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Accumu Vol.21

初代学院長の思い出

前田 勉
京都コンピュータ学院

閑堂忌 記念講話 ~2012年7月3日~より
「私の人生を決めた大きな存在」時代を見抜く目 教育への並々ならぬ情熱
―閑堂忌に寄せて

初代学院長

今日は,閑堂忌に寄せて,私たちの学校,京都コンピュータ学院の創立者で初代学院長の長谷川繁雄先生について話してほしいということで,この場に立っています。先生がお亡くなりになったのは1986年の7月2日ですから,昨日でちょうど26年になりました。今ここにいる学生の皆さんは,ほとんどの方はまだ,お生まれになっていなかったのではないでしょうか。はるか昔,歴史という感じがするかもしれませんね。皆さんにとって長谷川繁雄先生というと,新館1階の銅像が一番身近な印象だと思います。むかって左側に立っている,恰幅のいい男性ですね。優しそうに微笑んでいらっしゃいます。でも,銅像ですから,どんな人なのかとか,そんなことはもちろん分かりませんよね。

今日はそんな初代学院長,長谷川繁雄先生のお話をします。ここに今こうして立っていても,皆さんがどんな気持ちで聞いてくださるのか,ひょっとしたら退屈な昔の話だと思われるのではないか,そんな不安も感じます。でも,今日は一生懸命お話をしようと思います。長谷川繁雄先生は私にとってはとても大きな存在でした。私の人生を決めた方でした。その存在の大きさを,皆さんにお伝えしたいと思うのと同時に,先生がどのような方だったのか。どのようなお気持ちでこの学校を作ったのか。こうしたことを皆さんにお伝えして,その精神がどのような形で今のKCGに受け継がれているのか。そのことを考えていただ くヒントにしてもらいたいからです。精一杯お話しますから,聞いていただけると嬉しいです。


私はもともとKCGの出身です。皆さんの先輩ということになりますね。1978年に入学して,1980年に卒業しました。もともと高校のころから教員志望でしたが,志望の教員養成系の大学には残念ながら合格できませんでした。浪人しようかとも思いましたが,担任の先生にこの学校を薦められたのです。それで今,KCGで教師をしていますから,結局は夢をかなえたことになりますね。

当時は今と違って,パソコンが普及しているわけではありません。当時学校にあったのも,いま京都駅前校本館1階のロビーなどに置かれている大型機です。これからコンピュータの普及が進んでいくという時代でした。たとえば,任天堂がファミコンやゲームウォッチを始めようとしている時期でした。皆さんはご存知かどうかわかりませんが,任天堂というと,当時はトランプや花札のカードの会社という印象が強かったのです。任天堂はちょうどそのころ,1980年代の初めごろに,私たちの学校の卒業生を多く採用して,ゲームメーカーに転換していきました。私の同級生の中にも,任天堂に入って初期のゲーム機開 発に参加した人が何人かいます。今,任天堂はゲームメーカーとして世界的に名前を知られていますが,その基礎を築いたのはこの学校の卒業生だったのです。学生の皆さんには誇りを持っていただきたいと思います。


初代学院長

KCGの授業は当時から非常に丁寧で,先生に質問すると,わかるまで教えてくれました。そういう様子を見ていまして,本当にいい学校に来たな,と思い,この学校をつくった長谷川繁雄先生への尊敬の気持ちも徐々に強くなってきました。学生のころは,学院長先生とじかに接する機会というのはあまりないのですが,それでもお見かけするたびに,「すごい方だな」という印象はありました。当時KCGは大きく成長していた時期で,発展に伴う変化も色々ありました。学院長先生は学生が大きな変化に戸惑っているのではないかと心配をしておられたようです。当時校舎を巡って学生に盛んにお話をされていました。

先生は夕方,授業が終わるころになると教室に入ってこられます。「みなさん,聞いてください」とおっしゃって,コンピュータ技術を身につけて社会で活躍できる人材,高卒であっても,大卒と互角に活躍できる,そんな技術者を育てるためにこの学校をつくったんだ,といったことを熱心にお話しされました。いろいろ質問をすると,快く答えていただきました。そうしたお話を聞くと,様々な不安がすっと消えて,大きな安心を感じたことを覚えています。


