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Accumu Vol.18

鏡の中の右と左

東京大学名誉教授

元KCG情報システム開発研究所所長

小亀 淳

1 はじめに

鏡に映った姿を見ると自分は右手にペンを持っているが鏡の中の自分はその左手に持っている(ように見える/思える)つまり鏡像または鏡の中では右と左が逆になる一方頭(上)と足(下)は逆に映らないなぜだろう

この疑問は自他の左右と上下が正しく理解できる年齢の人なら誰もが一度は不思議に思う/思った/思っていることである通常『鏡像の上下は逆にならないが左右が逆になるのはなぜか』(以下『鏡の問題/鏡像の謎』と言う)と表現される質問されている内容は「鏡像の上下が逆にならないことと左右が逆になることの二つはともに疑問ではないが上下と左右で異なるのはなぜか」が問われているようにも取れるが英語の“mirror reversal”に対応して“鏡映反転”とも言われ左右が逆になる(ように見える)ことが疑問の主体としてもっぱらその説明法が論じられてきた

ところがはるか昔から現在に至るまで各国のいろんな研究分野の著名人を含む学者研究者が自説こそ問題解決の決定的説明として新説を提案し続けてきたにもかかわらずどこかに自己矛盾が指摘され簡単な質問でありながら誰もが納得できる平易な説明が一度も得られていないそれも思えば不思議なことだが未解決というか煮え切らない『古典的問題』として世界的に広く知られている

以下に紹介するのは筆者が展開した「鏡像認知の純論理的解析」により従来の議論の仕方やその延長上に解決策があり得ないことを論証した論説の平易な解説であるその内容は“『鏡の問題/鏡像の謎』の表現はそのままでは意味を持たないつまりこの質問にはもともと正解がないしたがってこの疑問の解決は文言そのままに受けとめて正面から答えようとする限り正解を得ることはなくどのように思考しても「原理的に無駄」ということの「論理的証明」”である同時に実際に疑問とされ問われている実体が何なのかを明らかにしその答えを示した難しい話ではないが誰も試みなかったまったく新しい『鏡の古典的問題』へのアプローチであることをはじめに申し添えておく日常の論理よりは少しだけ深く掘り下げる論理の展開が含まれている専門家でも自分で気づかないことなのでこの点の理解に特別な注意が必要かもしれない

鏡像現象の自然科学的理解を基本にした筆者の鏡像認知の論理に誤りがなければ(決して特異ではないごく普通の論理なので誤りようもないが)百年を超えて論じられ続けた古典問題についに終止符が打たれたことになる

[学術論文は巻末の文献小亀(2005)(2008)本稿は2008年12月の京都コンピュータ学院創立45周年記念講演をまとめ直したものであるがそのとき話されなかった内容も加味されている]

2 鏡像を見るときの隠れた常識

鏡は毎日のように利用され鏡像(=鏡の中の映像)を見ることは誰もがごく普通に実行している「自然現象の日常的観測」であるその際どんな意識知識を無意識に持ちながら眺めているのか具体例をあげながら改めて考えなおしてみよう自分自身のことを頭に置きながらともに考えていただきたい

21 「鏡像の左右は逆ではない」
鏡の前の二つのグラスとそれぞれの鏡像
[図1]鏡の前の二つのグラスとそれぞれの鏡像
鏡の前の二人とそれぞれの鏡像
[図2]鏡の前の二人とそれぞれの鏡像
鏡の前の三角形とその鏡像
[図3]鏡の前の三角形とその鏡像

大部分の人が毎朝鏡に向かうがそのときよく見かけるのが図1に示すような鏡の前の実物とその鏡像である鏡の前にある2つのコップとそれぞれの鏡像とを見比べると背の高いコップの実物は自分(以下「観測者」と言う)から見て実物の背の低いコップの左側にある鏡の中のそれぞれの鏡像を見てもこの関係は変わらない

この事実は対象が物でなく人物であっても同じである図2はチェスの駒だが観測者から見てバイキングのキングがクイーンの左側に見えることは実物でもその鏡像でも変わらない

図3では切り抜いた三角形が鏡の前にあるが実物△abcとその映像△a’b’c’とcの間で頂点cとその映像c’は観測者から見てどちらも線分abとその鏡像a’b’の左側にある

このような観測による経験的事実をわれわれは通常『鏡像の右と左は入れ替わらない/左右逆にならない』または『鏡は左右を逆に映さない』と理解し常識の一つとして認識記憶している日常の鏡の利用はすべてこの常識に基づくたとえば車のバックミラーで自分の左側に後続の二輪車の映像を見れば後ろを振り向くことなく(疑いもなく)自分の車の後方左側を実物の二輪車が走っていると理解し認知する

女性は一日の中で外出前や食事のあとなどしばしば鏡の中の自分の顔を見つめる最近は電車の中で化粧する人さえ見かけるそのとき鏡の中の左右について暗にどのように理解しているのであろうか

自分の顔(その他頭や耳首筋/脊なども)を除けば他の物体と同様に実物(部分)とその鏡像を見比べることができるから図1から図3で示した例と同じように観測し同じ結果=「左右は逆に映らない」を認識することができる顔は実物を自分では見られないが手で触れることによって目や眉鼻の穴などが左右にある事実を知ることができると同時にどちらが自分の右/左側にあるものか認識しているしたがって自分の顔の鏡像でも「左右が逆ではない」と類推できるこれらを踏まえさらに次のことが言える

ある女性の鏡像
[図4]ある女性の鏡像

図4はある女性の顔の鏡像である彼女は鏡の中に向かって左側に見える頬のホクロが自分の左頬にあることを経験的に(たとえば上記過程により)知っているまた自分の顔でありながら直接眺めたことのない本物の自分の顔は写真が普及した現代でもはっきりと記憶されておらずその必要もないので記憶すること自体に関心が薄いしたがって鏡を覗くとき頭にあるのはいつものように鏡に映ったときの自分の顔そのもの(これは一度鏡を見た後は記憶されている)であるから思い通りの容貌を見て鏡の中の顔の左右が逆または逆かもしれないなどとはまったく考えない右目のアイシャドウは向って右側に見える鏡像の目の辺りを見ながら自分自身の顔に施す(自分の鏡像を実物とは決して考えない)つまり鏡像の左右が逆ではないという常識通りに何の疑問もなく行動している[記憶(実物の記憶ではなく鏡像の記憶)が関係していると考えることもできる点ではこの節21で紹介した他例と異なることを注意しておく]

以上は事例の一部にすぎないが日常鏡の利用をあれこれ思い浮かべてみてもほとんどすべてが「鏡は左右を逆に映さない」事実を踏まえていることに気づくであろうまた実物との直接比較であるから鏡像を実物と思う置き換えて見ることはない

左右について言えることは上下についても同じであることは説明するまでもない

もうひとつ大事な観測は『鏡は鏡の面(鏡面)に垂直な方向(通常「前後」という)の向きを逆に映す』という光学的事実の観測であるこの観測はあまり意識されないが図2と図4の例では実物とその鏡像がたがいに「向かい合っていること」鏡像が「こちら向きであること」が自明のこととして認識される事実に該当する図1の例でははっきりしないがコップが左右前後対称形なため前後の向きが逆になっても形状に目立った変化がないから解り難いだけのことであるまた図3では鏡に向けられた実物の面(向こう向きなので観測者からは見えない)を表面とすると鏡像では表面がこちら向きになっており表裏(の方向)が逆向きであることがわかる

注意しなくてはならないのはたまたま鏡面に垂直になるよう置かれた物体の方向(軸)の向きが直接逆転されるので物体に定義された「前後」だけがいつも逆になるのではない物体の左右/上下方向が鏡面に垂直に置かれれば物体の左右/上下が逆に映される

これら鏡像の「左右/上下」と「前後」方向についての観測事実は物理学(幾何光学)の『光の反射の法則(=反射角は入射角に等しい)』から簡単に説明理解可能であるまたわれわれが視覚により実際に観測できるのは光が示す自然現象(物理的事実)だけであることも忘れないようにしたい

22 「鏡像の左右は逆である」
特定の人物の写真
[図5]特定の人物の写真
実物か鏡像か
(小学館「世界美術大全集」より作成)

では次のような場合はどうか

図5の写真を見せられ“これは本物の写真かそれとも本物の鏡像の写真か”と問われたとする見ただけで「ダヴィンチのモナリザだ」と思わない人は少ないであろうそしてすぐに記憶にある本物かその写真のイメージを思い起こそうとする記憶が正確なら本物は向かって左寄りの向きだったはずまたは彼女の右手が左手の上だったはず(つまり右左が逆)などを思い起こしこの写真が本物でないことに気づくであろう

向きの異なるモナリザ像
[図6]向きの異なるモナリザ像

また多少記憶があやふやな人でも図6のように並べればどちらが本物か確認しやすいかもしれない図5は本物の写真(または本物)と並べて見比べると「左右逆」になっている本物の右手は確かに左手の上にあるが鏡像では左手が上になっている

図6は二つのモナリザの中間に紙面に垂直に平面鏡を立て実物(向かって右)寄りの斜め45度から実物とその鏡像とを眺めたときの図とまったく同じであるつまり「鏡像の左右は実物の左右と(確かに)逆である」このとき実物の右手が鏡像の左手と思ってしまうことの中に鏡像をそのまま実物と置き換えて見ている事実が含まれている

