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Accumu Vol.7-8

詩とのつきあい

京都コンピュータ学院 湯下 秀樹

1.「詩がわからない」ということについて

1995年度,卒業実習「文学」という科目を通じて,文章表現をしたいと望んでいる学生諸君とふれあう機会があった。

授業の最初に中原中也や高村光太郎の詩を学生に読ませ感想を書いてもらった。すると,2割程度の学生は「自分には詩がわからない」「詩は嫌いだ」とだけ書いて後は白紙という状況であった。こうした学生が,わからない,嫌いだと言うのは,配布した作品を自分なりによく読んだ上でのことではない。それは教室の前にいて見ていればわかる。何割かの学生はプリントを配って3分もたたないうちに机にうつぶせてしまっている。予め詩に対してはシャットアウトしているという感じなのである。

こうした学生は一体なぜ詩に対する嫌悪を身につけてしまったのだろうか。それらの学生と話をしてみると,多くが,これまで国語のテストにおいて詩が出された時に成績がよくなかったという経験を持っているらしいことに気づく。思い起こせば,国語のテストにおいて正答に合致しなかったとき,自分には詩の読解力がないのではないかという気持ちにかられた記憶を筆者も有する。

しかし本当はただ単に用意された正解に至れなかったというだけにすぎない。おそらく国語のテストの成績と詩の読解力の有無はほとんど関係がないと思う。詩の読解に解答が一つしかないということは有り得ないからだ。詩の読み方は読み手の数だけある。無論,妥当な読み方というものは存在するだろうが,解答が一つしかないというようなものではなくもっと幅のあるものであるはずだ。ちなみに「ふるさとは遠くにありて思うもの」で始まる室生犀星の有名な詩には,何通りもの解釈が専門家によってなされている。専門家による妥当な読み方さえ確定していない作品があって,しかもそれが多くの人々から傑作であるとされているのである。詩がもともと曖昧さを含んだものであり,たとえその詩の唯一の意味が確定できなくてもそのことが詩の価値に何等の影響も与えないものであることがこの例からもわかるであろう。むしろ正解を求めてわかろうとする姿勢そのものを詩自体が拒んでいる場合もあり得るのだ。

従って「詩がわからない」という場合の「わからない」が国語のテストにおけるようにたった一つの正解が導けないという意味であるならば,そのような反応自体がナンセンスであって,唯一の解答を求めて詩を割り切ろうとする姿勢そのものに問題があるとさえ言うことができるかもしれない。

少なくとも日本語の散文が読むことができれば,詩が全くわからないということは有り得ない。大切なのは「自分には詩はわからない」という思いこみを捨て,無心に詩のことばに向かいあうことだと思う。そうすれば必ずなにがしかの感じを掴むことができるはずだ。例えば「何を言おうとしているかわからないが,ちょっとこのことばが気にかかる」という程度でいいと思う。それこそがその人なりのわかり方であって,たとえ妥当な読み方からは遠いものであってもその感じをこそ大切にするべきだと思う。

そもそも詩は,一読してすぐに明快な意味を伝えることを目的とはしていない。単なる伝達の手段ではなく,詩自体が独自の存在として読み手に迫ってくるという感じがある。

詩は読み手との長いつきあいを求めている。もっと言えば詩を読むという行為は,どこか人とのつきあいに似ているのではないか。初対面の時の第一印象に始まり,その人と何度か会ううちその人に対する理解が深まっていく。あるいは理解しているつもりが全く異なった面を突如見せられる。少なくとも人とのつきあいにおいて一度会っただけでその人のすべてがわかるなどと誰も思わないであろう。詩の場合も丁度それと同じように一度でその詩のすべてを理解し味わおうなどと思う必要はないはずだ。詩を読む楽しみは妥当な読み方や正解を人から教わったり,押しつけられることの中にはない。手探りで,迷いつつ幾通りもの解釈の可能性を考えながら,自分なりの読み方を深めていく過程にこそあるのではないか。

2.詩とのつきあい

藁とヘルメット

   わたしをわれわれのように囲む

   かぞえられない草が

   ネルの頭巾を被り

   水にとかれる木乃伊とは

   どんな形だろうとうたっている

   わたしの人格がここですかと

   知らない他人の住居をたずねあるくときの

   対人的な

   ふかいえたいのしれないかなしみが

   半分は藁にかくれ

   半分は泥にまみれたヘルメットとして

   破綻をきたし

   土の上にあらわれている

これは,江代充という詩人の詩集「みおのお舟」(書肆山田)に入っている作品である。筆者はここ数ヵ月この作品が気にかかり,折りに触れ何度も読み返している。筆者がこの作品をどのように読み,どのようにつきあっているのかを以下に報告したいと思う。

