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Accumu Vol.24

アメリカ映画と古い仏像

京都情報大学院大学准教授 長谷川 功一

谷崎潤一郎『卍』『蓼食う虫』における異国としての関西

はじめに

私は2015年の春北海道から京都に転居してきたが京都は私にとって一種の外国の都市のように感じられるその主な理由は二つあり一つが京都言葉と北海道訛りを含んだ標準語という言葉の違いもう一つが街の景観の違いである

両者のうち私に日常的に異国の感じを与えるのは景観の方である言葉に関しては京都に住んでいても京都言葉をさほど頻繁に耳にするわけではない私が京都の人と話す場合も標準語で話すので自然と標準語での会話になるそれに対して街の景観は自宅を一歩出れば黙っていても目に入ってきて自分が北海道とは異なる文化圏に居ることを知らせてくれる

実際京都の街並みは私が生まれ育った札幌のものとはまったく異なる札幌では屯田兵が入植した明治期から急速に発展してきた歴史的経緯および冬期間の防寒と防雪の必要性から外観が機能的な印象の家屋が整然と並んでいる

他方王朝が置かれた以後でもすでに1200年以上の歴史を有する京都では都市の現代的機能の面では札幌と共通する部分が少なくないとしてもその歴史の厚みのようなものが街の景観のあちこちに表出している市内いたるところにある神社仏閣瓦屋根や格子造りの伝統的な家屋窓を覆う簾や軒下の犬矢来玄関を飾るちまきや信楽焼きの狸などいずれも北海道では見られない光景であり京都が私の目に外国のように映じる大きな要因になっている

京都の街角のお地蔵さん
京都の街角のお地蔵さん

そのような街中の異国的な光景の一つに100メートルも歩けば一つや二つは必ず出会う街角のお地蔵さんがある「卍」の文字が謎の記号のように刻まれた祠の中に小さなお地蔵さんが何体か並んでいて時には顔が白く塗られている聞けば各町を貫いていた通りの入り口に魔除けとして置かれたものであるという地蔵そのものは珍しくないとしてもそれが市内全域にあることで京都では生活空間さえもがある種の宗教性を帯びているように感じられさらに言えばその祠を丁寧に掃除し花を供えお線香を焚き手を合わせる人々の姿を目にするとき私のあずかり知ることのない歴史と伝統がこの都市に流れていることを実感するのである

祠に刻まれた「卍」の文字
祠に刻まれた「卍」の文字

ところでこの祠の台座に印された「卍」の文字であるがこの形象は私に街の異国的な趣きとは別の連想も与えてくれる関西を舞台にした谷崎潤一郎の小説『卍』であるこれは短絡的な連想に見えるかもしれないが私にとっては同じ字面以上の結びつきがある一介の市井人の転居体験と文豪の創作活動の並置が許されるのであれば私が祠の「卍」を見て異国情緒を感じるのも東京生まれの谷崎が『卍』を執筆できたのもどちらも関西文化をその外側から一種の異国として見る視点が関わっているからである

1 谷崎潤一郎の『卍』

日本文学史では常識であるけれども東京人の谷崎は関西に移住することで作家的に飛躍している1886年(明治19年)に東京で生まれた谷崎は1910年(明治43年)二十四歳の時に発表した『刺青』で注目を浴びて新進作家としての地位を確立するが1923(大正12)年9月の関東大震災を機に関西へ移住する一時的に京都に住んだ後阪神間に移りその後も何度か転居を繰り返しながら1956年(昭和31年)まで自宅を関西の地に構えることになる

この関西文化との出会いが転機となってその風土に根ざした作品が生まれる『卍』『蓼食う虫』『春琴抄』などの傑作を世に送り出し1935年(昭和10年)には大阪婦人である根津松子を三番目の妻に迎え自分が望むようなインスピレーションを彼女から得ることで彼女の姉妹をモデルにした『細雪』や王朝時代を舞台とする数々の小説の創作へとつながっていく

このように関西への移住が旺盛な執筆欲につながった谷崎であるがその地で生活しその地の人間や風土を描くとしても東京育ちの谷崎から関西を一種の異国とみなす視点が離れることはなかったであろう

谷崎は移住の約2年前映画撮影のために上方を訪れた時のことを振り返って「外人の遊覧客と同じような気分をもって奈良や京都に遊ぶことが出来た」「旧き日本をエキゾティズムとして愛する」と述懐している(『東京をおもう』)