見知らぬ女性(人形) の写真
[図7]見知らぬ女性(人形) の写真

図7は同じく人物の写真だが鏡像であろうかそれとも実物であろうか

見知らぬ人物(人形)なので左右逆かどうか判断のしようがないように思うがよく見れば推測できる着物の襟に注目しよう実物とすれば左右の重なりが逆でこの写真は鏡に映ったときの襟の重なり方を示しているしたがってこの写真は鏡像である(むろん人物が着物を正しく着こなしていることを前提としている)

風景写真
[図8]風景写真

図8は風景の写真だが実物そのものかあるは鏡に映して撮った写真か これも見知らぬ風景なので一般に判断のしようがないが注意して見れば手がかりがあるカラー写真でなければわかりにくいが信号機の赤が点灯している信号機が道路の右側にあっても左側にあっても赤は常に向かって右端にあるこの写真では赤の並びが通常の左右逆になっているしたがって鏡像の写真である

車のバックミラーに映った風景の写真
[図9]車のバックミラーに映った風景の写真

図9は同じく風景の写真であるが実物かそれともバックミラーに映った映像であろうか 京都市に在住の人ならむろん一目で分かるがそれ以外の方も正解する人は多いであろうその理由は二つ考えられるひとつはこれは毎年8月16日に行われる有名な京都五山の送り火のうち大文字の点火状況であるが一度も実物やその写真を見たことがなくても火点の集まりが文字「大」を表していると見れば左右が逆であるいまひとつはたとえ漢字が読めない外人でも平常の大文字山のパターンや点火時の情景を正確に覚えていればその記憶と比較して実景の逆の形状であることがわかる

23 鏡像の「左右は逆でない」対「左右逆である」認識

21節で検討したように鏡像の「左右が逆でない」という認識は観測の実地から得られた知識である他方「左右が逆である」事実も22節で見たように該当する多くの実例を持つどちらもそれぞれの観測対象から間違のない事実として確定的に得られる判断であるしたがって「逆である」と「逆でない」の二つの知識は言葉の上では完全に対立する矛盾関係にあるにもかかわらず両方とも現実に有用であるどちらも排除することはできない

この二つの間の矛盾が従来どのように考えられ両立が図られてきたかというと「逆でない」ほうは光学で証明可能であるから自然科学的事実として受け入れるそれとは根本的に矛盾する「逆である」は物理学的事実としては排除せざるを得ない「逆のように見える思える」客観的観測もあり得ないしかしその故に人間の認知法として確かに有用である「左右逆である」事実を抹消することはできないしたがって「左右逆である」認知の存在は自然科学を離れたたとえば心理や心理学または哲学などで説明証明保障される余地があるかもしれないと想定され物理学から見れば成行きに任せられたのである「鏡の問題」が物理学の論文として取り上げられたことはないが心理学や哲学では現在なお学術的考察とそれに基づく議論に学問的意味があると評価され学術誌にも掲載されている

逆に考えるとこの実状の裏側には暗黙ながら厳として存在しているのが「左右が逆である」と「左右が逆でない」が二つとも言葉通りそのままに『過不足ない=必要かつ十分な「真実を述べた表現」と信じて疑わず誰もそれ以上考えようとしない』事実であるそのため二つの表現の一方または両方を変えれば相互の間に矛盾関係が保たれなくなる恐れがあるつまり二つの間の矛盾関係を保持し消滅させないためどちらの文言にも変更を加えてはならない制約で自らを縛ることになる[この事実も筆者によるはじめての指摘であるこれがことの真相に気づかずむしろ真実を埋没させてしまう「人間の認知の基本にかかわる思考法」の一例であることを後で指摘するので記憶にとどめておかれたい]

大事なことなので重ねて強調するほとんどすべての専門家学者研究者が「鏡の問題」のテーマとして左右が「逆にならない」と「逆になる」をそれぞれの表現のままの事実として扱ってきた左右「逆にならない」と表現したほうを物理的事実と認めたうえで物理学では説明つかない他方の事実としてそれとは矛盾する問題を取り上げる以上他方は「左右が逆になる」という表現でなければならずその文言通りに受け止めないわけにはいかない「鏡の問題」で“いったい鏡像の「左右の何が逆になる」というのか”が考えられたためしがないのはこのためである「逆に見える」や「逆と思える」と多少表現が和らげられることもあるが“実際は「逆ではない」が誤って逆と見る逆に見える/思えるだけ”という結論が実証されるわけでもなく結局は“「物理学以外の立場に立てば逆である」からそのように見える思える”ことの立証解明に努力が注がれてきた

筆者により初めて指摘されたことは「逆である」と「逆でない」の二つが共に有用ならば二つとも相応の真実を踏まえているからであって実際はたがいに矛盾しないところがそれぞれの真実の表現の仕方が不完全なため一見矛盾する二つの事実の両立のようになってしまうという真相の論理的解明にある「鏡の問題」自体の中に矛盾の存在が有るのか無いのかその検討から始めようとする筆者の考え方は最初から矛盾の存在を前提土台境界条件にして議論を始める「従来の問題対処法」(過去から現在に至るすべての論説が含まれると言っても過言でない)とは立脚点が根本的に違う点を強調したいつづいて本題に入るがその前に大変重要な事実がまだ一つ残っているのでそのことを次節で論じる

24 文字(数字)記号で代表される鏡像群の特異性

22節の最後の例の風景の中にさりげなく「文字」と判読できる物体の映像をまじえ「鏡像の左右が逆になる」一例に位置付けたこれはごく一般的になされる論法で特に不都合とは誰も考えないのが普通である図8と図9ではどちらも実物の左右とは逆であると判定したがその根拠は図8では信号機の赤の位置についての「ルール取り決め」(記憶されている)の想起が関与しており図9では文字の「形形が持つ向き」の記憶がかかわっているいずれも記憶にある位置向きの基準に依存した判断である点で同等である言語で表現される「ルール」などは形として記憶されにくく一方文字は見ただけで分かる有形の物体なので文字だけが強く浮上して意識されて特別扱いされる傾向がある専門家の間でも「鏡に映った文字(数字記号を含む)は左右逆になるもの」と理解されさらに「鏡は文字を左右逆に映す」と思われるようになったこうなると「文字だけが左右逆に映るのだ」と完全に誤解されやすい

この間の事情をまず解説し事態を正確に把握したうえで文字を代表とする物体の鏡像(22節で取り上げた諸例などのすべてが含まれる)は「鏡の問題」から除外するべきことの必然性を論じる(これも筆者独自の考えである)

鏡の中の文字
[図10]鏡の中の文字

図10に文字を含む鏡像の写真の一例を示す本の背表紙の文字が左右逆であるこのとき左右は逆ではない中には上下逆の書物もみられるがこのときの左右は逆ではない実物では決してこのような状況は見られないからこれが鏡像の写真であることは自明であると考えるが今の場合それは正当な判断で不都合はない

左右が逆に映っている図10の写真にある「ブックエンド」はクジャクらしい鳥が向って左を向いているが左右逆だとは思ってもみない文字が左右逆なのにブックエンドの鳥の向きが無視される理由を考えもしないのも普通である(少し掘り下げて考えればいままで理解していなかった鏡像についての新知識を自ら得るチャンスになる

たがいに左右逆な二つのパターン
[図11]たがいに左右逆な二つのパターン
透明紙に描かれたパターンとその鏡像
[図12]透明紙に描かれたパターンとその鏡像

では図11ではどちらが鏡像であろうか

二つのパターンを見れば直ちに英大文字のKと思うから「鏡像の文字が逆である」ことの論理的『逆』=「文字が逆であれば鏡像である」と考え向って左が鏡像と判断するところが実状は図12に示す通りで透明紙に書かれたKというパターンがそのままの向きで鏡に映っている(ある論理が正しくともその『逆』は必ずしも正しくない)逆向きのKを透明紙に書きそれを鏡に向けるため180度回転させたのでもない

鏡像の文字が左右(ときに上下)逆に映る理由として“眺めている実物の文字を鏡に映すとき上下(または左右)方向を軸として180度回転させる必要があるがこのとき物理的に発生する左右(または上下)逆転が鏡の中に認識される”と説明したのは著名なイギリスの心理学者Gregory(1964)であるそれ以来学者研究者の間でもこの考えが広く支持されている彼の主張では図12の実例は「鏡像が逆文字でないのは鏡に映すとき180度回転させないから」として鏡像の文字逆転の理由を物体の物理的「回転」にあるという論証の正当化に使われる「ものは言いよう」の典型であるがある説が自己矛盾を含まない(self-consistentである)だけでは必ずしも正しくない事実の一例でもあるというのはGregoryの論理が実は正しくない

上段・下段の左右二つはともに実物とその鏡像
[図13]上段下段の左右二つはともに実物とその鏡像

彼の説明が完全な誤りであることを実例で証明しよう図13の上側の二つのパターンはどちらが鏡像であろうか このパターンを英大文字の「E」として読み取った人は左右が反対の向かって左側が鏡像と断定するであろう下段の>と<を記号の「より小さい(less-than)」または「括弧の始まり」と見た人は鏡像の文字(この場合記号)は左右が逆に映るから向って左が鏡像であろうと推定する逆に映る根拠は鏡に映すとき180度回転したからであると理解することとも矛盾しない