まず一行目の「わたしをわれわれのように囲む」という表現からして全く不可解であった。「われわれ」と言う時には,その中には「わたし」は必ず入っているものであり,「わたしをわれわれのように囲む」ということは有り得ないことのように思えたからだ。しかし,不可解だと思う反面,やはりこの行は「わたしをわれわれのように囲む」でなければならない。表層的な意味を超えた深いところで,この行は説得力があり,とても魅力的に思えた。

次に「ネルの頭巾を被り」「水にとかれる木乃伊」もよくわからない。特に,「ネルの頭巾を」被っているのが,前の行の「草」であるのか,後の行の「木乃伊」であるのかが確定できない。意味の流れから言えば,「かぞえられない草がネルの頭巾を被り」と考えた方がよさそうであるが,時として,「ネルの頭巾を被り水にとかれる木乃伊」というイメージの方が面白いようにも思われた。

さらに,六~七行目の「わたしの人格がここですかと知らない他人の住居をたずねあるくときの」という箇所において「わたし」ではなく「わたしの人格」がたずねあるくというのも奇妙である。また「ここですか」というのも一体何が「ここですか」なのか全くわからない。このようにこの詩には,わからないことが多すぎる。だが何度か読むうちにこの詩に強い感動を覚えた。なぜか?

ある時この作品の不可解なところは留保したまま,わかるところだけをつなげてこの詩の骨格を味わうように心がけてみた。すると不可解な詩の中から「かぞえられない草」と「半分は藁にかくれ」「半分は泥にまみれたヘルメット」がたち現れ,とても懐かしい感じがやってきた。ここには雑草が生い茂る工事現場のような空き地が描かれているのではないか。

幼い頃,近所に雑草のはえた空き地があった。友達のいない時は一人で空き地にいき,シャベルやおもちゃで遊んだ。そんなとき子供は一人ごとをぶつぶつ言っていることが多い。しかしあれは決して一人ごとではなく,子供は誰かと喋っているのである。

風になびく空き地の雑草は,時として襲いかかる異星人の群れになり,子供は一心不乱に,棒の切れ端でその異星人をけちらそうとする。空き地の砂山は,大きな山となり,そのふもとにおもちゃのブロックで町を作り出す。他には誰もいないはずの空き地が,多くの見えない人々で満たされ始める。

また子供は何の変哲もないものにも強い感情的反応を示すことがある。筆者も幼い頃,自宅のトイレの壁の模様がなぜか恐くてしょうがなかったという想い出がある。

翻って考えてみると,この「藁とヘルメット」という作品は,こうした子供の目で描かれているのではないか。物に生命が吹き込まれ,親しく語りかけてくる。あるいは物が特別の意味をもって迫ってくる。こうした物に対する感じ方はファンタジーやメルヘンの世界におけるそれと等しい。ただメルヘンとは言っても,この詩には,対人的な関係において,他者の視線におびやかされる自我の不安とでも言えるような感覚が流れているように思える。それ故,筆者はこの「藁とヘルメット」という作品を痛々しいメルヘンとして読んだ。

それにしても,「対人的なふかいえたいのしれないかなしみ」を表現する上で,それと何等関係のないように思える泥と藁にまみれたヘルメットを持ってきて等価のものとして並べるというのは並大抵のことではない。通常なら独善的となりかねない表現である。

詩はその表現方法として比喩をよく用いる。解説的に言えば,この詩は「対人的なふかいえたいのしれないかなしみ」を泥と藁にまみれたヘルメットという隠喩(メタファー)で描いていると言えるだろう。

いや,ヘルメットは決して「かなしみ」を描くために便宜的にもってこられた比喩ではない。むしろヘルメットを見た瞬間にそれが「かなしみ」に見えたというプリミティブな感覚をそのままことばに定着させたものであると言った方がいいかもしれない。そんな風に敢えて言い換えたくなるような生々しさをこの詩は持っている。

ところでこの作品には独特な時間が流れているように思う。すぐに流れ去ってしまう時間ではなく,よどみつつ,ゆっくり持続するような時間の流れをこの作品に感じる。

そのような感覚を筆者に抱かせた理由は,おそらく13行あるこの詩が,文としてはたった二つのみでできていることと無関係ではないと思う。長くうねるような文が二つ合わされてこの詩はできている。そうした構造がこの詩に流れている独特の時間を生み出しているのであろう。

この詩には前述したとおり,やはり読み解けない曖昧な箇所が多く残っている。しかし「ネルの頭巾」も「水にとかれる木乃伊」も「わたしの人格」の「ここですか」という問いかけも,曖昧なまま受けとめればいいのではないかと思っている。さらのこの詩を読み進めるうちに,ふとした瞬間に,自分の感覚と詩のことばがシンクロし,深いところで「わかる」時が来るかもしれないではないか。それを楽しみにしたい。

