りは毅然嘸然として立たされておられる出戻り京都人の私には”新人類新新人類”たる里の若者や京都を担う現役層の心根が”なんやしらんけど”やはり誇らしく感じられた

東京では電車のシルバーシートはもはや有名無実になっている足の長いジーンズの若者が大股広げの腕組みスタイルで先刻占拠している股こそ広げないがお若い女性やお年寄りと言われれば目尻を吊り上げそうなご婦人も例外ではない大概は眠りを装っているか前後不覚に居眠っているなかには耳穴からウォークマン(一般名ヘッドフォンステレオ)のコードを垂らして眠りこけている若者もいる居眠りはシルバーシートに座る連中だけではないのでこれは老人が前に立った時の予防策でもないのである

シルバーシートそのものが無視されているからノンシルバーがシルバーに気兼ねすることなどもはやない東京ではシルバーシートの廃止を唱え出す人がいるほどだ老人に惨めな思いをさせるだけでなくもはや無駄な抵抗でお年寄りに席を譲りましょうなどと白々しい空念仏は老若双方にメリットはないと言うのである老人や体にハンディのある人に席を譲るのはシルバーシートの有無によることではないシルバーシートを設けるから普通席が逆にノンシルバー優先席になってしまったとさえ言われている

そもそもわが国では基礎教育がぐにゃぐにゃに流砂現象化した結果『しつけ』が「お願い」に成り下がってしまっているべつに恨みはないがオバタリアンという怪物などかかる手抜きが生んだ申し子の一匹と私は踏んでいる

シルバーシートの設定は実は陰でこの種の手抜きを助成するものだ第一お年寄りやからだの不自由な方に席を譲り「ましょう」とは馬も念仏と聞き流してしまうほどの風の中の羽のような言い様である『何々しましょうネ』と言えば優しい中に言い聞かすニュアンスがありしかも婉曲な命令調とも取れるが『ネ』なしにしてしまってははや枯れ言葉でレッツゴーと言いながら本人は行かないかもしれない曖昧(あいまい)さと君もどちらでもよい任意さを含む無責任のにおいがする乗客というお客に命令しにくいのは当然としてもな方に譲る席です」とかな方にお譲りください」のほうがまだ控え目の指導性があるいずれにしてももはや詮(せん)のないこと

しつけ回避型の世情を他にも例を挙げれば東京では車内でウォークマンを使う若者がワンサカおり満員電車の中ヘッドホンから漏れるシャカシャカ音が神経にさわるとの苦情が湧き出たのはご存じと思う使用者がボリュームを下げるのが当然でまたそれで済むと思われるがメーカーが若殿の一大事とばかり早速シャカシャカ抑制付車内用新機種を開発苦情も開いたロを塞がないまま雲散霧消する有様である企業の公衆マナー謀殺への寄与の大きさはまったく受賞ものであるいくら技術が進んでも精神文明の崩壊に手助けすることは慎んで頂きたいそれだけの見識を「大国の企業」なら隠然として持つべきである

「しつけ」もいずれ塾に「お願い」するのであろう時世だが第一期入塾の栄誉は若者は神様ですという企業の戦士に贈るのがよいと思う

東京の新聞投書欄に次のような主旨の反論があった老人に席を譲らない若者への苦情をきっかけとして若い女性の言い分である『われわれはラッシュアワーの2時間にもおよぶ長距離通勤の毎日に疲れ果てている空いてる席があればへたり込まざるを得ないそれでも社会と自分を支えるため必死に働いてるんだ若者の税金で養われてる年金老人とはわけが違う席もとれない混雑どきに老人が割り込むのが間違いだあたしゃやっと座れた席を老人に絶対譲らない年寄り面して甘ったれるナってんだ』

私の年齢は制度的には老人の定義(わが国では65歳以上とされている)の中に入るが本心を明かせば自分が老人とは思っていないからこの勇ましい主張を冷静にある程度納得して読ませていただいた彼女の頭では老人はおいぼれ以外の何者でもない席が譲られないのはラッシュ時に限ったことではないのだが一寸の虫にも五分の魂ではないどちらかというと盗人にも三分の理のほうに近い類(たぐい)である