しかし英文字をまだ知らない日本人がこのパターンを文字と思ったときカタカナの「ヨ」と認識し左右が逆になった「E」のほうを鏡像と判断するであろう同様に下段の記号を「より大きい(greaterthan)」または「閉じ括弧」と読み取った人は「<」のほうを鏡像と判断するであろう「より小さい(less-than)」または「前括弧」と読み取った人の判断とは逆になるこのとき逆と認知することと鏡に映すために180度回転することとは結びつかない

要するに鏡の中の文字記号が逆かどうかは鏡に映すための「事前の操作(180度回転の有無を含む)の結果としての鏡像の現状」とはまったく無関係に正しい形状向きとして既に「記憶されている基準」との比較によって判断を下すその基準が人種や民族によって反対なら同じ鏡像を見ても相反する判断が下される鏡に映った「現状そのものを見ての即断」で対象が実物であっても同じである[言われてみれば〝当然のこと〟と誰しも同意すると思うがこのような些細な事実回転と鏡像の向き認知との断絶さえ指摘は筆者(小亀2005)が最初なのである]

物の向きや形状(複数物体の配置状況を含む)について「文字(数字)記号」は左右と上下の形状が厳密に決められた物体の代表例に過ぎない正常基準とされる形状向き(あるいはそれらの取り決めにかかわるルール)が決められた物体は決して文字だけではない22節ですでに紹介した信号機の赤の位置はその例であるが衣服の襟の左右の重ね方もその一つでことに女性の場合洋服と和服では逆になる左右対称形のものでも前側と上下の向きとが決まっているものはおのずから右と左の「位置」が決められるたとえばテレビの左右(LR)のスピーカー(音源の左右位置)である重力場で生活するわれわれの身の周りの物体のほとんどが設置時の上下の向きが決っている

鏡の中で見ただけで逆とわかる上下さかさまの物体がきわめて少ないのはわれわれの身の回りの物品が上下さかさまの向きに置かれていることがまれだからである

標識の鏡像
[図14]標識の鏡像

次に「鏡像では文字(数字記号)の左右が逆になる」ことをその論理的『逆』を含めて〝常に成立する「鏡像についての真実」〟と思い込んでいると論理的に自己矛盾に陥る例をあげておく図14のAとBはともに鏡像である

文字が左右逆であるから鏡像であるという推測はこの場合正解であるこの事実の根拠として文字記号の左右逆の原因は「鏡に映すために事前に180度回転させることに起因する物理的左右の逆転」が唯一の正解と理解すると鏡像の中の矢印も左右逆転していることになり実物は向かって左側を指していることになるでは本当の出口はこの鏡像を眺める人の左側にあるのか 誰もそうとは思わないであろう矢印はその尖端が示す方向の向きを表す鏡像であるにもかかわらず出口は向かって右のほうにあることを理解するつまり「鏡像の左右は逆ではない」われわれは同一の鏡像の中に「左右逆」の認知(文字について)とそれと相反する「左右逆でない」認知(矢印が示す方向の向きについて)の双方を使い分ける気づかないでいるがこのままでは同じ鏡像の中で矛盾する二つ「逆でない」と「逆である」の同時両立が可能になってしまうではどう理解すればよいのか

3 ことの正確な表現

31 鏡像の「左右が逆でない」とはどういうことか

21節で「左右が逆でない」事実がいくつかの例で確認されたこれら実例の観測から抽象化された「鏡像の左右は逆でない」という概念の表現が必要かつ十分な言い方であるかどうかチェックしてみよう

すべての例に共通していることは実物とその鏡像を同時に観測し相互の比較を行っている何についての比較か 相互の位置関係についての比較観測であるしたがって「左右が逆でない」は正確には『実物とその鏡像との間で左右の位置関係が逆にならない(=左右の向きが逆にならない)』または『鏡は左右の位置向き側を(実物の)逆に映さない』と言わねばならない車のバックミラーでは実物とその鏡像を同時に見ることはできないがすでに得た自明の知識の自然な応用と考えるべきである本物を直接見たことのない自分の顔についても同様と考えてもよい[ただし顔は特別の観測対象で他の物体とまったく同じには扱えない後に取り上げて論じる]

また実物とその鏡像との比較であるから実物を本物と思う置き換えて考えるような主観の混入がない

32 鏡像の「左右が逆である」とはどういうことか

22節で取り上げた例は実物とその鏡像を同時に観察観測しなくても成立する鏡像だけまたは実物だけを取り上げて設問可能であるしたがって左右(ときに上下)逆かどうかの判断基準が観測者の記憶になければ判断できないここでの主役は実物についての「記憶」である記憶が正確であればそれとの比較により鏡像を見ただけで疑問なく直ちに向き位置関係の正逆が判断できる仮にモナリザの原画が図5のように画かれていたとすれば記憶と比較して図5は実物の写真ということになるでは記憶の何が基準にされるのか 「位置の配置状況」またはそれが明示暗示する「形状の向き」である今後は代表的に『形状』と言うことにする

モナリザの例では実物は一個しか存在せずその形状の記憶が唯一の判断基準になる着物を着た人形の襟や風景の中の信号機の例のように形状としてのイメージの記憶よりも左右の重ね方や色の並びの規約ルールについての記憶が想起される場合もある文字(数字)記号についても記憶されているそれぞれの決められた形状規約と比べての逆の即断である

重要なことはこれらの記憶を主役にした正逆の判断は鏡像に限って下されることではない記憶にある基準による判断であるから観測対象が実物であっても同じであるまた鏡像(あるいは実物そのもの)を単独に観察しただけで疑問の余地なく正逆の判定がつく文字(数字)記号はその代表的な一例にすぎないしたがって鏡像に限っての疑問であるはずの「鏡の問題」の対象から削除するべきである(小亀2005で指摘)22節で取り上げた事例や同じように取り上げられることのすべてがその対象になる従来この認識と措置が意識されたことはなくむしろ「鏡の問題」から分離する理由のない事実(理由に思い至らなかっただけのこと)として扱われるため考えを進めるほど議論が主題からそれいたずらに複雑化し各自の説に混乱と矛盾をはらむ主原因になっている

33 「左右逆でない逆である」事実の正確な表現のまとめ

21節と22節で取り上げられた観測結果の結論としての表現が何についてのことか注意して少し掘り下げてみると次の事実が判明する

鏡像は「左右逆でない」という言い方で理解している/されている事実の正確な表現は

『観測者から見た実物とその鏡像との間の比較では左右の位置関係が相互に逆にならない』

または

『鏡は観測者から見た「実物の左右の位置向き側」を逆に映すことはない』

でなければならない

実物とその鏡像との直接比較であるから鏡像を実物と見る置き換えることはない

これに対し鏡像は「左右逆である」という言い方で理解している/されている事実の正確な表現は

『鏡像の左右は記憶にある実物の左右と比較すれば逆の形状(位置の配置状況)である』

または

『鏡は実物の左右を逆の形状に映す』

でなければならない

実物の形状の記憶と鏡像との比較だから実物を見なくても/見られなくても鏡像だけ観測されればよい観測対象が実物そのものであってもよいのであるそのためこの場合鏡像を実物のように思う/置き換える主観が混入する余地が生まれる

以上をことの特質だけを強調して短く言えば

『鏡像の左右の位置は逆でない』と『鏡像の左右の形状は逆である』になる

この二つが簡略化して表現された「左右逆でない」と「左右逆である」の二事実は従来そのままの言い方で(それぞれ必要かつ十分な表現として)ともに成立する真実と評価されその故に互いに矛盾関係にあると頭から信じられてきたしかし双方とも正確な表現で記述すれば鏡像が持つ特性(=物理的事実)を異なる観測環境で異なる側面から観測した個別の事実の指摘認知であることがわかるこの二つは同時に存在でき本質的に互いに矛盾しない事実であることが理解できたと思う

図10の書籍についても左右が逆文字と認知するにも関らずブックエンドの孔雀が左向き(実は実物と同じ向き)と観測し別に逆とも思わない時も同様である

24節の図14の場合も鏡の中の文字については記憶にある基準的形状との比較から「左右逆(左右の形状が逆)」と判断され矢印が示す向きについては矢印の向きについて基準となる向きが記憶されているわけでなく「左右逆にならない(「左右の位置向き側が逆にならない)」という日常の常識で判断されるひとつの鏡像の中に一見相反する認知が可能なのは観測者の鏡像の見方が単一でなく異なる見方を混在させるからであるその際われわれが依存する基本的事実はあくまで「鏡像の左右の位置向き側は逆にならない」という常識であり鏡像を見てその「形状」が示す正しい向きについて記憶がなければ「逆」と思うことはない/あり得ない

省略形で言われる「逆になる」と「逆にならない」二つはともに鏡像が持つ物理的事実であるから物理的解明が個別に可能である「逆でない」と表現された事実は位置向き側についての観測事実であり『光の反射の法則』を使って光学的に簡単に説明できることはすでに言及した「逆である」と表現された事実は鏡像の形状についての観測事実でありその理解には鏡像が実物の『対掌体』であることの認識と対掌体が持つ特質を誤解なく正確に理解する必要がある(詳しくは第7章補遺参照)これらは鏡像を見ただけで自発的にわかるレベルの事実ではないので専門家でもまるで理解していないことが多い知っていても理解の程度が浅い