卒業を控えて職員として採用のお話があったときに,ぜひここで働きたい,と思いました。自慢するわけではありませんが,企業からの内定はいくつかいただいており,有名な企業からの内定もありました。でも私には全く迷いはありませんでした。当時この学校が拡大を続けていたこともありましたが,何と言っても学院長先生の下で働きたい。一緒にこの学校を大きくしていきたい。そんな気持ちが強かったんです。

1980年に卒業して,それからの数年は,私の人生の中でも一番よく働いた時期だと思います。仕事はいくらでもありました。昼は授業をし,夜は学生募集の仕事をしました。膨大な作業がありましたが,それを教員も職員も,夜にみんなでやっていました。学院長先生はそんな時も率先して作業に参加されました。本当に家族的な雰囲気がしました。仕事自体は厳しく,緊張感もありましたが,そこから学ぶことも非常に多かったのです。

たとえば,パンフレットやチラシを封筒に入れる作業です。先生はこのような一見単純な作業でも,方法を考え抜いていらっしゃいました。相手に読んでもらうためには,何をどの順番で入れたらいいのか。それを考えて,教職員に指示されました。そうした教えを受けて,仕事というのは本当に丁寧に,全身全霊でやらなければいけないんだということが私にもだんだんわかってきたのです。


学生募集の仕事というと,高校訪問とか進学説明会への参加,またオープンキャンパスなどがあります。オープンキャンパスの企画も任されていましたが,スケジュールや人員配置など,一生懸命考え,自分なりにアイディアを盛り込みました。学院長先生は仕事に厳しい方ですので,簡単にOKしてはいただけません。ですから,先生のことを大きな壁のように感じることもありました。しかし,努力を重ねた結果,先生が納得されますと,にっこりと笑われて「ご苦労さん,ご苦労さん」と二回おっしゃるのです。その笑顔を見て,声を聞くと,それまでの苦労が報われる気がしました。あの声が聴きたくて一生懸命働いていたのだと思います。

当時,夏休みなどになると,遠くの進学説明会などに出かけていました。数人で一つのチームを組んで,このチームは九州,別のチームは北陸などと決めて,電車で行ったり,車で行ったりしたものです。当然,一回出かけると何泊という旅になります。インパクトを与えようということで,当時まだ珍しかったデスクトップの大きなパソコンをキャリーに載せて持っていきました。今考えても大変でしたが,みんなで力を合わせて私たちの学校を大きくしていくんだ,というやりがいを感じていました。

こうした仕事の中心には,いつも学院長先生がいらっしゃいました。学校が一つの大きな家族で,その真ん中に長谷川繁雄先生がいらっしゃるというイメージでした。仕事には厳しかったのですが,気遣いもこまやかで優しい方でした。私の体調のことなどをいつも気遣っていただきました。そのお気持ちに応えたいと思い,さらに仕事に力が入りました。

先生はものすごいアイディアマンでした。たとえば,1983年には,世界で初めてパソコンを全学生に一台ずつ貸し出しています。当時パソコンはまだまだ珍しく,買えば数十万円もしました。当時の数十万円ですから,今の感覚ではその何倍にもなります。なかなか学生の買えるものではありませんでしたが,学院長先生はそれを一括購入して学生に貸し出すことをお考えになって,実行されました。これは本当に,世界でも初めてのすごいアイディアでした。当時大変な評判になったものです。


先生のこうしたお仕事ぶりのおおもとにあるのは,教育への情熱でした。先生のお考えを知るには,学院の「教育理念」を読むのが最もよいと思います。「コンピュータ技術の進歩発展に対応する教育」「コンピュータ技術における創造的能力の養成」「情報化社会における複眼視的思考力の養成」といった言葉があります。先生はいつも,「これからの社会を担う人材を育てる」ということをおっしゃっていました。ただ学校だからコンピュータの知識を教える,というのではなく,人類社会の発展に役立つ人材を送り出すという理想に基づいて学校をつくられたのです。その教育の機会をできるだけ多くの人に与えたい,そうしたお気持ちで,募集活動に力を入れられていました。