彼女が席を譲らない権利さえ認められれば今日明日どうにか人並みの仕事が出来ますというのなら座らせて置いた方が多少は世のためになろう電車に来る老人も立たされて寿命が縮まるほどでもあるまい

たしかに東京は現代日本を最前線で支える「戦士都市」であると言える若者の遊びでさえせっせと励んでいるように見受けられるくらいの東京で年寄りはもはや第一線の兵士ではない一芸一能のない年寄りは廃兵のように今後ますます住みにくくなる可能性が高いいくら老人福祉が唱えられても死への歩行者専用道路整備のようなもので戦列に加えてもらえるわけではないことに東京都で余生を全うするつもりの”アヴァンおいぼれ”または”老いぼれ予備軍”(失礼)の高齢者は他都市に生きる同年よりも際立って特色ある何らかのレゾンデートルを打ち立てる必要があろうここでちょっと”おいぼれ”が差別用語かどうか知らないだが私たちの世代は他人からなんと呼ばれようと簡単に傷付くほどヤワではないのでつい言葉になったまただれもがいずれそうなることの指摘は差別ではない

ところで東京にいる間すっかり老いぼれに身を彩った私であるが「すすんで」シルバーシートに座ったことはない他に席が空いていればそちらを選ぶこれはずっと前からつまり未老人の時から習慣になっていただけのことである

シルバーシートを無視して座る若者を見て自分が座りたいために文句をつける気は起こらないが行きずりの赤の他人に席を譲ることで誰よりも壮快な気分に浸れるのは譲った本人であることを現代の若者が実感せずにいることに物足りなさを感じるこの味わいは先程の投書に出てきたアッシュラワーヘコタリムスブスッス(阿修羅科へこたれ属BUS種)みたいな女性にさえも明日への生きざまに活力を与えてくれることもありやがて「他人のため」と思っていることも結局は自分のためにするのだという反省をもたらすはずのものであるそして「自分のため」が決して利己的に限られるものでもないことも

事態は逆で譲らないうしろめたさを凍死させることで不感化安心化しているそばの吊り革にぶら下がるだれが見てもよれよれのお年寄りを無視しあまりにも無神経にシルバーシートにのさばる若衆や未老人を見るときはさすがの私の胸も波立つだがこんなとき席を譲るよう注意するのはもはや東京の習俗ではない言われたほうは忠告に従うどころか公衆の面前で『恥』をかかされたと思う時代もいまは過去不当な干渉によって人権を侵害されたと勘違いし怒り狂う公算が極めて高い少なくとも都民は相互にそう勘繰っている事実車内でのマナーを注意した人がフォームに引き摺(ず)り降ろされ叩きのめされたといった記事がときたま新聞に出る周りは「あっしには関わりのない事でござんす」ときたましか載らないのは口出しする人が希になったからである庶民間で人様への御注意など喧嘩腰かニヒルでない仁侠道の後ろ盾でもなければもはやできそうにないししてはならない公衆道徳がセイタカアワダチソウのようにたくましく陽射しを浴びつつあるのである

些細な注意をしあわないことが一見高踏その実文化度の低下を示していることは明らかであるがそのことを指摘する人は少ないつまり東京は地方からの寄り合い所帯の地で大多数にとってはたまたま住むことになった土地の旧来の良俗が失われようが基本的に「ひとごと」なのである他人の財産が減って行くのを眺めるようなものだ彼等の「ふるさと」は心のなかでも実際にも別にある盆暮れには律義に帰省し行きも帰りも溢れるほどの土産の山に半ば困惑しつつ人情の健在をも確認するのであるかたや”あずまえびす”から営々進化を重ねた生粋の江戸っ子はその貴重な文化をしかと守れるほどいまや数において十分ではなくなっているばかりでなく地方出身者の波の中に完全に薄められてしまっている