ある国の文化が自国民よりも時に外国人によってその特質がより明確に認識されることがあるように谷崎も関西を外部の視点から見ることでそこの風土や生活を小説の題材としてより鮮明な輪郭において把握できたのではないだろうか以下ではそのような関西を異国として外側から見る視点が彼の創作に関わっていることを関西の地で最初に結実した二つの長編小説である『卍』と『蓼食う虫』において確認してみたい

2 大阪ことばと『卍』

『卍』は大阪言葉で書かれた最初の谷崎の小説で1931年(昭和6年)に単行本化された彼の作家的軌跡においては「彼の芸術の関西の土壌への移植の試みであり同時にその記念碑」(中村光夫)であると一般的に位置づけられている

『卍』の主題はレズビアニズムである谷崎と思しき作家にある既婚の女性が自分の同性愛体験を告白するという設定で彼女の口から同性愛の相手である妖婦の「徳光光子」がその魔性の手練手管を使って告白者のみならず彼女の夫も巻き込むことで複雑怪奇な愛憎関係を作りあげそれが無理心中事件に発展していく様子が語られる

谷崎の小説には周知のようにマゾヒズムやフェティシズムの主題が『刺青』から晩年の傑作『瘋癲老人日記』まで一貫して流れているそれは中村光夫の言葉を借りれば「女性の美に対する熱っぽい賛歌をその魔性の虜になって拝跪する男性によって具象化」することであるこの「拝跪する男性」とはすなわち谷崎の分身に他ならないのであるが『卍』ではこの「拝跪する男性」の位置に珍しくも女性を置いたことでレズビアニズムの形をとっているものの崇拝する女性が魔性の女である点では変わらない

この谷崎独特の妖婦の描写に着目するとき関西に移った谷崎が大阪言葉を表現手段として手に入れることで妖婦の描き方において新局面を切り開いたことがわかる大阪出身の河野多恵子も指摘するように『卍』の光子は従来の谷崎的な妖婦とは様相を異にしているそれ以前は妖婦は芸者などの玄人や下層階級の女性に設定されていることが多くまたその女性像は『痴人の愛』で年上の夫「譲治」をいたぶる「ナオミ」に代表されるように西洋人女性のイメージとも頻繁に重ね合わせられていた(『痴人の愛』ではナオミは8人の西洋人女優に擬せられている)

だが『卍』では光子の設定は上流階級の女性となっている彼女は知的な大阪人女性で「楊柳観音」に例えられていることからもわかるように伝統的美人として造形されその心理描写も微妙で陰影をともなったものに変化している相手を「拝跪」させるやり方もナオミが譲治の背中に馬乗りになるのに対して光子は手の込んだ心理的な駆け引きを通して告白者の女性とその夫を操作するのである

このような妖婦の描写を可能にした要因の一つが大阪言葉の導入である伊藤整は標準語と比較して大阪言葉は「柔軟さと微妙な陰影の把握力とがあって特に女性の心理描写に適切である」と指摘し『卍』を谷崎が「標準語的表現によるリアリズムから脱し関西語を通して古典的な表現の領域へ入ろうとする試みの一つと見ることもできる」と評している伊藤の大阪言葉に関する指摘が少なくとも谷崎にとって的を射ていたことは谷崎の『私の見た大阪及び大阪人』を読めば納得できよう

3 『卍』における東京人谷崎の視点

このように関西の風土に根差した妖婦の造形に成功した谷崎であるがその創作過程を見ると根本のところでは東京人の視点が働いていたことが確認できる『卍』は雑誌『改造』に1928年(昭和3年)3月から1930年(昭和5年)4月にかけて断続的に計22回掲載されたのであるが河野多恵子はこの連載を順に読んで興味深い事実を発見している文章が標準語から大阪言葉へと徐々に移行しているのである

それは以下のように変化している連載の12回目は標準語で書かれているが3回目で大阪言葉が後半から所々に混じり始め4回目では会話部分が大阪言葉であるものの地の文はほとんどがまだ標準語であるこの傾向がその後も続いて9回目になってようやく会話だけでなく地の文も一貫した大阪言葉になっているという標準語からの下訳をしたのは谷崎が雇っていた若い女性の秘書たちである

われわれが現在文庫本などで読む『卍』は標準語大阪言葉混じりの雑誌連載文をあらためて大阪言葉に書き直したものなのである河野の指摘はその大阪言葉がつむぎ出す世界が少なくとも前半は標準語の思考の上に成立していることそして後半もおそらく同様に創作されたであろうことを教えてくれるすなわち『卍』の世界には東京人としての谷崎の視点が内包されているのである