もともと先生が京都コンピュータ学院を創立されたのは1963年です。当時は京都大学の研究者などを対象に,プログラミングを教える私塾でした。それを,高校卒業者を主な対象にする全日制の学校に発展させたのも長谷川繁雄先生のお考えでした。学歴社会の中で,高校卒業者は不利な状況に置かれていました。しかし,型にはまった日本の大学教育は,本当に若者の可能性を引き出せているのか。先生はそのことに強い疑問を感じておられました。事情があって大学に行かない人,また自覚的に大学へ進まない人。先生はこうした若者に大きな期待をかけ,コンピュータの専門教育を与えることで,大学に進学した人と肩を並べて,いやそれ以上に活躍できるようにしたい。このようなお考えで京都コンピュータ学院を創立されたのです。

開学当初の学生はわずか40人でしたが,当時コンピュータを教える学校は珍しく,やがて日本中から強い意欲を持った若者が集まりました。それに応えて設備を整え,一流の専門教育をしたい。こうした考えから,当時数億円もした大型コンピュータを企業からレンタルするなどして,学生が使えるようにしました。この本館の1階などに大きな古いコンピュータがいくつも並んでいますが,あれはそのようにして実際にこの学校で使われていたものです。あんな立派な大型コンピュータは,当時大学などの研究機関や大企業にしかありませんでした。専門学校であのような最先端の機械に触れて勉強ができるところは,日本中探しても京都コンピュータ学院しかありませんでした。長谷川繁雄先生と現学院長の靖子先生のお二人の情熱が,このようなことを可能にしたのです。こうした常に最先端の教育が評判を呼んで,どんどん学生は増え,学校は発展していきました。

いま改めて身の周りを見つめてみてください。パソコンはもちろん,タブレットや携帯電話など,コンピュータがあふれています。人との交流や情報を知るのも,FacebookやmixiといったSNSやツイッター,ブログといったネットが多いですよね。さらに,テレビをはじめとした電気製品や自動車にもコンピュータが組込まれています。コンピュータやITはまさに生活の中心にあります。

しかし50年前は,携帯電話やiPadはもちろん,パソコンもありませんでした。もちろんインターネットもありません。そんな時代に,長谷川先生は,コンピュータが時代を変える力だと見抜いておられた。本当にすごいことだと思いませんか。そして,見抜いていただけではなくて,京都コンピュータ学院を設立することで,その時代の先頭に立たれたのです。

こうした先見の明と,パイオニア精神。その結果として,京都コンピュータ学院は発展し,長谷川繁雄先生の夢は着々と実現に向かいつつあったのです。


学院長先生が体調を崩されたのは1986年に入ってからのことです。先生は1963年の創立以来,私たちの学校の先頭に立って走ってこられました。そのご苦労はどれほどのものだったか。中には先生のお気持ちを理解できない人たちもいました。そうした人たちに対しても先生は言葉を尽くして説得をされていましたが,そうした心労も積み重なっていたのかもしれません。

お亡くなりになった日のことは今でもはっきりと覚えています。その時ちょうど,学校で会議をしていました。夜でした。突然,電話で先生がお亡くなりになったという知らせが入ってきました。その時,私はただただ,信じられない気持ちで,自然と涙があふれてきました。

先生は56歳でした。これからというお年です。学院の将来にもまだまだ色々なアイディアや夢をお持ちだったと思います。どれだけ無念なお気持ちだったでしょうか。26年たった今でも,私は残念でなりません。まだまだ,私たちを導いていただきたかった。本当に悔しく,やりきれない気持ちでした。

それから,残された私たち教職員は,先生の恩にお応えしたい気持ちで,今まで頑張ってきました。長谷川繁雄先生の奥さまでいらっしゃる現学院長の靖子先生,ご長男でいらっしゃる統括理事長の亘先生も,遺志を引き継いで先頭に立たれました。

それから26年,KCGは大きく発展しました。先生の御恩に報いることが少しはできたのでしょうか。それでもまだ,このKCGの現在の姿を先生に見ていただきたかったという気持ちが残るのです。これからもずっと,その気持ちは消えないと思います。