とはいえ現東京人がみな席取魔ばかりと言うつもりはないオバタリアンと呼ばれる年格好の女性のなかにも進んでお年寄りに席を譲るひとを何度か見かけたその些細な心遣いのなんと輝いて見えることかきっと生粋の江戸っ子に違いない

ショッキングなことに京都に戻る直前のふた月ほどの間に私自身がはじめて電車の中で席を譲られたしかも普通席に座っていた若い女人から 彼女が天女のような美女であったことはことさら言うまでもないこれぞまさしく天女科美神属地球種(美神はびじんと読む学名はテニョラアフロディタステルだったかな)におわします

レディーが前に立てば(レディーですぞ)即座に席を譲る気概をいまだになくしてないという若さマインドまたは稚気あふれる私が逆に譲られる憂き目に遭うとはなんたる油断かだれが見ても黒髪よりも白髪のほうが遥かに多くそれもやがてなくなろうかというこの男を老人と思う方が当たり前今まで席を譲られなかったのはまだまだ若くかつ若く見られているからであろうなどとこともあろうに「東京」にいながら錯覚していたのは不覚であった自分のこととなるとかくも判断は狂う

ともあれ世紀末の東京にも年寄り(と思った人)にすすんで席を譲る若者のいることを東京を離れる間際に身をもって体験できた隅田川に天女いや魚が戻ってきたのを発見したほどではないにせよなによりのことといまは喜んでいる

さて京都の若者(高校生あるいは中学生以下を除く)はなぜシルバーシートに座らないのだろう このばかげた疑問の意味するところは東京に住んだ経験のない京都人にはとうてい理解できないに違いない逆に京都にやって来た東京の若者は我々も知りたい疑問ですと言うであろう

すべてに「裏」のない東京人ことにその中の旧人類はシルバーシートに腰を下ろさない京都の若者を見て《人情礼節道徳いまだ廃れずさすが古都》と単純に感激することと思う

シルバーシートは「優先席」であって「専用席」ではない該当者がいなければピンピンした若者が座っても全然さしつかえない座席である京都の若者でも優先を専用と取り違える訳はないしかし一方で京都人は四六時中いつ意味深の婉曲叙法に出遭うか知れたものでない環境下に暮らしている従ってある表現の内に包み込まれた別の真意の有無をつねに考え正しく汲み取らねばならないこの習性はほとんど無意識のうちに作動するので「優先」を「専用」の婉曲表現かとつい受け止めてしまう素地が全くないわけでもないのであるつまり専用と言いたいのだがそこを優先と柔らげしかも真意を察してもらいたい察しなはれというのが京風婉曲叙法でこの手の察しが悪いとたちまち《いなかモンや》と軽蔑されてしまうのは先刻ご承知の通りそしてみやこびとを密かに誇りとする京都人にとって水面下で押される田舎もんの烙印は表面化させ反論するすべもないだけにきつうコタえる痛手なのであるあるいはあったと言わねばならないのだろうか

京風婉曲叙法だが表と裏のワンセットが一応とどこおりなく理解できるようになって始めて一人前になったと周りも認めるふしがあるまた「軽蔑」であるが京都人は早くから(おそらく年齢で十代から)ある種の批判力に長けている眺める対象の真価を簡単に見極めてしまうあるいは見極めたと思い込むその因って来たるところは京の隠然たる中華思想場合によってはその裏返りのコンプレックスらしい残念ながら折角の批判力も往々にして非生産的批判に止まることが多い軽蔑に終わるのはその一例である

出戻り京都人の私は座らない理由のもっと「裏」というか奥を考えてしまう

京都ではたとえ老人席が空いていてもうっかり座ろうものなら厳しい周りの目から《見とおみやす大きな顔して優先席に座りこまはって気ィの弱いお年寄りやったらよう近寄らはらしまへんえ》と無言のイビりの乱射を浴びる危険性がある運が悪ければ《ソコはあんたら若い人の座るトコちやいまっせはよ立ちなはらんかあつかまシ》と満座の中で大声で言われる(ココが東京と違う)少なくともそこまで気ィをまわさないとまともに生き抜けない社会だという事さらにはそもそもそのようなイビリごころを他人に抱かせない気遣いを持つことが真の教養とやらであることを京都人は身をもって悟らされている