34 「ことの正確な表現」がまったく顧みられない原因

前節33で述べたことはごく当たり前のことで「言われるまで誰も気づかないのがむしろ不思議」という程度の話であるしかもコトは学者研究者レベルでの問題であるなぜ気づかれないのであろうか [気づかれないといっても実は暗に「位置」についての逆をそれと気づかないまま取り上げ議論しているうちに「形状」の逆が混入または排除できずむしろそれが自然と信じるままに同じ範疇の対象として一緒に纏め上げようとする結果話が首尾一貫しなくなっていることが多いつまり形状についての逆の認知のほうがはるかに低レベルにある]

筆者は21節と22節の解説を述べるにあたり「左右が逆でない」と「左右が逆である」という表現(省略された表現)だけを意識的に使い話の内容が誤りなく十分読者に伝わるよう努めたかなり成功していると思うどの場合も目の前に具象的実例(イメージ)を示しながらの話であるから「左右が逆でない」と言うだけで左右の「何が」逆でないと言っているのか筆者と読者の間で暗黙の共通の認知が期待できかつそれがほとんどの場合100%正しいという事実に依存しているすなわち一番大事なことが(いまの場合話の境界条件が)「暗黙の諒承」の中に埋もれながら両者の間の意思疎通を担っている表面化されることなく通用してしまうこの過程が意識されないままに鏡像については大事なこと抜きの不完全表現「左右が逆でない」または「左右が逆である」がそのまま抽象化され以後鏡像についての〝必要かつ十分な真実の表現〟のように独り歩きしはじめるその結果この省略化表現が持つ相互の「矛盾」だけが際立ちはっきり認知されるがその表現自体の「不完全性」「不確定性」について二度と検討されなくなる何についての話だったか肝心のことが完全に消滅してしまうのである

一般的に言えば『共通する暗黙の了承を踏まえ(暗黙が持つ了承を条件として)成立が認められた事実は往々了承条件抜きで成り立つことのように理解され以後不完全表現がそのまま完全表現として独り歩きし再検討されることなく条件抜きで常に成立する事実と認識される』

不確定不完全な表現でありながらいったん独り歩きしてしまえば再検討されないで済まされる原因がいまの場合他に一つある「左右逆(になる)」という言葉で表わされる概念自体がこれで必要十分な表現として実世界(鏡像の観測を除く日常の世界)で通用する一般に『逆』という概念が成立するためには『正』とされる何らかの比較基準が存在しなければならないところが「左右逆」のような概念は相対する二つ(この場合右と左)を単に入れ替えるまたは入れ替わっただけのことを必要かつ十分に表現している正しいとされる「基準」があらかじめ存在しなくても成立する『逆』であるこのとき暗に比較基準になっているのは入れ替える以前の状態であるこの交換はいわば「逆」と「基準」を同時に発生させているかくして世上「鏡の問題」での「左右逆」が実世界の中で通用する「左右逆=単に右と左を入れ替えるだけのこと」が持つ「単独成立の保証」と「意味内容」を維持したまま思考の環境条件が変わった実物とその鏡像との間でもっぱら「右と左が単に入れ替わる逆になる反対になる」とのみ理解されて論じられ何の疑問も持たれない疑問が持たれない理由はさらに次のように考えられる

鏡像の「左右」については実物とその鏡像とを比較する限りにおいて「左右の位置の不逆」と「左右の形状についての逆」の二つしかあり得ないところが鏡の中の世界だけでの話ならその世界での言語表現は実世界とまったく変りない意味意義を持ちうるしたがって鏡の中の世界だけに注目すれば「左右逆」は実世界での理解そのままにある概念の必要かつ十分な表現として存在しうる鏡の中の世界と実世界との比較のときには二つの世界の状況が違う(鏡の中の世界では実世界の一方向の向きだけが逆転している)のでもはや実世界の中だけまたは鏡の中の世界だけの話ではなくなりそのまま適用できなくなる概念だが混同されたまま同様に成立するものと思い込み気づかないここでも思考の土台の境界条件の変化n無視が見られる

実物に対応する鏡像について(の議論に)必要不可欠な「何についての左右逆なのか(位置か形状か)」の特定化がまったく顧みられない原因理由は以上にあると筆者は考える

『鏡の問題』で「左右が逆になる(見える思える)」をそのまま取り上げることは疑問のテーマが何なのか不明でありしたがって正解が存在しないまま実物とその鏡像との間で「左右逆=単に右と左を入れ替えるだけのこと」についてやみくもにしかもその存在を肯定的に論証しようと議論を始めることであるどのように論じたところで終着点に到達できないのは自明であろう

上に指摘した心理過程(ある表現でまとめられた概念が本質的に内包する不確定に気づかないことや一つの概念が思考環境を異にする場合そのまま通用しなくなる実状に気づかないことなど)「鏡の問題」を離れ人間の基本的認知について認知心理学的に興味あるテーマに発展すると思うが本日の主題ではない「鏡の問題」についての既存の論文を読むと同じレベルの認知心理の影響下で根幹的な話が堂々と進められていることが他にも多々見つかるその意味ではありふれた日常生活と密接に関係する事象についての議論の根拠が人間の認知の浅さ不確実さの上に設定されたままいかに気づかれないでいるかを認識するのに「鏡の問題」の議論は実例の「宝庫」のようなものであることを指摘しておくに止める

4 『鏡の問題』の自己限定

前章までの考察により『鏡の問題』の質問の文言が正確な表現ではどのように言われるべきか厳密な検討がまず必要なことが判明したそのままでは「鏡像の左右が逆」と言うだけでは左右の何が逆で何が問われているのか不定不明なのであるといっても鏡像の左右に関係するのは形状か位置かの二つしかない(33節参照)

そのうち「左右の形状」についての『逆』の認知は記憶された基準の形状によるもので相手が実物であっても鏡像であっても共通の原理による認識であるからこれに該当する物体とその鏡像のすべてを『鏡の問題』から削除すべきことを指摘した

その結果残るのは21節で指摘した「鏡像の左右の位置向き側は実物と比べ左右の位置向き側が逆にならない」と観測される物体だけになる中でも実物と同時に観測できる鏡像の場合左右が逆(位置向き)になるとは考えようもない観測者自身の鏡像でも自身で見ることのできる体の部分は実物とその鏡像とを見比べることができるただし観測系(視線)を大きく動かすので視野の中に実物とその鏡像を同時に入れられない場合があるそこで21節に属する鏡像のうち厳密に考えれば自分(観測者自身)で実物を直接見られない部分つまり『顔(頭全体両耳や首筋を含め代表的に顔と言うことにする)』を主体とする観測者自身の鏡像くらいしか残らない

このとき21節の他の事例のように「実物との見比べが同時にはできない」代りに鏡像と「こちら向きである」=「対面している」=「視線の向きが反対である」という認知が存在するこの事実は当然過ぎてとりたてて意識されることなく議論が進められることが多いが実はコトの正確な理解のかなめになる必要不可欠な要素的認知であることを指摘しておく

観測者は「左右(の位置)が逆にならない」と観測する自分のこちら向きの顔の鏡像の上に「左右が逆になる」という思いを持つのである文字が代表の22節に属する物体の鏡像では記憶の逆の形状を鏡の中に実際に認識し疑問の余地なく逆であると認定する「鏡の問題」の疑問とはまったく違う観測対象であることは明らかである

注意しなくてはならないのは自分自身の本物の顔の「形状」については直接見たこともなくその記憶を呼び出そうともせず鏡を見るから顔の左右の「形状」を見ようとしているのではないその意味で顔を見て「左右が逆になる」という思いは無意識ではあるが実は「左右の位置が逆になる」と思うことに対応している

『鏡の問題鏡像の謎』はもともと垂直に立てた鏡に映った自分の正面の鏡像を自分が見たとき(自分の左右と上下方向が鏡面に平行である条件が含まれている)抱かれる疑問であるその中で“上下が逆にならない”と言い切っているがどのように映しても(逆立ちして映しても)鏡面に平行な上下が逆に映らないと観測されるのは自分自身の鏡像以外にない第2章第3章に述べた分析から第4章に至る筆者の論理的な道筋が鏡の問題の具体的対象が観測者自身の鏡像に限られるという結果に到達したのはすくなくとも事実を曲げるような誤りでないと言えるであろう

5 「鏡の問題」自体の論理的解析

「鏡の問題」を解くに当たって以後もっぱら自分(観測者)自身の正面(特に顔)の鏡像について論じるそのことについて答えられなくては話にならない

観測者自身の顔の鏡像の観測はきわめて特別な観測である鏡像を見る観測系(座標系中でも重要なのは視線軸)が映像自身の実物の上に固定されているかつ実物そのものの形状を直接観測することは絶対にできない観測系が観測系自身の鏡像を観測することになるそのような観測環境は他に例を見ることはできない(顔を除けば自身の実物とその鏡像を見比べることが可能である)しかも21節で指摘したように自分の顔の鏡像についての情報として鏡像自体の形状が記憶されている21節の例に入る物体では実物に関係する記憶が一切なしに実物とその鏡像との同時観測により発生する認知である同じ範疇にありながら自分の鏡像については実物ではなくその鏡像についての記憶があるから見ただけで「左右(の位置向き側)が逆に映っていない」ことが確認されるこれは22節の諸例が記憶に照らし鏡像が記憶にある実物の「左右(の形状)が逆である」と判断するのと正反対である

