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Accumu Vol.4

「認知科学」へのいざない

京都大学総合人間学部自然環境学科助教授

京都大学大学院人間環境学研究科助教授

京都コンピュータ学院講師

理学博士

松村 道一

認知科学とは

認知科学(Cognitive Science)という新しい学問分野にはまだ馴染みのない人が多いのではないかと思うこの分野をリードする『本場』のアメリカでも「Cognitive Science」という学術雑誌が初めて刊行されたのが1977年であるから認知科学という言葉自体が世間に『認知』されてからやっと15年にしかならないのである創世期の学問分野としてはよくあることだがその中身は極めて流動的で人によって定義自体も異なっているしかしそれを敢えてやさしく言うならば認知科学とは人間の心(知性)の働きとその知性の生産物である知識の性質を解明しようという学問であるということになろうか

「心」の問題に切り込む方法として以前から認知心理学という分野が存在したのであるが「心」という巨人に対して素手で戦いを挑んでいたようなもので結果は学者の解釈任せとなり客観性に乏しく科学として充分に確立したものにはなりにくかった現代科学技術の進歩とともにコンピュータサイエンスや脳科学が新たにこの問題解決のために参入してくるに及んで「心」がやっと実体のあるものになってきたのである

コンピュータの登場

コンピュータサイエンスの側からいうと人工知能(AI)の研究の歴史はコンピュータが実用化されるやいなや始まっている画像処理や自動翻訳機ロボットの研究が早くも着手されているのである初期の頃は人々はコンピュータの計算能力のすばらしさに目を奪われて人工知能の実現も間近であると誰もが確信していた1960年代なかばにアメリカの人工知能研究の大家であるMミンスキーが「30年後には計算機は人間の知能と対等になるだろう」と予言しているコンピュータがやがて人間を支配するようになるという筋立てのSF小説がたくさん書かれたのもその頃のことである

しかしAI研究の挫折はわりと早く訪れたこの幕引きを演じたのも同じミンスキーであった1969年の著書の中で彼はその頃ようやく軌道に乗り始めた学習機能を持つ神経回路網の限界について詳しく検討したのであった彼のAI研究への熱意とは裏腹にまた彼が大家でありすぎたためにこの限界説の社会的影響が大きく1970年代にはAI研究に対してアメリカ政府の研究助成金がほとんど出なくなってしまったのであるAI研究の冬の時代であるがこの時期にこそ認知科学の必要性が高まってきたのである

人工知能研究の問題点

ミンスキーの批判を待つまでもなく人工知能研究は当時大きな壁に突き当たっていた自動翻訳機の例を取り上げてみよう初めの頃翻訳作業というのは単純な文字列の操作だと思われていた二種類の辞書(訳す言語と訳される言語)と各々の文法規則さえ入力されていればコンピュータにとっては簡単な作業の筈であった確かに字面から字面への翻訳は一見成功したかに見えたのであるしかしこのような逐語訳で事足りると思うのは言語の意味構造を理解しないとんでもない誤りであることがわかってきたのである例えば「あなたなんて嫌いよ」というのは女性がよく使う言葉であるこれを字義通り解釈して「I hate you」あるいは「I dislike you」と翻訳したのではこの女性の心持ちすねた感情あるいは相手の気を引こうとしている様子が全く伝わってこないそれ以前の問題としてこの文章には主語がなくコンピュータには誰が話しているのかさえわからないのである

そもそもがなぜ我々人間にはこの文章が理解できるのか実はそのことの方が驚異なのであるこの日本語9文字はパソコン上では18バイトのメモリーを食い情報量からいうとわずか55ビットにしかならないしかしこの言葉を理解するために実は我々はとてつもない量の知識や経験を必要としているのであるこの言葉を聞いた途端話し手は女性であることがどうしてわかるのかなぜこの女性は思っていることとは裏腹の言葉を言ってしまうのかそれこそ女性心理の奥底を極めていないと理解できないことであるもちろん時と場合によって本当に嫌いな相手を撃退しなければならないこともあるどちらにせよその人の置かれている状況や深層心理を理解することなく言葉の翻訳などできる訳がないのである逆に言えば言語というのは人間の心の動きを文字に表しただけのものであり我々にはもう一度「その意味を心で読み直す作業」が必要なのである

――試しに「あいつはなかなか話せる奴や」という日本語文を貴方自身で英語に訳してごらんなさいきっと翻訳には何が必要かわかると思います――

図1

もう一つの例としてロボットに物を見分けさせるという画像処理の問題を取り上げてみよう当初外界の三次元世界を見分けるためには二つの目玉に相当する二台のカメラアイがあれば充分であると考えられていた二つの平面画像から立体像を再構成する技術の開発であるしかし当然のことながらカメラ(ここでは簡略のため白黒に限って話を進める)が捉えた画像は濃淡だけが存在する平面図である写っているものが直方体であるとするとどこが面でどこが稜線になっているかを見極めなくてはならないまず最初の作業は境界線を抜き出すことであろう線を何とか抽出するところまでは不完全ながらも現在の技術水準で実現されているようだ