見方を変えれば京都ではおっさんおばはんは無論のこと老人も現役の市民として勇気と威厳ある(とは褒め過ぎ時には嫌味な)発言権を持つその発動が年長者の”しつけ”ともなればアカの他人のご託宣といえど若者も簡単に無視はしないのであるましてその場で「座っててナンが悪いねン」とすごんだりする(京都弁では凄みにくいそこでオンドリャアーナンカシテケッカルなどの近県移入の威嚇詞の数々が往々添えられる)ことはしない「人権侵害やン」などと撤退的に突っ張る(捨て台詞を吐く)ことすらまずないえッ近頃はぜーんぶ違うんですか京都でも

東京の人はそんなバカなと思うであろうがこの間もこんなことがあった京都ではバスの優先席は二人掛けの席が前後に二連用意してある空席に座って気が付くと前側の優先席の背に幅2センチ長さ7センチくらいの小さな紙が横長に張ってある紙面横二行に文字が書かれている手書きなので交通局のお達しではないおまけにだれかが剥がそうとしたのだが近頃の粘着材は強力で不成功に終わったらしく二箇所(四文字)に欠損を与えただけである

  □いのに□コに坐り

  □い人わ□ホでっせ

「ホ」は赤で書いてある「すわる」という漢字にマダレが付いてないが年配者には常用漢字で誤りではないしかし「は」が「わ」になっているところになにがしかの手掛りが残されていると思うのは勝手である

空白は次のように埋められよう(ついでに用字を今風に改める)

  若いのにココに座り

  たい人はアホでっせ

東京ではこんな私的な張り紙は公共の乗り物の中で間違っても見られないこれを発見したときは「アッタあこれこれ」と無言の快哉を叫び幼い日の京都のなつかしくも貴重なアルバムに再会したような錯覚にとらわれうれしくなって思わず涙ぐんだ重ねて申し上げるがこれは西暦1992年のことであるただし21世紀を待たずして張り紙は無くなり…はしないでワープロで書かれることになろう

ギボさんでなくてもべんがら格子の内側の薄暗い部屋で老眼鏡をかけた年のころ60代半ば過ぎたお方が一字一字怨念を込めて書く姿が見えますアホをわざわざ赤字で仕上げたところに執念の深さがある屈折した言いまわしも京都的だ張り紙の小ささは作者の日頃のつつましさとケンカの第三者たる市バスさんへの遠慮と見たそれを剥がそうとする人のいることも京都ならではであるバスの清掃係ならプロとしてこんな中途半端な剥がし方はできないそれにしても横書きは見易さにおいて上出来しかも2行の対比の按配は見事であるこの通り京都人は子供から年寄りまで決して単純にバカにできない

先に書いたように東京では新聞投書欄で白日のもと丁々発止と老若の対決が行われるが京都では現場でネクラく戦われるのである剥がそうとした御仁はおそらく若さをすでに失っているが自分を年寄りとは絶対思ってない世代で言われっぱなしの腹癒せが爪を立てての剥がしの仕返しであるそう思って見れば「若い」と「アホ」のあたりが辛うじて剥がしに成功しているのもナマナマしい完全に剥がせなかったのはこのラウンドお年寄りの執念勝ちと判定されよう

さて京の若者が優先席に着席しない根拠の模索を続ければ座りごこちの悪い席に着いていつお年寄りが来るかひやひやしながら座っているよりいっそ立っていたほうが気楽だあるいは一度座ってしまうと立つきっかけが難しい席を譲られた人はその席がシルバーシートだけに《貴殿を「ご老体」と判断申し上げる》と意思表示されたと思わないだろうかことに相手が女性の場合問題であるどなたに譲れば失礼にならないかは神のみぞ知る

しかしこれはむしろ東京ジョーク的な発想でもっとエレガントな京都人らしい分析としては次のような見方もあろうお年寄りに席を譲る動作そのものが良い子の見本みたいに”ええかっこ″することになる周りにそのようなはしたないスタンドプレーを見せることは目立ちたがり屋か出しゃばりのすることでわてら京都人の好むところではないだから始めから座らないこれが東京だとこの種の屈折した思い入れはなくいいこと「したい」と思えばすぐさま素直に「しちゃう」のである

