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Accumu Vol.17

初代学院長の思い出

中村 州男
1977年 情報科学科(2年制)入学
1979年 情報工学科(3年制)へ転科
1980年 卒業

序―(1975年6月)

長谷川繁雄初代学院長

1975年,高校2年1学期,数学ⅡB数列・漸化式に1ページのコラムがあった。フローチャートである。コラムは大学受験に関係ないので,授業としては飛ばしてもいいはずだったが,その先生はなぜかしっかりと解説してくれた。漸化式で表現したものをコンピュータで自動計算させることができる,とあったと記憶している。これは面白いと感じた。

当時,大学は2年間の教養課程とその後2年間の専門課程に明確に分かれていた。これをやりたいと思うことが見つかってもすぐには研究できない。これは歯がゆい。時を同じくして,1976年からはじまる専修学校制度について,故永井道雄文部大臣(日本で2人目の民間人閣僚)が大学への編入にも言及され,新聞にも進学チャートが示された。つまり,4年間継続して研究できる。これを契機にコンピュータの専修学校への進学を決めた。

分厚い「螢雪時代」(旺文社)に載っている大学案内をくまなく調べた。当時の情報源はこれしかなかった。もちろん,コンピュータの専修学校の折り込み広告だけである。目に入った在学生の第一種情報処理技術者試験合格証書の写真入りの折り込み。しかも,特別奨学生(学費免除)制度が見つかったのである。すぐに資料請求した。直ちに,希望が丘で芝生に円を描いて坐っている学生たちが表紙を飾るパンフレット類が届いた。

受験する前にこの目で確かめたい。もちろん,その京都での評判,そして何より本当に実在しているのかまでも。8月に入学説明会が開催されることがわかり,すぐに京都まで飛んだ。そう,高校2年の8月である。

初めてお会いした日―(1975年8月)

入学説明会の場所は,現在も存在している。洛北校の真中にある建物の2階。もちろん,1階にはTOSBAC 3400 があり,それは見えた。

長谷川繁雄初代学院長自ら,壇上に立たれ,熱い思いを述べられていたと記憶している。今の入学説明会やオープンキャンパスとは大いに異なる。つまり,入学を勧めるでもなく,設備の見学をするでもなく。記憶しているのは,ただただ熱い思いを受け止めたこと。

終了後,「山梨から来た中村君?」と声を掛けて頂いた。「君は高校2年生だろ?なぜ来たのか?」単刀直入の会話が始まった。理由は前掲通り,お伝えした。「そうか,わかった。では来年。待っているからな」。熱い思いをお持ちの初代学院長のそのひと言は今でも胸に刻まれている。

急な面接―(1976年秋)

さて,高校3年生になり,特別奨学生の試験を受ける時がきた。国語・数学・社会の試験が告知され,面接は予定されていなかった。国語は「コンピュータと私」という題での作文が事前告知されていた。800字から1200字だったと記憶している。社会も日本近代史で作文が事前告知されていた。数学は通常の試験である。場所は現・洛北校CINCS(制御通信部)の部室,最も奥の建物の2階である。

試験が終わった。と,その時,「皆さんに連絡があります。ただ今,学院長先生が所用を済ませて駆け付けて来られました。そこで,急きょ面接を行うことにします。名前を呼びますので順番に面接を受けてください」とのアナウンス。

順番が来て,入学説明会のあった建物の1階奥に入った時,「おぉ,来たか,来たか」と声を掛けてくださった。その後,何を話したのか記憶にないが,この時点で合格を確信した。事実,その通りになった。お言葉と同時に表情も印象的である。まさに長い間音信が途絶えていて再会した時の笑顔だと思う。今でもその表情が思い浮かぶ。

転科面接―(1979年2月)

2年課程の情報科学科から3年課程の情報工学科への転科を申請した。この時,専修学校からの大学編入の道は現実には存在していなかった。しかし,挫折感は全くなかった。それは,1回生で第二種情報処理技術者(現・基本情報技術者に相当),2回生で第一種情報処理技術者(現・応用情報技術者)試験に合格していたからである。むしろ,先生方から他の分野の勉強を勧められ,もう1年学生を続けたいと考えた。