私が今日ここに立って,皆さんにお話ししたのも,長谷川繁雄先生がどのようなお考えでKCGをつくったのか,そのことを知っていただきたかったからです。コンピュータが流行だからとか,学生を集めてお金儲けをしようとか,そういういい加減な気持ちでつくったのではありません。コンピュータなどまだ一般の家庭には全くなかった,そんな時代に,長谷川繁雄先生という素晴らしい方が,人類史を大きく変え,進歩させるコンピュータの力に気づき,将来を見通して,つくられた学校だということ。その専門知識を学生を身につけさせることで,大学を卒業した人たちと同等に,またそれ以上に活躍してもらいたい,そんな願いが込められた学校だということ。こうしたことを知っていただきたかったのです。

それが分かれば,自分たちが今いるKCGにも誇りが生まれます。授業を受ける時の心構えも変わってくるはずです。学生である皆さんは,KCGのこの伝統,長谷川繁雄先生の思いを引き継ぐ人たちです。皆さんもまた,KCGの学生であるという,そのことを通じて,人類の歴史を変えつつあるコンピュータの進歩の先頭に立っているのです。そう思えば,なんだかわくわくしてきませんか。


KCGはまだまだ,発展の途中にある学校です。これからは皆さんが,その先頭に立ってほしいのです。KCGのことをもっともっとたくさんの人に知ってもらいたいと思います。オープンキャンパスや11月祭などの行事に高校時代のお友達を連れてきたりするなどして,ぜひKCGのことを広めてほしいと思います。

7月中は毎年恒例の「KCGサマーフェスタ」があります。毎週末,様々なワークショップや催し物を行って,一般の方にもKCGをもっと知っていただくためにご案内を差し上げています。今週は金曜日に天文ワークショップ,土曜日には鉄道ワークショップがあります。興味がある方はぜひ積極的に参加してほしいですし,お知り合いにもぜひ進めてほしいです。どんな催し物があるか。自分が参加したり,友達を連れてきたりできそうな催し物がないかどうか。ぜひウェブやポスター,チラシなどで確認してみてください

今私たちの学校では,これからの時代に向けた動きがいろいろ出ています。京都情報大学院大学(KCGI)は,インターネットの地理的名称トップレベルドメイン・ドット京都の運営者になろうということで申請をしました。ドメインというのは,アドレスの最後にある.jpとか.comのようなものですね。都道府県などの地域の名称をドメインにすることができるようになったので,ドット京都のドメインの運営にKCGIが手を挙げたというわけです。

近いうちに申請が認められ,ドット京都の運営が始まります。どのようなドメインにしていくか,色々とアイディアを検討しています。皆さんもぜひ積極的に参加していただきたいと思います。

それから,2012年4月にはKCGIの札幌サテライトができました。10月には東京にもサテライトがオープンします。eラーニングを活用して,北海道や東京の学生が京都の学生と同じ授業を受講します。私たちの学校は,これまでの京都の枠を越えて,全国へと広がっていきます。更には国境すら越えていくかもしれません。

こうした新しい動きに,学生の皆さんはぜひ積極的に参加してほしいと思います。長谷川先生がおっしゃったように,コンピュータは人類史を変革していく道具です。ですから,コンピュータの学校はどんどん新しく変わっていく人類史の最先端にいることになりますね。その主役は言うまでもなく,学生の皆さんです。ぜひ私たちの学校の新しい動きの先頭に立って,学校の未来と,皆さん自身の将来を切り開いて行っていただきたいと思います。


長谷川繁雄先生は,いつでも学生のことを何よりも大事に思っておられました。若い人の力,成長に未来への鍵があると思っておられたのです。きょうの私の話を聞いて,一人でも多くの方が,先生のお気持ちを受け止めて,よし,これから頑張ろう,という気持ちを持っていただけたのなら,お話しした甲斐があったと思います。

ご清聴ありがとうございました。

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前田 勉
Tsutomu Maeda
  • 京都コンピュータ学院京都駅校教頭
  • 京都コンピュータ学院卒 情報処理技術者
  • 京都情報大学院大学 情報技術修士

上記の肩書・経歴等はアキューム21号発刊当時のものです。