シートの色が変えてあるのも京都人の感覚に適確に作用するのかも知れないサインを簡単に無視できない情報処理機能を持つからであるおしなべて尋常通常でないことに敏感である東京でももちろんシートの色が変えてあるが彼等の目には座席のパッチワークぐらいにしか映らないおまけにシルバーシート用のマークが考案され大きく窓ガラスに張るだけでなく駅の次にくる車両のシート予定位置にまで表示するという念の入れようであるだがこれもおそらくバニーガールの長いお耳を見せるのと同等の効果しか期待できないマークで意味を伝えること(表徴)が東京で可能かどうか疑わしい有効なのはせいぜいトイレや非常口のようなわが身にさし迫る表示止まりである

京都では四季の色彩の移り変わりは明瞭で年々歳々ごく身近かに感じ取れるし神社の鳥居寺の屋根お地蔵さんのお宅など古くから一目見れば特定できるサインの豊富さに恵まれている塀の下の方に赤い小さな鳥居が付けてあるだけで何をしてはいけないか犬でさえ解る仕組みになっている色彩形態による情報のコミュニケーションには伝統的に長けていると考えてよいシートの色変わりは若者にはほどほどの警戒心を起こさせ老人自覚者には居心地保証の保護色に見えるこのうえマークを設ける必要などないのである([東京へ発信]シルバーシートを示す病めるバニーの耳のような座り心地悪い座席のイラスト化のような例の青マークは京都にはありません)

さてさてこんな風にいく通りにも「空席のシルバーシート」の真相究明が楽しめるのだがすべての空想を成り立たす根源の一つは京都の若者が基本的に老人を座らせてあげてよいまたはしゃあないと考えていることである他人への思いやりまたは譲歩を生む心の余地が集団として多少なりと現在でも残っているこれに対し東京ではやはり地方出の寄り合い所帯のせいかまずは身を立てる他人に負けてはいられないという自己保持の意識無意識が先行してしまい余裕のなさが視野のせばまりを助長する他人を助ける配慮など二の次三の次になる人が圧倒的に多いということではないか

いま一つの要因は地理的な『京都の狭さ』で都心から周辺部へはバスなら大抵20分前後で行けてしまうことにある東京では通勤など2時間前後かかるのは珍しくないつまり京都では立ち続けたところでたいした疲労につながることはない交通公徳心の維持のためには都市圏の広がりに守らねばならぬ上限があることが解るモラルや礼節の培養にはなにがしかのゆとりこの場合疲れ過ぎないことが必要なのであるアシュラワーヘコタリムスにも三分の理があると言ったのもこのためである

都市が狭い便利さのせいとお寺の縁日など老人の遊園地の多いせいかどうも京都のお年寄りはよく出歩かれるようだバスのなかで見掛ける老人数は東京のほうがずっと少ないように思う人口比に逆比例しているのではと思えるくらい東京では老人の働きロが比較的多い代わり楽隠居はむつかしいということの反映であろうか敬老パスを見せるお年寄りを東京では滅多に見なかったが京都ではザラであるこれだけ多いと若者が座ったところで必ず立たねばならなくなる確率は高くいっそ立っていたほうが実際的だというのも分かるような気がする逆に東京では車内で老人に出会う確率は低くついつい座ってしまうのがやがて習性になって足腰立たなくなったと言えるかもしれない(やれやれやっと東京の「弁護らしい弁護」ができた悪くおもわないで)

シルバーシートに座らないからといって京都の若者がみなほんとにお年寄りをいたわる心の持ち主だとは考えにくいこの推測が正しいかどうかは私が普通席を譲られる経験を京都で何度持てるかに賭けさせていただくとして多分「優先席」という取り決めへのこだわりであろうまたその席に当然着席する「権利がある」と信じ込んでいる一徹軍団に対する触らぬ神に崇りなし的なPKO(例の平和維持活動)の一環であろう