同じく記憶を基準としながら反対の判断が出るのは一方(顔)が位置について鏡像の記憶に基準を持つ判断であり他方(文字ほか)が形状について実物の記憶に基準を持つ判断である判断の対象と基準のありかが違うからであるがそれだけでは完結できない隠れた事実実態がある以下に筆者独自の論理的分析で事態を明らかにしよう

51 「左右(の位置向き側)が逆になる(ように見える)のはなぜか」の真意

21節で検討したようにわれわれは自分の正面の鏡像を見て左右の位置向き側が実物の位置向き側(以下代表して位置と言う)の逆に映っているとは観測認識しない反対に実物とその鏡像との間で「左右の位置が逆に(見えるように)映らない」ことを常識にしているしかもこのことに疑問は持たない左右の位置が逆に映らない事実は光学的自然現象の正しい観測認知であることが容易に証明されることはすでに指摘した鏡像という自然現象の観測に『主観をまじえなければ』つまり『「対面する実物の左右は逆位置になる」という別の観測結果を思い出しそれとの関連を勝手に考えなければ』左右について観測結果から得られる情報は「位置が逆にならない」以外にあり得ず疑問も起きない言い換えれば左右について自分の正面の鏡像観測に関係する確かな情報は既得知識の想起をまじえても「こちら向きの鏡像の左右の位置は逆にならない」実測情報と常識化された「対面する実物の左右の位置は逆になる」の既得情報との二つしかないこれは些細なことだがきわめて重要な事実の指摘である

現在流通している「鏡の問題」についてのほとんどの論文でも「鏡像の左右の位置は逆にならない」事実は(単に「左右は逆にならない」という表現のまま)物理学(光学)で理解できるとして一応は認める態度をとるが「それはそれ(別個の事実)」として意識的に棚上げし議論の圏外に置くその結果物理学を離れた(と称する)自説あるいは物理学に立つという自説の中でさえ鏡像の観測者が共通に「忘れるわけにはいかない常識」として念頭から離さないこの事実に二度と触れられない実際失念無視されるのが常である

鏡像についての常識(自然現象の観察から得た真実の知識=略した表現での「左右が逆にならない」)と完全に矛盾する『実物と比べ鏡像の「左右の位置が逆になる/見える」』という内容を持つ疑問は本来あり得えないあり得ないことがあり得るように思われかつ言われてしまう原因は通常の論理のもとに以下のように解明できる

われわれが自分の鏡像を観測するときの模様を詳細に検討し直してみよう

何度も述べたが自然現象としての鏡像の客観的観測だけからは観測者とその鏡像との間で「左右の位置関係は逆転しない」としか結論されないところが先に21節で指摘したようにそれ以外に「鏡像はこちら向きであり上下は逆でない」という前後上下方向についての観測結果の認知が存在する一方でわれわれは「こちら向きの実人物(対面する人物通常上下逆ではない)の固有の左右はわれわれの左右と比べて位置が逆になる」という鏡像の観測と無関係な別の常識を持っているこの常識は「こちら向きと見ただけ」でただちに左右逆と認知するつまり『対面=左右(位置の)逆』としてきわめて迅速かつ無意識的に想起されるこの作用が日常他人の左右を常時正しく認知するのに不可欠だから習慣になっているである

鏡像は実在しない映像だが映画やテレビの画面と異なり三次元の映像でありかつあたかも「実物そのもののように見える」点で独特の映像であるしたがって自分の鏡像(鏡の中の人物像)が「こちら向き」と気づいた瞬間に本来鏡像の観測とは無関係なこちら向きの実人物についての常識「対面=左右逆」をそのまま想起するが別に不自然とも思わず気にも留めないこれは万人共通でむしろ自然な成り行きであろう(だからと言ってこの事実を無条件に肯定してはならない

要するに自分の正面の鏡像を見て「左右(の位置)が逆にならない」客観的物理事実を観測理解し積極的に利用しながら同時に鏡像を「こちら向き」と認識した瞬間に鏡像についても「対面=左右逆」すなわち「左右(の位置)が逆になる」常識を念頭にするという主観を混入してしまうこの混入(観測結果の事実の中に主観を埋め込みその全体が客観的観測結果そのもののように思いこむこと)はほとんどだれもが持つ共通の錯誤であるまさかそのことが決定的致命的な誤判断の原因になるなどとは思いもよらないでいるというのはこの主観の人為的混入こそが鏡像の観測結果の中にもともと存在しなかった「矛盾」自らを潜入させ自ら疑問を発生させる元凶だからである

この時点では鏡像は実物とは違う(から実物についての知識を鏡像の上に重ねてはならない)という自覚はない

一方で実物について「こちら向きの人物の左右の位置は逆になる」知識が常識としてまったく疑問にならないのに鏡像については「鏡の問題」ではまったく同じ表現である「こちら向きの人物の左右の位置が逆になる」が疑問になる同じ表現なのに鏡像についてだけがなぜ疑問になるのか やはり実物は鏡像とは違う(から一方だけが疑問になる)という自覚があるからとしか考えられない

ここでも鏡像について実物とは違う「自覚がない」と「自覚がある」との間に矛盾関係が見られるが誰も気づかず真相の追求は行わない正しい分析によってこれらも一挙に解決されねばならないしかもほとんどの人が同じ思いをする以上「日常の論理と思考の範囲内で発生する」試行結果でありその故に「日常の論理と思考の範囲内で解決できる」というのが筆者の考えである

さて本題に入ろう

こちら向きの鏡像の観測で「左右に関係する情報」は客観的観測結果である「左右の位置が逆にならない」こととこちら向きの実物についての常識(主観)「左右の位置が逆になる」こととの二つだけであることをすでに指摘した前者は鏡像の観測から得られた正しい観測結果の情報であり後者は常時忘れない基本的常識として考えの日常的基準として記憶されている正しい情報であるともに事実であることに間違いない

二つの正しい情報(鏡像の観測から客観的に得られた知識と観測者が別に持つ主観的常識)を肯定しつつ通常の論理で過不足なくかつ疑問の形に正確にまとめようとすれば次のようになる以外あり得ない

『鏡像の左右の位置は逆にならないと認知される(主観をまじえない客観的観測の帰結)鏡像がこちら向きであることを思えばこちら向きの実物の場合左右の位置が逆になる(主観的情報の導入)のに同じくこちら向きの鏡像のときは左右の位置が逆にならないそれはなぜか

これが必要かつ十分な表現である

ところが「こちら向きの実人物の場合左右が逆になる」ことは「鏡像がもしそのままこちら向きの実物なら左右が逆になる(主観)」として鏡像観測の客観的結果そのものが主観的立場から見直される(主観による客観的観測結果への干渉)その結果向って右側に見える鏡像の頬(手その他人物の特定部分)を鏡像固有の左頬(左手など)と思い込み*1そのように表現するすなわち上記のように「こちら向きの実物の場合左右の位置が逆になるのにこちら向きの鏡像のときは左右の位置が逆にならない」と言われねばならない必要かつ十分な鏡像観測時の表現が『自分の左側/右側の部分(たとえば左頬や左手)が鏡像では右側/左側の部分(たとえば右頬や右手)になる(見える)』と変更されて表現される【*1鏡像固有の左頬ではなく正しい定義によれば鏡像固有の右頬である第7章73節参照】

図4を使って実地に説明しよう主観をまじえて観測した自分の鏡像について必要かつ十分な正しい表現は『自分の左側の頬(=左頬)にあるホクロはこちら向きの自分の鏡像では向かって左側に観測される(客観)こちら向きの実物なら向って右側に観測されるはずである(主観)つまり左右の位置が逆になる同じこちら向きなのに鏡像では左右の位置が逆にならないそれはなぜか』以外あり得ない(以下「表現T」と呼ぶその論理的必然性は次節52で論じる)

この事実は主観の部分が次の表現に置き換えられる

『自分の左頬のホクロは(鏡像がもしこちら向きの実物なら)鏡像の右頬にある/ように見える』 しかも括弧内は省略される

省略されても意味が通じるのは“鏡像は「実物ではない」と知りながらときに「鏡像を実物と同じ(属性を持つ物体)に見る」”ことがわれわれ観測者共通の心理*2だからである【*2脚注「実物ではない」ものを「実物である」とすることをごく自然に受け入れること自体の中にすでに両立できない矛盾の無条件容認が含まれているが気づかれたことはないこの容認自体がそもそも論理的に不都合不合理であることは誰からも一度も指摘されなかったあまりにも共通の認知心理でありすぎるためと思われる『鏡の問題鏡像の謎』がいくら議論を重ねても解けない原因の一つがこの矛盾の両立を容認したまま気づかずむしろ矛盾の容認を基盤として踏まえその上に議論が進められるからである逆に言えば通常の論理の原則「矛盾の両立は絶対認めてはならない」を厳守し鏡像を実物とは絶対に考えない仮定しない混同しないことさえ厳守すれば『鏡の問題』は起こりえず『鏡像の謎』も存在しない事実21節で検討したように鏡像を鏡像と意識し実物と混同しない場合(日常生活で鏡を利用する場合のすべて)左右(の位置)が逆とは決して観測しないし考えもしない

