トップ » Vol.20 » さよなら山本武先生

Accumu Vol.20

さよなら山本武先生

◆訃報


京都コンピュータ学院教職員の山本武さんが6月30日夜,病気のためお亡くなりになった。52歳だった。故人のご冥福を心よりお祈りします。

山本さんは1980年にKCG・情報工学科を卒業,同年,本学に教職員として入校された。主に情報工学科の授業を担当され,汎用コンピュータに詳しいことから, KCG資料館設立に携わるなど,30年の永きにわたり,本学の発展に尽力されてきた。また,2008年3月には,京都情報大学院大学を修了。情報技術修士の称号をお持ちだった。

山本君を偲ぶ

ポーランド日本情報工科大学 日本文化学部 東保 光彦(元:京都コンピュータ学院高野校 副校長)

山本君の記憶をどこまで遡れるだろう。ぼくが京都コンピュータ学院に教員として採用されたのは1978年4月。彼はすでに情報工学科の学生であった。ぼくは鴨川校勤務を皮切りに半年後には白河校(当時は浄土寺校)に転勤し,そこで10年ほど過ごした。その間に山本君と一緒に働いた。彼が腎臓病に悩んでいることを知ったのはそのころであったと思う。

次の高野校での山本君の記憶はずっと鮮明である。山村君,福田君,松本君,小渕君といった,それぞれひと癖もふた癖もある学院のエースたちを束ねていたからである。情報工学科の実習用に独自のPCを設計する彼らのプロジェクトは,学院の歴史の中でも異彩を放っている。このPCにMSDOSをインプリメントするため,マイクロソフトが提示した難解な契約書を翻訳したことも忘れがたい。

山本君にもらった工具セットはポーランドに持参し,ずっと愛用している。

山本君の思い出

三菱スペース・ソフトウェア株式会社 関西事業部 業務部 阪本 修治(元:京都コンピュータ学院教職員)

7月1日携帯メールが来たとき,目を疑いました。思わず「え?」と言ってしまい,アシスタントの女性から「何かあったのですか?」と声をかけられてしまいました。とても残念で,悔しい気持ちになりましたね。これからもずっと変わらないと思います。

毎年暮れに仲間で一緒に飲むのですが,何年か欠席の年があり,病気と聞いて心配していましたが,一昨年は久しぶりに出席し,「もう大丈夫」と言っていたので安心していました。突然の訃報に本当にガックリでした。

山本君とは30年以上のつきあいで,数年間同じ職場で仕事をした仲間でした。私は学院から民間企業へと移りましたが,彼はずっと教育現場に身を置き,多くの若者を世に送り出して来ました。面倒見がよく,すごく勉強する彼に最も合っていた職業だったのでしょうね。

ICTの世界は,30年前と現在では別次元です。HWシステム,SW システム,利用形態,開発環境どれをとっても全く別世界です。

大型汎用機全盛の当時,彼とよく「大型機はいらなくなる時代が来る」と話をしていました。小型機が大型機に取って代わり,マイクロプロセッサが出現。彼はいち早く取り入れたと記憶しています。

ICTの世界はめざましい発展がありますが,特に通信(C)の世界は想像以上ですね。その中で専門学校は,世の中が要求する人材を供給する教育機関だと考えていますが,要求を満足させる人材を育てる世界に身を置き,指導する者は,時代の進化とともに自身を進化させるため,広範囲な勉強が必要ですよね。

彼は本当によく勉強したと思います。学院にとっても本当に大きな痛手ですね。彼のような指導者がもっともっと出てくることを願っています。

山本武さんの思い出

カリーナシステム株式会社 松原 智之(元:京都コンピュータ学院 教職員)

山本武さんとは情報工学科Gクラスの学生時代より学院職員時代を経て 約30年間来の友人でした。特に職員時代では一緒に論理設計を担当し,一緒に初期のパソコン組み立てたり,西野寮の寮監を担当したりと,公私においても良き仲間・相棒でした。

その後,私はソフトウェア業界の世界に入り,学院を後にしましたが,山本さんは学生への面倒見も良く,寮監時代では門限を破った学生に対して罰則としての雑草抜きを,学生とともに朝早くより一緒に作業をしていたことが今でも思い出されます。毎年 会合でお会いできるのを楽しみにしていた矢先,このような形で別れることとなり 非常に残念でなりません。

山本武さんの御冥福をお祈りします。

山本先生の思い出

カリーナシステム株式会社 麦踏 敏継(元:京都コンピュータ学院 京都日本語研修センター 教職員)

いつもパンチカードの修理をしている姿を思いだします。

私と山本先生との出会いは,職員として京都コンピュータ学院様にお世話になったときからですが,山本先生=パンチカードでした。

私も修理で大変お世話になりました。もちろんパンチカード修理以外の授業,行事でも大変お世話になりました。

ご冥福をお祈りします。

山本先生の思い出

財団法人 海外技術者研修協会 関西研修センター非常勤講師 吉村(旧姓宮本) 真美(元:京都コンピュータ学院 京都日本語研修センター 教職員)

山本先生には約十年前の日本語研修センター設立の折,大変お世話になりました。

コンピュータ関係のことはもとより,様々な面で日本語講師をサポートして下さいました。また遠距離通勤の私を心配して,早く帰れるようにとお気遣い頂いたことも度々ありました。

開校初年度ということで未確定要素も多く,肉体的にも精神的にもハードな業務でしたが,あの時山本先生がいて下さったから頑張れたのだと今も感謝しております。

山武さん,さようなら

京都情報大学院大学 教授 作花 一志

山武さん
そこから青い地球が見えますか?
そこから天の川の流れが見えますか?
そこから回転・爆発している銀河が見えますか?
山武さんの怒っている姿を見たことがなく,怒鳴っている声を聞いたことがない。
いつも冷静沈着だった。
同僚にとっては几帳面なパートナーで,また後輩からは兄貴分と慕われていた。
山武さんに初めて会ったのは三十数年前の鴨川校いや出町校舎。勤勉な情報工学科学生と慣れない新米教師だった。