この東京人の視点の働きを増村保造はより一般的な東西文化論の枠組みで評している増村は『卍』(1964年)『刺青(いれずみ)』(1966年)『痴人の愛』(1967年)と谷崎原作の映画を三本撮りまた女性の本質を妖婦と見る点で谷崎に近い女性観を持っている映画監督であるその増村はまず東京人の美的感覚が江戸の町人文化によって育まれたものでありそれはどこか歪んで暗く現実的ではないが洗練されていて夢のような美しさを持っていると指摘し他方「進歩的な商業地帯」であった関西の人間は「現実的で合理的打算的でねばり強い」と評するその上で「京阪の風土と人間を芸術的につかまえ一つの美として表現する」には「あまりにも現実につきすぎる関西の人よりも美意識の洗練に馴れた東京人の方が向いているのではあるまいか」との見方を示しこの点に関西移住後の谷崎の作家的飛躍の鍵を見ている

このように谷崎は東京人の視点に依拠して大阪言葉による物語を書いたのであるがその視点は関西の地に来ることで新たに意識化されたものであろう中条省平も異なる文脈で指摘しているように谷崎は関西に住むことで自分のルーツである東京江戸の文化もまた強く意識するようになったのでありそのようにして関西を外側から見つめる視点を形成したはずだこの意味ではその視点も関西文化との接触から生まれた収穫の一つとみなせるのである

4 谷崎と西洋映画

関西文化の相対的な把握を可能にするもう一つの外部の視点として西洋特にアメリカ文化に依拠したものを挙げることができる(ここでは取りあげないが谷崎が二度旅行した「支那」についても類似の議論が可能である)

東京時代の谷崎は西洋崇拝者であり「妻子の束縛がなかったならば多分私は西洋へ飛んで行って西洋人の生活に同化し彼らを題材に小説を書いて一年でも多く向こうに留まっていたであろう」(『東京をおもう』)と回想するほど心酔していた実際には洋行を実現できなかった谷崎ではあるがその代償としてスクリーンや映画雑誌を通して西洋文明に接し特に西洋の女優に対する賛辞を惜しむことはなかった当時の谷崎にとって理想の女性とは「外国のスタアの肉体と服装とを備えたような婦人」(『東京をおもう』)だったのである

この映画熱はやがて谷崎をして映画製作に乗り出させる1920年(大正9年)横浜に創設された大正活映株式会社の脚本部顧問の地位に就きアメリカ帰りのトーマス栗原喜三郎を監督にしてサイレント喜劇風の『アマチュア倶楽部』を制作しその後も三本の映画の脚本を書いている映画人としての谷崎の念頭にあったのもアメリカを中心とした西洋の映画であり「西洋のフィルムでさえあればどんな短いどんな下らない写真でも現在の日本の芝居に比べればずっと面白いと云いたいくらいである」(『活動写真の現在と将来』)と述べるほどの熱の入れようだったこの映画制作体験を基にして小説『肉塊』を後に発表するがその主人公は金髪碧眼の女性に跪きその足に接吻することを夢見る人物である

このような映画体験を通して形成された西洋崇拝は反転して谷崎には醜悪としか思えない流儀で近代化に狂奔する東京を批判する視座となる「私は西洋映画に現れる完備した都市の有様を見るとますます東京が嫌いになり東洋の辺陬に生を受けた自分の不幸を悲しみもした」(『東京をおもう』)とその目は辛辣であるこれと同種の東京批判は小説『独探』でもあからさまに表明されている

だがこの視点が移住後は関西文化を外部から把握するものとして働くのであるこの点は『卍』と並行して執筆された『蓼食う虫』において確認できる『卍』では創作過程を検討したが『蓼食う虫』ではその文章表現のレトリックに焦点を当ててみる

5 アメリカ映画と古い仏像

『蓼食う虫』は1928年(昭和3年)に新聞連載小説として始まり翌年に単行本化された東京出身で阪神間在住の「女性崇拝者」である「斯波要」という男が主人公で彼が結婚当初から冷えた関係にあった妻の愛人通いを黙認しながら離婚についてあれこれと考えをめぐらせる話である当然この主人公にも当時の谷崎の境遇が投影されていて彼自身が抱えていた最初の妻との不和とその妻を親友の佐藤春夫に譲る譲らないのゴタゴタの経緯が色濃く反映されている

この離婚目前の要の前には二人の対照的な女性が存在している以前からなじみの神戸のロシア人女性の娼婦「ルイズ」と義父の妾である「上品な京生れの女」の「お久」であるつまり派手な西洋の女性と伝統的な関西の女性である「西欧と日本との間を振子のようにゆれうごく主人公」と三島由紀夫が評するように要の理想の女性像はこの二人の間をゆれ動くのであるが徐々に後者の方に傾いていくすなわち彼の内面において西洋女性への崇拝からの離反と伝統的な女性像への回帰という二つの運動が起こっているのである伊藤整がこの小説を「古典的なイメージの中に理想的な女性を描き出す傾向の第一歩である」と評するゆえんである