しかしいずれにしても京都の若者の瞳に乾杯 その気概気遣いを子子孫孫忘れないでほしいたとえ〈なんやしらんけど座りにくうて座れへんね〉ということであってもそれが京都の”いわゆるひとつの”文化なのである

最近まとまった数の若者(はたち直前から直後が主体)になぜ優先席に座らないのかアンケートしてみたここに述べた勝手な推測のいずれにも該当者が見出せたが意外なことに「若者は座るべきでない」からというのが圧倒的に多い理由なのであるまるでわれわれの世代が今世紀前半に受けた刷り込み教育そのままだこれは教えられたことに素直という郷土伝統を意味しているのであろうかなぜ京都の若者は東京と違って素直なのだろういや京都でも中学生どうかすると高校生は優先席に座っているではないか

今時の若者が盲目的に素直であるなど東京でも京都でも到底考えられないおそらく教えられたことや要請されたことの消化吸収の過程で彼等の生活環境の”メンタルインフラストラクチャ(精神的基盤構造)”とでもいうべきものに違いがあるのではないかと思うこのインフラの違いはその上に育つ習俗文化の特性の違いを生み出すものである

彼等が優先席に座らないというより座りたくないのは座ることが居心地良くないからであるその主原因はすでに解析してみた通りでそこに京都のメンタルインフラがあるしかし各自が自分で納得して座らないことに決めるためにはそれなりの大義名分付け納得の事由がやはり必要であるこれがいかなる形態をとるかがメンタルインフラの文化構築への関わりであろうわれわれの世代では一番陳腐なのは「修身」教育の成果であったが現代の若者がストレートに同意しやすいのは「若者は座るべきでない」というちょっとカッコづけたフレーズを選ぶことなのではなかろうかこの意識の中には老人に対する敬意よりも老齢に対する『差別化(あまり感心しない最近目に着く言葉だが俺たちうちらダンチトシヨリやないの主張)』の気心がうかがえるちなみにダンチとは子供の頃使った流行語で段違いに転じて断然のことこの差別化の中にもメンタルインフラとしての京風批判が見え隠れしている点に留意されたい結論がたまたま旧人類用修身の結果と一致したところは「千年の古都」文化の栄光と言うべきか因習とすべきか

ところで「差別化」は「格差付け」「別格化」「特質強調」などに相当する新語であろうそう思って採用したまさか差別扱いすることの簡略語ではなかろう「化」は「的」とともに酸素が他の元素にくっつきやすいように多くの単語の語尾に付け易いこれを利用して『(性)差別はいけない』等の抗議が世に氾濫するあまり概念言葉としての「差別」をもしかすると救済する心情から生まれたのかな 誤解されそうなニュアンスのただよいが気になるが広辞苑第四版にも収録されていないトレトレの単語あまり使わないほうが無難と思われる

アンケートの奇抜な答えを一つ紹介しておこうある女性が自分で納得している座らない理由は「なんやバイキンが一杯いるみたいでキタナらしい」と感じることにあるというキタナいと思う心情の中に彼女も気付いてないことさら優先席など設けさせてまで座ろうとするサモシさへの批判があるかもしれない〈こんな席わざわざつくらんかて譲ったげるのに〉いずれにしてもわたしゃはずかしいとりあえず老人は努めて身奇麗にしましょう

ひるがえって優先席が専用席なみに扱われているのを見ると無料パスに座席まで確保してもらってそれが当然というセンスの老人が増加することは京文化の低下につながるような気がするいくつになっても特別扱いには礼を言うべきだが他人の敬老に対する感謝を老人はどのように表すつもりかが問題になるいままで他人のために尽くした返礼だなどとは自分から言えることではなかろうまともなお年寄りの中には挨拶の見当をいささか間違えてバスの運転士に敬老パスを見せながら〈すんまへんなアおおきに〉と言って降りる方がいらっしゃる