次の段階としてこの線で構成される仮想のフレーム構造が現実の三次元世界に無理なく存在する立体像として成り立つかどうかを判定しなくてはならないのだが話がここまでくると俄然難しくなってしまうのであるある研究者は特定の線分の組合せ方で凹凸を表現する計算式なるものを考案したしかしそれには恐ろしい量の計算が必要でありしかもそのやり方が必ずしも満足なものではなかったのである与えられた立体像から平面図を作ることは容易であるが与えられた平面図から立体が再構成できるとは限らないのである図1を見ればそれは一目瞭然であろうそこで最終的にわかってきたのは「人間はこんなやり方でものを見ているのではない」ということであった

再び認知科学とは

図2

人間の脳は網膜に映し出された像を瞬時にして立体像として認識する能力を備えている画像の中から線分を選び出して反応する神経細胞(ニューロン)や左右の網膜像の食い違いから奥行きを認識できるニューロンが大脳皮質に存在することは既にわかっている我々は脳の中に都合のよい立体モデルの鋳型を既に持っているのであるサルを使った実験で顔の映像を見せた時にのみ活動するニューロンや同じ顔を見せても微笑んでいる時にだけ反応するニューロンが見つかっているこのようなニューロンのことをわざわざ「認知ニューロン」と呼ぶ人もいる(図2参照)しかし我々はこの鋳型を先天的に持って生まれたわけではない縦縞しか見えない環境で子ネコを育てるとそのネコは大きくなってからも横縞を認識することができない脳の中に横の線分を抽出するニューロンが育たなかったからである

つまり我々がものを見るというのは後天的に取得した脳の中の立体モデルの鋳型と今現在映っている網膜像との間に対応関係をつける作業なのであるこれが認知の過程である現実にあり得ない組合せはあらかじめ脳が排除してしまうのであるコンピュータはこのような「常識」を持たないからいちいち全ての可能性組合せをチェックしていくのであるつまり画像処理とは最初の画像から段々と特徴を抽出していく「ボトムアップ法」だけではなくて初めから存在する鋳型と照合する「トップダウン法」の情報処理をも必要としているのである

図3

ときどき自分の脳内にある立体モデルと網膜像とがうまく対応付けできないことがあるこのような矛盾や葛藤を積極的に取り入れた不思議な絵を描く芸術家もいるエッシャーという版画家の描いた絵(図3)をよく観察していただきたい最初に見たときには何が何だかわからなくて混乱してしまうだろう図の一部分ずつを見ていくと何とか現実の立体と対応もつくのであるが別の場所に目をやった途端頭の中で凸面と凹面とが反転してしまう再び全体を見ると全くつじつまが合わなくなってしまういつまでもこの葛藤は克服できないままである時にはこんな混乱もまた楽しいのではなかろうか

人工知能研究の未来

どうやら「単なる文字列とその意味内容とは別物である」ということや「平面図と現実の立体像とは別のものである」ということが人工知能研究者にも徐々にわかってきたらしい今やなぜ文字列が人間に了解可能な意味を創り出しているのかという階層性の問題をもっともっと明らかにしていくことが必要なのであるそれが知識構造の階層性の解明にも役立つし本当の学習能力の開発にもつながるのである

人工知能研究が実を結ぶかどうかは結局のところ人間の認知の過程を解き明かせるかどうかにかかっている知識と知識を関係づけるやり方記憶のメカニズム学習の仕方などまだまだ人間を見本にしなければならないことは多い

「学習能力のある日本語ワードプロセッサ」などという大げさな歌い文句をみることがあるしかしその内実は至って単純で出現頻度に応じて漢字変換辞書の順番を並べ換えているだけに過ぎないせいぜいが前後に使われている漢字から判断してそこに使われそうな漢字の候補を拾い出してくるくらいであるその文章の意味内容に立ち入って解読しているわけではない

「おい」と言っただけでお茶が出てきて「あれ」と言っただけで必要な書類が出てくるというのはいささか極論であるがこんな「話せる」コンピュータができて初めて秘書代わりに仕事を任せることができるのであるそんな時代がくるまでは相変わらず「物わかりが悪くて融通のきかない」コンピュータ相手に泥臭い残業が我々を待つているだろう

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松村 道一
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  • 京都大学総合人間学部自然環境学科助教授
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上記の肩書経歴等はアキューム4号発刊当時のものです