その結果必要かつ十分な表現Tは次のような表現に変換される

『自分の左頬にあるホクロが鏡像ではその右頬にある(ように見える)つまり左右が逆になるそれはなぜか』(表現Fとする

この表現Fが何の疑問もなくそのまま受け止められた時点で疑問の内容が実物の「左頬」が鏡像では「右頬」になることつまり実物とその鏡像の間では単純に右と左が入れ替わる逆になる=単なる「左右逆」になることに置き換わるすなわち鏡の観測を除く日常生活(実世界)の中でならそれ自体で成立する「左右逆」という言葉の概念が何の疑念もなく鏡像観測の上にそのまま持ち越される以後の「左右逆」の理解の中には文字通り「右と左が逆になる入れ替わる反対になる」こと以外何も残らない(表現Tが持つ真の内容は伝わらない)一方実物とその鏡像との間で左右の何が逆になるのかその指摘がなければ議論のしようがない事実はすでに指摘した通りである従来の鏡の問題についての学説のほとんどすべてが表現Fをそのままとりあげているのでいくら議論を重ねたところでだれもが納得できる結果に到達できないのは論理的に当然のことであるもともと到達すべき終着点正解が存在しない

本当の疑問は「こちら向きの実物なら左右逆の位置になるのに鏡像では左右逆の位置にならないそれはなぜか」(表現T)であり疑問とする内容は極めて明確である物理光学によって完全な回答が与えられる単純な右と左の入れ替わりとしての「左右逆」が鏡像の上に問われているのではない(このことは大変重要な指摘であるので正しく理解されたい

52 真意逆転表現の論理分析

「左右(の位置)が逆にならないのか」と表現されなくてはならない事実がなぜまったく逆の言い方「左右が逆になるのか」と表現されとくに疑問にも思われないのかそのからくりを論理的に考えてみよう

「鏡像の左右の位置が(実物と比べて)逆にならない」観測事実は鏡像とは直接関係のない観測者の別の常識=「対面する実人物の左右の位置が逆になる」と比べられる観測者にとってはこの常識は判断の「基準」になる記憶の想起(主観)であるしかも「こちら向き」と意識しただけで直ちに念頭にする習慣がある鏡像についての観測結果はその基準的常識からみれば『基準の逆正反対』ありそのように認識するこのときの『基準の逆正反対』こそが観測者が実物を見るときと鏡像を見るとき自覚する違いすなわち「逆」の認知の正体である単に右が左になる逆(=基準を必要としない逆)を意識することではない

ところがこのとき「逆」と判断する根拠になる「基準」(常識)は異例的に基準そのものの中に「逆になる」事実が含まれているしたがって逆を内包する「基準とは逆になる」と言えば「逆になる」の逆つまり「逆ではない」ことが真に言いたい内容であるいまの場合真に言いたい「逆ではない」ことというのは観測から得た事実=「鏡像の左右は逆にならない」ことそのものである

通常「逆」と言われるのは基準のほうではなく基準と比較されるほうであるしたがって鏡像の左右の観測でも何かとの比較で「逆」が見出だされ/感じられれば(今の場合の逆の正体は上記参照)『観測結果のほうが「基準(常識)の逆」である』という言い方をするのが当たり前と誰もが無意識に思っている前節51で解説したように「こちら向きの鏡像vs.実物」の左右の対応と「こちら向きの実物vs.実物」の左右の対応とを比べれば相互の左右の位置関係が逆になる事実は鏡像を実物と置き換えることを容認すれば鏡像の右側の頬(手)をその右頬(右手)と言い換えることができるので実物とその鏡像との間で「実物の左頬(左手)が鏡像ではその右頬(右手)になる」という表現に変換可能になるすると左頬が右頬になるのだから右と左が「逆になる」と言うことができ「基準と比較される観測対象である鏡像のほうが逆になる」ように表現することができるこのような論理的過程の結果「逆ではない」と言うべき観測結果の内容が言い換えの過程など正確に意識しされないまま正反対の表現「逆になる」という言い方に変えられ(おそらくその表現のほうが常識的であるが故に正当であるという安心感に支えられ)変換結果だけがそのまますんなり受け入れられる

表現「左右逆になる逆である」がそのまま過不足ない表現(=事実の必要かつ十分な表現)としていったん受け止められてしまえば「単に右と左が逆になる入れ替わるだけのこと」と理解されるだけにとどまり『変換以前の真意(実物と鏡像との間の左右についての真の逆関係の認知)』に戻り着くことはもはや不可能であるつまりある事実の『言い換えられた(変換された)表現』から元の事実の正確な把握に戻る過程は『不可逆』である

以上の分析によりある観測事実が事実そのままの表現=「逆にならない」とは正反対の表現=「逆になる」に変換されうるという一見あり得ない論理的道筋が実現されることが理解できたと思う一見あり得ない過程が成り立つ(ように思えてしまう)からくりは「実物でない鏡像を実物と同じに扱う」という実際にはあり得ないことの無意識無条件の容認にある鏡像は実物では絶対あり得ないしたがって鏡像を実物と見る扱うことが一瞬となりとも絶対なければこの変換過程は論理的に決して起こりえないプロセスである(52節の脚注参照)したがって正解がない「鏡の問題」も生まれない逆に言えば鏡像を一時的にも実物と仮定仮想した時点でそれまで存在しなかった矛盾を自ら創作すると同時にその矛盾を肯定的に容認するという過ちを犯すその上に立ち一見自家撞着のないどのような議論を展開しても押し隠された矛盾は依然矛盾であり続けるからどこかで表面化露呈している事実を他人から指摘される現在までの「鏡の問題」についての論争はすべてこの枠組みの中での議論であったと言えるであろう

6 まとめと結論

『「鏡像の上下が逆にならないが左右が逆になるのはなぜか」という表現で問われてきた古来の疑問は実は「こちら向きの鏡像の上下(の位置)はこちら向きの実物の上下同様逆に映らないが実物の左右(の位置)は逆になるのに鏡像の左右が逆に映らないのはなぜか」という内容の疑問に他ならない』ことを論証した

疑問に答えるには『「光の反射の法則=反射角は入射角に等しい」から容易に証明できるある一点の鏡像はその点から鏡面に下ろした垂線の延長上鏡の裏側にあり実物から鏡面までの距離と鏡像から鏡面目での距離は等しいしたがって観測者から見て上(下)右(左)にある実物の鏡像は観測者から見てやはり上(下)右(左)に見えるつまり上下方向の位置向き同様左右方向の位置向きが逆に映らない』と言えば誰もが理解できる物理の教科書で学んだことの応用問題にすぎない

疑問が「左右が逆になるのはなぜか」という言い方になるのは観測者の左側がその鏡像では向かって左側に映る事実について鏡像のこの側(位置)が鏡像がもし実物ならば(そんなことはあり得ないが)鏡像にとってその右側に当たることになるので実物の左側が鏡像ではその右側になると言えるこの対応を踏まえ左側が右側になるつまり「左右が逆になるのはなぜか」と言い換えているのである通常この「表現の変換過程」が意識されることなく「左右が逆になる」ことをそのまま成立する事実として受け止められるかつもっぱらその原因のみを追究するから「逆にならないのはなぜか」という正反対の「真の疑問」に到達することはあり得ず問題に決着をつけることは原理的にできない「左右が逆になる」ことを証明したと自称する議論は内容を検討すれば一応は何らかの理屈を捏ねるものの「対面する実物の左右の位置が逆になる事実」を鏡像の上にそのまま無自覚に流用しているに過ぎないことが解る申し合わせたように「鏡像を実物同様に見る扱う」のはこの流用に不可欠の措置だからであるそれ以外の自説を正当化しようとする議論は自説と矛盾しない実例のみを取り上げいかにも自説が正しく自己矛盾のない論説であるかのように見せるための創作に過ぎず無視または考え落とした他の事実との間でどこかに矛盾を含む事実を他人から指摘されることになる

以上で「鏡の問題」が本来持つ疑問のすべてが解決されたこれ以上付け加えることは何もない

しかしながら従来の議論では「鏡の問題」に含まれないむしろ含めてはならない対象(=文字で代表される「実物の形状について明確な記憶を持つ」物体)の鏡像が分離する理由を思いつかないままにすべて同一の論法で扱える対象として取り上げられてきたという長い歴史的事実があるそのほうが自然当然と考えるのがむしろ人間の認知の常道であるとすれば鏡像のすべてを考えの対象にしたとき筆者が除外した「文字(数字)記号を代表とする多くの物体(決まった配置状況を常とする複数の物体を含む)」についてその実体が持つ性質を正確かつ明確に認識し扱い方を理解していないといままでの混乱から依然として抜け出せないおそれがあるこの知識は鏡像を見ただけで自発的にわかるレベルの問題ではないので以下に補遺の章を設け注意を喚起しておく

補遺と名付けたのは第6章までの議論に第7章の見解を加えればあらゆる鏡像について迷路に落ち込むことなく首尾一貫した論理で正しい理解と議論ができるという意味意義が込められている