かくして京都ではからだの不自由な方を除けばシルバーシートに悠々座っていなさる御仁は「わては老人や」と自他に公然と宣言する勇気ある気力ない居直りのはたまた自然体の人物かいわゆるオバタリアンオジタリアン加えるに先の張り紙によれば”赤字格のアホ”を自首する面々に限られるという東京とは別の厳しさを持つのであるとてもまともな若者が真似たくなる教材ではない中学高校生が喜々として座っているのは彼等がまだまだ子供で”いっちょまえの京都人”として高度の精神文化的訓練を修了していないためメンタルインフラオブキョウトに対する感性において未熟であるからと思いたい彼等がそのまま成人するとき京都は首都東京に追随する地方の一都市に成り下がるのである将来『京都よおまえもか』などとは決して言いたくないものだ

心優しいわたしは東京では絶対に考えもしなかった進んでシルバーシートに座る屈辱的行為を辛い思いに耐えて実行している私が若ぶって特別席を避け普通席に座ればそのぶん掛け値なしの若者が席にありつけなくなるからである

われながら信じ難かったがこんなことを信じていただけるだろうかある日バスに乗った優先席が空いていたがついいつもの癖が出て空いている普通席に座ってしまったところ丁度満席になった気が付くと私の後から乗った年の頃40前後の男性が独り立ち続けているとたんに私は座り心地が悪くなり暫く考えたあげく意を決し優先席に移り件の男性に着席を勧めたのである彼は一瞬驚いたようであったが何度もお礼を言い座ってくれたこんなことは彼の「いままで生きてきたなかで」初めてのことだったのか降りるときも礼を言い降りてからも私の席のそばを通ってガラス窓越しにあたまを下げて行ったのである彼は席を勧められたことへの単純な謝意を感じただけでなく優先席に座らない自分の気遣いをさらに気遣う人の存在に思いを馳せたに違いないしかしこれが本来人の世の常態であるはずだ

普通席に空席があるのにシルバーシートを採ることにやっぱり絶大な苦痛を感じる”若気の誤り”の私は近頃では優先席が空いているのに普通席にのうのうと座っている私並み以上のご老体を見るとシルバーシートにのさばる若者を見る思いがするという東京では考えてもみなかった千々に乱れる想念に見舞われている東京帰りの京都人としては「あや」の深い京都の文化に振り回されてほんまにシ ン ド イ

もすこし京に住みなれるといくつになろうがしらーん顔して普通席に座り自分は年寄りやないと思う優先席にむらがって座っている同族を横目に見ながらあないなったらしまいやと我が身の元気をシアワセと感じる優先席しか空いてなければそのときにこそ髪の白さ無さ顔のしわしわなど思い出せば遠慮はいらない便利な年齢(とし)になったもんやとそこはかとなくうれしい荷物を待った(実は持たなくてもいい)好みのべっぴんはんが側に立てばなりふりかまうことなくどうぞどうぞわてはまだまだ元気でっさかいと優先席”ゆづるたのしみおもひてほくそゑみたるいとをかし”といった雰囲気に同化してしまうのではないかと心配であるちがってたら御免なさい

ここで結論思えばだれかそれこそ”いなかモン”が「優先席を設けよう」としたり顔に提案したときに人生の知恵者たるべき老人連合はその対象から自分たちを除外することを強固に主張すべきだったのだ遅まきながら私はシルバーシートの廃止を叫びたい空席には若者も気兼ねなく座り給えそして年寄りやからだの不自由な人をいたわり年長者には敬意を払う若者たちの自然増に期待し同時に老人は若者のもろもろの厚意に心から感謝できる『人間』に戻ろうこれは京都だからこそまだしも言えることで東京ではもはや言わぬが華のたわごとになる

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小亀 淳
Jun Kokame
  • 東京大学名誉教授
  • 理学博士
  • 1947年京都大学理学部物理学科卒業
  • 京都大学科学研究所研究員京都大学助手(化学研究所)東京大学助教授(原子核研究所)東京大学教授(同)国士舘大学教授(情報科学センター)を歴任
  • 京都コンピュータ学院情報システム開発研究所所長

上記の肩書経歴等はアキューム18号発刊当時のものです