山武さん
長い闘病生活,お疲れさまでした。
今は遥かなる宇宙の旅を楽しんでくださいね。

「ありがとう! またね。」

京都コンピュータ学院 教職員 前田 勉

「また,飲み会したいね。」

これが,山本武先生が危篤になられた2日前に交わした最後の言葉である。そして,その2週間後に天国へ旅立たれました…。

武先生とは1980年に京都コンピュータ学院の教職員として入校した同期であり,それ以来32年間一緒に働き,またプライベートでもご家族共々親しくさせていただいた大親友であります。

20代後半に腎臓を悪くされ,それ以来20年以上毎週3回人工透析をされながら,仕事を続けられて来ました。

非常に責任感が強く,面倒見のいい武先生は,自身がしんどい時も絶対口には出さず,逆に私に「無理したらあかんで」と声掛けてくれました。

先天性の心機能障害を持つ私にとりましては,同じく病気と闘いながら働いている武先生の頑張りが,何よりのお手本であり,またいつも元気をいただいていました。

同期や同僚とも,よく飲み会をしました。最後にもう一度一緒に飲みたかったですが,残念ながら実現できませんでした。

でも,武先生のことですから天国の居酒屋を予約してくれていることでしょう。

そちらに行くのはまだ少し先になりますが,その時は一緒に飲みましょう。

それまで,待っててくださいね。

武先生,ありがとう! またね。

いつまでも良き同僚

京都コンピュータ学院 教職員 信末 昌弘

私は山本武さんとは同期入校で,これまで苦楽を共に歩んできました。武=たけ=ちゃん(山本さんのニックネーム)は何事に対しても自分の信念を貫く男気のある性格で,面倒見も良かったので,同期の中でもリーダー的な存在でした。

また些細なことに拘らず懐が深いところは私の憧れでもありました。2年ほど前から持病に加え,腰痛がひどくなったようで時折苦しそうな姿を拝見しましたが,きっとその頃から病魔と必死に闘っていたのだと思います。さぞ辛かったことでしょう。

武ちゃんは私が何かに困ったり悩んでいると,いつも親身になって一緒に考えてくれ,私に勇気と自信を与えてくれていました。それがもうできなくなり本当に残念です。

お互いに結婚して家庭を持ってからは所帯じみた会話が多くなりましたが,溺愛していた息子さんの話になるといつも目を細めて嬉しそうに語られていたのを今でもよく覚えています。武ちゃんの一番の心残りは,溺愛していたひとり息子の拓ちゃんの成長を見守れなくなったことでしょう。

しかし,先日,久しぶりに会った拓ちゃんはびっくりするほど逞しくなっていました。きっと武ちゃんのDNAをしっかり受け継いでいるのでしょう。武ちゃん聞こえますか?拓ちゃんは立派に大きく成長していますよ。どうかご安心ください。

いつまでも良き友,山本武さんへ

「心残り」

京都コンピュータ学院 教職員 岸本 詳司

山本君とは,30年以上の付き合いになる。

この間,いろいろな業務でともに働いてきたが,最近は,KCG資料館の管理・運営について一緒に担当していた。

彼はハードウェアの知識が豊富で,入校当時より汎用機の管理・運営や,情報工学科系の教育に携わっていた。その経験と知識は,旧型汎用機の分野では本学で随一の人材となっていた。

KCG資料館は,本学における情報教育の歴史を証明する実資料として,京都駅前校内に整備を進めている。彼は,そのキャリアを活かして展示機器の管理を担当していた。

数年前より,身体の調子が思わしくない様子であったが,常に責任感を持って仕事に取り組んでいた。この姿は,多くの若い教職員のお手本になったことと思う。

現在,KCG資料館は,4機種の「情報処理技術遺産」を保有しているが,彼はいずれの認定式にも出席することはなかった。体調不良が理由であったが,一度はその式に同席してほしかった。残念である。

山武先生の思い出

京都コンピュータ学院 教職員 末広 ゆかり

KCGでは,同じ名字の教職員が複数名在籍している場合,姓名の1文字ずつをくっつけて呼ぶことが多く,「山本武」先生は「山武(やまたけ)」先生と呼ばれていました。

洛北校で工学系の授業を担当されている頃は,男気があり面倒見の良い性格から,教職員や学生から「組長」と呼ばれ慕われていました。急逝されて,お通夜・告別式まで日があまりなかったにも拘わらず,ネット上で訃報が飛び交い,多数の卒業生が全国から参列しました。その数から山武先生の人望がうかがえて,改めてKCGは惜しい方を失くしたのだと実感しました。

また,山武先生は工学系のキャリアから,KCGのコンピュータ博物館の管理も任されていました。2009年に博物館に展示しているOKITAC 4300C等が情報処理学会から情報処理技術遺産に認定された時,京都新聞社が取材に来られました。山武先生と広報部の私とで説明をし,翌日の新聞に記事が掲載されました。その時の写真が山武先生と一緒に写ったものの最後になるとは,夢にも思いませんでした。

晩年は持病に加え,腰痛もひどく,ずいぶん苦しんでおられました。その苦しみから解放されて,今は天国で自由に飛び回っておられるでしょう。どんなに辛いことがあっても,「止まない雨はない」と言って黙々とがんばっておられた姿を思い出します。

山武先生,どうぞ安らかにお眠りください。