7 補遺

第4章で指摘したように実物の形状(複数物体の配置状況を含む)が観測者にはっきり記憶されている物体の鏡像は本来の「鏡の問題」から除かねばならないこれらの鏡像はそれだけを見て疑問の余地なく左右「逆」と判断できるその判断の中に矛盾は含まれていないではなぜそれが可能か 鏡像自体の「形状」が確かに左右逆になっているからである逆の形状でなければ記憶にある基準と頭の中で比べて逆と判断することはできない

ではなぜ鏡像の左右の形状が現実に実物の左右逆の形に映るのか この事実の物理的説明法は「光の反射の法則」の理解だけからは導き出しがたい光学とは別の物理的数学的原理の知識とその理解が必要であるこの章で明確にしよう

71 『対掌体』とは何か

光学とは別の物理的知識とは『対掌体』の概念とその正確な理解のことである

『対掌体』とは「三次元物体の互いに直行する三軸(座標系の三軸)のうち一軸の向きだけを逆にしたとき出来上がる物体」のことでこれを元の物体の対掌体と言う(そんな物は見たこともないと思うかもしれないが身の周りには多くの一対の対掌体がある

三次元物体の左右軸の向きを逆にしようとして一軸(たとえば上下軸)を軸として180度回転させれば左右だけでなく前後軸の向きも逆転してしまうしたがって物体の形を変えない単なる回転によって対掌体を作ることも理解することもできない逆に言えば対掌体を作るためには物体を変形しなくてはならない個体を変形することは困難であるからある物体の対掌体を目の前に創ることはできないただし合掌したときの右手と左手(対掌体の語源)や一足の靴の左右手袋の左右一対のブックエンドの両側ヘッドフォンのLとRなど一対で使う物品では互いに対掌体の関係にあるものが多く実例を観察するのに事欠かない自然界ではある種の結晶の中に見られる

対掌体に固有な性質(属性)として次の事実がしばしば挙げられる

「任意の物体のどの一軸の向きだけを逆にしても出来上がる対掌体の形状は同じになる」したがって同じ物体の任意の軸にそって向きを逆にしてできた対掌体に対し同じ軸にそって再び向きを逆にすれば元の形状に戻ることは当然だが異なる軸にそって向きを逆にしても元の形に戻る

一足の靴を例に挙げれば両方を通常のように横並びに置いて見比べれば右足の靴は左足の靴の前後上下方向の向きはそのままで左方向の向きだけを逆にした形であることがわかる同じ一足をつま先が向かい合うよう一直線上に置けば靴の上下と左右の向きは変わらず前後方向の向きだけが逆になっていることわかる左右と前後方向の向きを変えずに上下だけが逆向きになるよう上下に並べることも可能である

任意の物体とその対掌体二種
[図15]任意の物体とその対掌体二種

図15に任意の物体についてその対掌体と対掌体同士の関係を示す図の左下Eがオリジナルの物体でその正面には縦2本横2本の線分からなるパターンが描かれている上面には前向きの矢印が右側面には上向きの矢印がそれぞれ付けられている

図の中央上のE’はEの左右軸だけ向きを逆にしたときの対掌体である中央下の(E)はオリジナルEを上下軸の周りに90度左回転させたものでオリジナルそのものであるが実際には正面のパターンはこちらから見えなくなる図の右端の( E’)は(E)の上下と左右軸の向きを変えず前後の向きだけ逆にした対掌体であるE’と( E’)はともにEの対掌体であるとともにまったく同じ形であることがわかる二つは同じオリジナルから造られる過程でE’は左右軸( E’)は前後軸の向きだけが変えられたものであるつまりどの一軸を逆にしても同じ形状の対掌体になることがわかる

72 対掌体としての鏡像
[図16]
[図16]実物E(E)とそれぞれの鏡像E’,( E’)
Eと(E’)は同じものE’は(E’)と同じ形状

鏡像のすべては実は実物の対掌体であるなぜなら鏡像は鏡面に垂直な一軸の双方向の向きだけが逆転され他に向きを変えられる軸(方向)はない図16は鏡に物体を映すことで鏡の中に創らせた実物の対掌体だが図15と全く変わらないことが見てとれるであろう図15に追加された四角形は鏡面を表す

この図からわかる「対掌体について大事な考察結果」を挙げる

(E)とその鏡像( E’)に着目しよう( E’)は実物(E)の前後軸の向きだけを逆にしたものであるが( E’)の前面のパターンはE’の前面のパターンと全く同じであるところがE’は実物Eの左右軸のみ向きを逆にした対掌体であるこの事実をまとめると

『物体の正面を鏡に向けたとき(左右は鏡面に平行で水平になる)その鏡像は前後方向の向きだけが逆にされた形状を示すところがその形状は実物の左右方向だけ変えられた形状とまったく同じである

この事実はすべての鏡像について常に言える事実でなければならない

具体例でこの事実を示すと不透明な紙の表面(紙の前後軸の前側)に正しい文字を書き上下方向の向きを変えずに鏡に向けるとその状態で鏡に映った文字は前後軸(表裏)が逆になるが上下と左右は入れ替わらないにもかかわらずそのときの左右の形状は正しい向きの実物の左右軸の向きだけを逆にしたときの形状とまったく同じであるだから鏡像を見ただけでその実物の形状が記憶にあればそれを基準として鏡像と比較し直ちに逆向きと判断することができるのである

鏡に映った文字を見てただちに左右逆と判断するのは鏡像が実物の対掌体だという事実を知らなくても誰にもできることだが実は鏡像が対掌体であることによって示されている事実そのものを観測することで判断しているのである

また(E)とその鏡像( E’)を見ればわかるが実物(E)の右側の矢印はその鏡像でも上向きであるが上面の矢印は互いに逆向きであるもし実物が透明体であれば透かして見た正面のパターンと鏡像のパターンが同じであることがわかる

このことから

『正面を鏡に向けられた実物の正面は通常観測者から見えない鏡に映った正面だけ観測できるがその形状は実物が透明体であれば透かして見通した表面の形状と全く同じである』

と言うことが出来る

この状況の中に「実物の正面とその鏡像と間に上下左右方向の位置向きに逆関係がない」という常識通りの事実が存在することも目で見て確認できるつまり透かして見通せる向こう側の正面の上下と左右の向きを変えないでそのまま手前に移動すれば上面の矢印も逆向きになり鏡像と同じ形状の物体になるこれが前後軸だけを逆向きにしたときにできる実物の対掌体であるが実物をいま言った通りに変形することはできない鏡はその作業を代行し実物の対掌体の実際の姿を目の前で実現してみせてくれているのである

73 『対掌体』と『回転』

通常鏡像の左右が「逆になる」ことをなんとか説明しようとして結局は鏡像を実物と置き換える事実を指摘したさらに実物と置き換えこちら向きの実物の左右の位置がわれわれ(観測者)の左右と「逆になる」事実の理由を考えるとき180度回転が併せて導入されるのが常であるなぜなら同じ向きに並んだ二人の一方がこちら向きになり互いに向き合うためには一方が上下軸の周りに180度回転する必要がある現実の問題としてこの動作以外に方策はないしたがってこちら向きの鏡像についても同じ動作が原因になるとしか思い付かないからである

しかし物理現象の実体を客観的に明らかにする「鏡像の光学的な成因」中には「光の反射の法則」一つしか含まれておらず反射とはまったく別現象の「回転」の概念が入り込む余地はない鏡像と回転とは完全に無関係であるしたがって鏡像の左右が逆かどうかを考え解明するに当たって回転が持つ属性だけで説明理解し解決しようとしてもはじめから無理がある

こちら向きの原因に回転を導入すると実物の左右が完全に対称な場合回転の結果こちら向きになった実物(の左右の形)を見ただけでは左右の位置が逆になったのかどうか(論理的に)判断できなくなるそこで実物の左手に腕時計をつけるなどマイナーな非対称化を行いこちら向きになれば腕時計のあるほうの手(これが左手とされている)が右側に移動することが視覚的にわかるとして左右位置の逆転を説明しようとする「左(と定義された)手に腕時計を付ける」という(までは正しい)がこちら向きになった時点では「腕時計をつけたほうが左手」という判断基準(定義)に変わっている事実には気がつかないそれなら腕時計のあり場所さえ見てとればよいので別に180度回転を原因にする必要はない

実際にこちら向きの実人物の左右を理解するのに腕時計のありなしで判断するのではない物体を上下軸の周りに180度回転させれば前後の位置向きとともに左右の位置向きが逆転するという物理的事実の理解から「対面=左右逆」が認識され覚え込まれる

鏡像の左右特に鏡像固有の左右(鏡像の上に直接定義された右と左)についてたいがいの人が正しい認識を持たないでいるこの事実も「鏡の問題」を論理立ててすっきり理解できない原因になっているここで鏡像固有の右左の定義を紹介しておこう

南を向いて立ち足元に磁針を置くその前側に大きな鏡を垂直に立て鏡面が北向きになるように設置する鏡の中の世界では実世界と比べ南北方向の向きが逆転するが東西方向は逆にならない磁針の鏡像を見れば明らかだが鏡の中でこちら向きの人物(観測者自身の映像)は鏡の中の世界でその南方を向いていることがわかる