3.詩の曖昧さについて

しかしなぜ詩は曖昧さを含むのであろうか。

ここで是非自分の感情や情念のありさまを考えてみてほしい。自分自身でも説明できない感情や情念の動きが必ずあるはずだ。そして詩の曖昧さは,それが表現の対象としている人間の感情などの曖昧さに起因している部分が大きいに違いないと思うのだ。つまりうまく表現している作品ほど,割り切れない曖昧さを含むということが起こり得る。

ところで音楽のことを考えてみてほしい。音楽を聞いて「これは曖昧だ」という感想を抱くことはあるであろうか。音楽の場合は素材となる音が「ことば」におけるような「意味」を背負わされていないため「曖昧」に脅かされることはない。それに対し詩は常に日常の「ことば」との対比で測られる。ここに詩という表現の特異性があるように思う。

「ことば」は普段からわれわれが日常生活のコミュニケーションの道具として使用している。日常の「ことば」には,意味の明確性・一義性が望まれる。もし「ことば」の意味が曖昧で多義的であれば,日常のコミュニケーションは混乱するに違いない。

だが詩においては,日常の「ことば」とは異なる機能を発揮できるような「ことば」の使用方法が意図的にされている。例えば「かなしい」という気持ちを詩人は表現したいと思う。「かなしい」と書くだけで自分の気持ちをある程度説明はできるだろう。しかし詩人はそうした説明だけでは満足できない。「かなしさ」そのものを「ことば」で顕わにしたいと思うのである。そのために比喩を使ってみたり,ことばの音やリズムに注意を集中してみたり,時には文法を逸脱してみたりする。更には時として,自らの表現を成就させるために,日常の「ことば」から全く自由になり,音のように純粋な「ことば」を得たいなどと考えたりするのである。19世紀フランスにおける象徴主義と言われる文学運動が,詩の音楽化を唱えていたのはそのよい例である。

しかし詩の「ことば」を,完全に日常の「ことば」から切り離すことはやはりできない。常に両者は緊張関係にある。詩人たちは日常の「ことば」との絶えざる緊張関係の中で,表現を試みていると言えるだろう。

詩がそのようなものであるならば,読み手は,日常の「ことば」の使用方法からずれている部分,意味が曖昧な部分がどこであるか注意しながら読むべきだと思う。そして曖昧だからわからないというのではなく,そのずれた部分・曖昧な部分こそを詩のありかとして味わうべきではないか。

さて,詩の曖昧さについてもうひとつ重要なことがある。それは詩の曖昧さがこれまで述べたような詩人の表現欲から必然性をもって生まれたものでない場合もあり得るということだ。即ち書き手の表現の未熟さや,独善性などが曖昧さを生んでいる場合も多い。読み手は「にせもの」をつかまされるということも多いのだ。それではどのように「本物」と「にせもの」を見分ければよいのか。これはとても難しい問題である。ここではただ書き手の倫理について述べるにとどめたい。

即ち書き手は,決して「詩は曖昧さを含むものであるから,曖昧に書いていいのだ」と詩の曖昧さの上にあぐらをかかないことが肝要であると思う。あくまでも日常の「ことば」との緊張関係を忘れてはならない。説明ですむことは簡単な「ことば」で説明すればよい。それを変にまわりくどい言い方で詩をきどるようなことはしてはならないと思うのだ。この文章の終わりにあたり,自らも詩を志す筆者の自戒の意味もこめて,ドイツの詩人リルケの言葉を少々長くなるが引用しておきたいと思う。

「自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。もしあなたが書くことを止められたら,死ななければならないかどうか,自分自身に告白して下さい。何よりもまず,あなたの夜の最もしずかな時刻に,自分自身に尋ねてごらんなさい,私は書かなければならないかと。深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。そしてもしこの答えが肯定的であるならば,もしあなたが力強い単純な一語「私は書かなければならぬ」をもって,この真剣な問いに答えることができるならば,そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ちたてて下さい。

(新潮文庫「若き詩人への手紙」高安国世訳)

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湯下 秀樹
Hideki Yushita
  • 京都コンピュータ学院教員
  • 早稲田大学法学部卒業
  • 同志社大学大学院法学研究科博士課程前期課程修了
  • 修士(法学)
  • 2004年に京都市文化芸術振興条例策定協議会委員を務める
  • 著書「インターネット検索能力検定試験教本」(共著)

上記の肩書・経歴等はアキューム16号発刊当時のものです。