転科面接で初代学院長と久しぶりにお話しさせて頂く機会を得た。「第一種合格,おめでとう。第一種は第二種と比べて難しかったか?」と不思議な質問から面接は始まった。当然,第一種の方が難しいからだ。不思議なことに「いいえ,実は第二種の方が難しかったです。第一種は結構簡単でした」。そう答えていた。「そうか,そうか。君は学歴社会に与しないだけでなく,国家試験制度も超越する実力を身につけたんだよ。それでいい。よし,頑張れ」。転科の目的を聞くでもなく,将来の目標を聞くでもなく,転科面接は終わった。あるのは,熱い思いであり,学生への信頼,そして自由である。何よりもお会いした後はさらにやる気が起こることも事実である。

卒業パーティー―(1980年3月)

それから数ヵ月後の3回生の六月,日商簿記3級・2級に同時合格。税理士を目指すことにした。今では当たり前のコンピュータ会計を得意分野として。3回生後期にはインターンシップ制度で税理士事務所に実質的に就職していた。

1980年3月の卒業式,この年は諸事情により浄土寺校(現・白河校)で行われた。卒業パーティーも入口北側校舎の2階の教室で行われた。

初代学院長は教室の奥に座っておられた。御礼とご挨拶に伺った。そして,「税理士になって必ず戻ってきますから」といって握手を求めた。「うん。うん」と頷きながら,力のこもった握手を頂いた。実に厚みのある大きな手であった。

当時の学生で初代学院長と会話をしたことのある人は数えるほどしかいない。この程度の会話しかしていないが,それだけでも十分級友は驚いていた。そう,初代学院長は特別の存在であった。

1986年,初代学院長がこの世を去られた。百万遍にある知恩寺の葬儀に参列させて頂いた。さらに特別の存在へと階段を上られたことを実感した。

1987年,これが転機となり税理士を断念し,システムコンサルタントとして独立した。そして母校で教鞭を執らせて頂いた。多い年には週16時限,1994年までシステム設計・演習・簿記会計を担当した。

1999年,経済企画庁(現・内閣府)第1期14団体認証の全国NPO法人 情報化ユートピアを設立。初代学院長のユートピアの話を意識したわけではなく,自然に,万人のための情報化社会を目指すために。でも,それは知らぬまに初代学院長の熱い思いを受け継いでいたのかもしれない。

2007年,高度医療センター退院後,人生をもう一度変えてみようと京都情報大学院大学に入学した。同時に,再び母校で教鞭を執らせて頂いている。たとえ学歴社会に与しなくとも,必要があれば学歴も得られる。さらに,2009年には,国立大学の博士課程への進学を予定している。「大学で研究の経験のある人,他の学校で教育の経験のある人,会社で企業実務の経験のある人,それぞれができる範囲の事で学校作りに協力して欲しいんだ。」これは恩師である作花一志先生がアキューム第9号「初代学院長の思い出」に記された初代学院長のお言葉である。

人生の転機には初代学院長,そして,学院を託された諸先生方にお会いして,できる範囲のことで学校作りに協力し,逆に協力も頂きながら,今ここに至っている。だから,京都駅前校新館に入れば初代学院長の銅像にいつもご挨拶をしている。「おぉ,来たか,来たか」と短い言葉を復唱して応えてくださっていることを感じて。ユートピアはいつも心の中に存在している。

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中村 州男
Kunio Nakamura
  • 1979年京都コンピュータ学院情報工学科卒
  • 87年独立後,公的機関を通じてお金をかけない企業情報化実践指導を開始
  • この間,通産省中小企業近代化審議会専門委員など歴任
  • 企業だけではなく地域情報化,国レベルでの情報化を考えるに至る
  • 健全な情報化社会の実践に向け,特定非営利活動法人 情報化ユートピア,非営利活動団体情報化ユニオンの99年5月設立を目指している情報化実践指導人

上記の肩書・経歴等はアキューム9号発刊当時のものです。