鏡の中の世界は一方向(今の場合南北)の向きが逆転しているだけで他のあらゆることがわれわれの実世界とまったく同じに成立する鏡の中の人物についてもその右/左は「人が北/南を向いて立つとき東/西側になるほうが右/左」と定義されるしたがって今の場合鏡像は鏡の中の世界の南を向いているからその世界の西/東側が右/左である一方観測者も実世界の南を向いているからその西/東側が右/左である実世界と鏡の中の世界の西と東は共に同じ側にあるということは観測者の右手と鏡像に直接定義された鏡像の右手は同じ側にあるということである向かい合ってはいるが実物同士の左右の位置が逆になるのとは反対に実物とその鏡像との間ではたがいの固有の右左が逆位置にならない

もし二人が実人物なら「右手を挙げよ」という号令で一斉に挙手すれば一方から他方を見れば自分と逆位置の手を相手は挙げている相手が鏡像の場合は自分と同じ側の手を挙げていることがわかるつまり「鏡は左右の位置を逆に映さない」常識とおりになっており定義の仕方も逆になっていないそれを鏡像では右左の「定義が逆」(鏡の中の世界では右と左が逆である)と誤解するのは鏡像を実物と思うことを無批判に容認する(誤解誤設定を誤りと思わない)からである

以上の議論の中で(180度)回転がまったく関与していないことに注意されたい

8 おわりに

第6章までで取り上げたことはある一つの鏡像についてその左右(または上下)につきたとえ無意識であってもそれぞれの「位置」の観察に関心が持たれたときの問題についての理解の仕方である(21節の実例の対応)第7章では同じ鏡像でもその左右の「形状」の観察に関心が持たれたとき観測される事実の根拠についての理解の仕方が解説されている(22節の実例の対応)

鏡像を見るときこの二つの立場ははっきり自覚されないのが普通であるが自分がいったいどちらに関心を持って観察し考えようとしているのか確かな自覚を持つことがまず肝要であるそれができれば筆者が今回紹介した「鏡像認知の論理」ですべての鏡像が矛盾なく理解でき他人にも納得のゆく説明が可能になると考える

なお今回の解説は2005年日本認知科学会誌『認知科学』12(4)320―337に掲載された筆者の論文の解説でもあるがこの論文にその年度の特別賞が授与された

付録

第7章ですべての鏡像は「左右逆の形状」を持つことが物理学的(幾何学的)事実であることを述べた(「鏡像の左右逆」を分析して左右の位置と左右の形状に分類したのは筆者が最初である)それに対しでは「鏡の問題鏡像の謎」で“「左右が逆になる(見える)のはなぜか」という問いかけの実体が実は「左右の形状が逆になるのはなぜか」という疑問ではないのか”といういままでに考えられたことのない新たな質問を生む可能性が予測され事前に事態をはっきりしておかねばならないと思う

結論から言えばそうではない理由はいくつかある

まず断りなく「左右」と言った場合左右の定義=「人が南/北を向いて立つとき西/東側になるほうが右/左」から明らかなように右と左の「側」の意味しか持ち得ない(左右の)形状とは完全に無関係な抽象的概念の定義である単に「左右が逆」と言えば「抽象的概念の右と左が逆反対になる入れ替わる」という意味しか表現できず左右の形状と直ちに結びつける正当な事由がどこにもない

したがってすでに論じたように過去から現在に流通している諸説では単に「左右が逆になる」文言のみそのまま取り上げその事由を考えているのには理由があるのだが無意識ではあっても実際は「鏡像の左右の位置向き側」が逆になる事実を考えの対象にしているしかし正しい結論は鏡像の位置向き側は実物と比較する場合「左右が逆にならない」しかないのにはじめから「逆になる」ことを証明しようとする立場では原理的に正解にたどり着けないのは自明であるその上「鏡像の左右の形状」については実物の記憶と比べた場合まさに「左右が逆になる」事実のほうは文字などの場合きわめて明瞭に観測されるこの事実につき人物の鏡像との正確な区別の根拠も自意も持たないまま考えの中に混入させて話を進め何とか一つの考えでまとめようとするからことはいよいよ混乱するその結果他人から見ればどこかに自家撞着を含む論説であることが指摘でき同じ立場の学説提案者同士の間で論争が永遠に続く(ここまでの説明がわからないまたは疑問に思うならもう一度筆者の本論を読み直していただくほかない

さてもし「左右の形状が逆なのはなぜか」が問われているとするなら左右の形状がまったく同じつまり「完全左右対称」な場合左右が逆になっても見ただけでは形状に変化観測できないので逆かどうか区別がつかず不明であるから「鏡の問題鏡像の謎」は成立しなくなるところが仮に人間全員の顔が左右完全に対称であったとしても「鏡の問題」が依然成り立つことを以下に解説し「左右の形状が逆なのはなぜか」が問われているのではないことを実証しようこれは「鏡の問題」が成立するのは結局は左右の位置を取り上げているからであることの証明でもある

左右対称の顔の鏡像
[図A1]左右対称の顔の鏡像
鏡に向かっている実物は省略

図A1は左右完全対称な顔の持ち主の一人が鏡の前に立って自分の正面の顔を映したときの鏡像であるこのときの観測者(自分図には描かれていない)は顔というものが自他ともに左右対称であることを知っているからその知識(基準になる記憶)からみても鏡像の左右が逆の形状かどうか形の上からは判断できない(と思う)であろう

しかし通常言われる意味で鏡像の「左右が逆である」と表現する事実はわれわれ同様に認識されるまず左右対称形であってもその右と左はわれわれ同様に定義されて決まるなぜなら右と左は左右の形状に無関係な定義だからである「対面=左右逆」の認識もまず実物同士で確認され常識化されていることも同じであるどんな顔でも鏡像が「こちら向きである」ことは認識されるそこで自分の鏡像をそのまま実物と見れば「左右の位置向き側が逆になる」と思うことにも変わりがない

ここで自分の鏡像を見ながら観測者が自分の右のほうに移動してみるすると鏡像は(それが実物とするなら)その左のほうへ移動する(ように見える/思える)つまり鏡の外と内では「左右が逆」である(ように見える/思える)と認識する

注意しておくが「右(だけ)に移動する」ことが「左右非対称を持ち込んだのではないか」という疑問があるかもしれない「対称」というのはある単独の事象の上に適切な位置に「点あるいは直線または平面」を設定したときその両側の対応関係について特別な場合に成立する概念である一方向への移動だけでは対称も非対称も概念自体が成り立たない

もしも自分の鏡像を見ながら左目をつぶったとするとこれは左右の形状を変えたことになり非対称の導入になるその結果観測者は鏡像の向かって左側の目がつぶられたことを意識的に観測するがこのとき思うのは「自分の左側は(鏡像が実物とすると)鏡像の右側に当たるつまり鏡像の左右の側位置が逆になる」ことだけで「左右の形状が逆になった」とは考えない

ところが“「位置が逆になる」ということは即「形状が逆になる」ことではないか”と考える人がいるかもしれないたとえば逆文字では正文字に比べ全体の形状も逆であるとともに文字の左右の部分の位置が逆であるしかしこちら向きの実人物の場合左右の位置は逆になるが相手の形状は変わらない「一事が万事」と思ってはいけないこうした区別(ことの真実)が自分で気づけない状態(知的レベル)で「鏡の問題」を考えでも真実はつかめないどうしたことか鏡の問題に限り専門家の中でさえこのレベルから問題を見る人が少なくない[実は相手が鏡像だからこそ「左右に位置側が変わらないのに左右の形状が逆になる」不思議が現実に見られるそれは鏡像が実物でなく実物の対掌体だからである第7章参照]

さて上の記述だけでも「鏡の問題」の「左右が逆ではないか」というのは実は「左右の形状が逆ではないか」という質問ではあり得ないことがはっきりしたと思う

参考文献

最小限の文献欄である読まなくても本文は理解できる

小亀 淳(2005). 鏡像認知の論理. 『認知科学』12(4),320-337

小亀 淳(2008).「鏡像の左右逆」とは何か. 『認知科学』15(3),498-503.

Gardner,M.(1964). ここでは1990 年に出版された改訂版の翻訳書を紹介しておく

 『自然界のおける左と右』. 坪井忠二藤井昭彦小島弘訳(1993). 紀伊國屋書店

Gregory,R.H.(1998) の翻訳書

 『鏡という謎』. 鳥居修晃香取広人望月登志子鈴木光太郎訳(2001). 新曜社.


小亀先生は2009年11月16日に永眠されました2008年暮れの「京都コンピュータ学院創立45周年京都情報大学院大学創立5周年」を記念した講演会では元気なお姿で今回掲載した「鏡の中の右と左」をお話しいただきました今年の10月には「アキューム」への寄稿を快く引き受けていただくとともに「NAIS journal」へ論文「『ゼノンの逆理』は逆理か」も出稿いただきました今号が発刊される前に永眠されたこと残念でなりません心よ りご冥福をお祈りいたします

(アキューム編集部)

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小亀 淳
Jun Kokame
  • 東京大学名誉教授
  • 理学博士
  • 1947年京都大学理学部物理学科卒業
  • 京都大学科学研究所研究員京都大学助手(化学研究所)東京大学助教授(原子核研究所)東京大学教授(同)国士舘大学教授(情報科学センター)を歴任
  • 京都コンピュータ学院情報システム開発研究所所長

上記の肩書経歴等はアキューム18号発刊当時のものです