興味深いのはこの二人の女性像の対比がアメリカ映画=明るさ仏像=薄闇というイメージの組み合わせも援用して説明されている点であるこの部分の描写は要が義父に誘われて義父お久とともに見に行った近松門左衛門の人形浄瑠璃『心中天の網島』の観劇中に出てくる

要は劇の意匠に喚起される形でアメリカ映画の女優たちと作中来世で夫婦になれると信じて妻子持ちの町人と不義の愛で心中する19歳の女郎「小春」の人形との比較を考え始めるするとかつては「女性に媚びることばかりを考えているアメリカの絵の世界」を愛していた彼が意外にも人形の小春に「昔の人の理想とする美人」を見出している自分を発見して驚きその心象を次のように描写する

暖簾を垂らした瓦燈口に紅殻塗りの上り框―世話格子で下手を仕切ったお定まりの舞台装置を見ると暗くじめじめした下町の臭いに厭気を催したものであったがそのじめじめした暗さの中に何かお寺の内陣に似た奥深さがあり厨子に入れられた古い仏像の円光のようにくすんだ底光りを放つものがあるしかしアメリカの映画のような晴れ晴れしい明るさとは違ってうっかりしていれば見過ごしてしまうほど何百年もの伝統の埃の中に埋まって侘しくふるえている光だけれども

明示されてはいないもののここで提出されているのは比喩的な意味においてアメリカ映画という光によって暗闇に浮かび上がる「古い仏像」というイメージであるように思われるアメリカ映画が「晴れ晴れしい明るさ」を持つのに対して仏像は「じめじめした暗さ」の中に置かれているこの関係性の中から「古い仏像の円光」のような「くすんだ底光りを放つもの」が浮かんできているその光源は仏像自身にはない以上それはアメリカ映画とみなせるのではないか換言するならばアメリカ映画という光が厨子の奥にある仏像に間接的な照明を当てるというレトリックに西洋体験を経た視点による伝統的な美の発見ということが示唆されているように思われるのだ

このようにアメリカ映画と仏像という対比に仮託して語られる明るさと薄闇という関係はそのまま西洋女性のルイズと関西婦人のお久との比較へと延長される

要は「ホリーウッドのスタア」と結び付けられるルイズの「白皙の肉体」に惑溺しがらもお久を人形の小春と重ね合わせつつ「日本人の伝統の中にある「永遠女性」のおもかげ」をそこに見出していくやがて彼の想像力は時代をさかのぼってお久を日本家屋の奥まった薄闇の中で長い間生きてきた伝統的女性の代表にさえ変えてしまうのであるなおこのお久は谷崎が昭和初期に関係を持っていた祇園の芸妓がモデルであると指摘されている

このように谷崎のレトリックでは西洋文明やアメリカ映画は日本の伝統や女性美を際立たせる外部の視点として働いているその薄闇の美学を論理的に展開させた『陰翳礼賛』でもやはりアメリカと映画は薄闇の美しさを解き明かすための比較項となっているさらに言えば微妙な反射光が屋内に生み出す薄い闇そのものが彼にとって一種の映画だったようにも思える映画も結局は映写機からスクリーンに投影される光の反射に他ならないからである『蓼食う虫』はそのような谷崎の美的感覚の形成に映画体験が深く関わっていることを示唆した小説なのである

以上関西を一種の異国として外部から見る谷崎の視点が『卍』と『蓼食う虫』の両小説の創作に深く関わっていることを検討してきた『卍』ではその大阪言葉の世界が東京人の視点(=標準語)に依拠して構想されておりまた『蓼食う虫』ではアメリカ映画が比喩的な照明として関西の伝統に光を投げかけていたことが確認できた東京時代の谷崎は西洋文明の立場に立つことで明治の東京を批判的に見ていたが関西移住後は関西文化を美的に把握する視座として東京と西洋に依拠する二つの視点を自在に使っていたように思われる

おわりに

この小論の着想は初めて『蓼食う虫』を読んだ時に得られた映画研究を専門としているので先の引用文においてアメリカ映画を仏像と比喩的に対置させるその特異な視点に興味を持ったのである谷崎が映画制作に乗り出した珍しい文学者であることは知っていたが実際に彼の小説を読んでみると映画に関する記述はその作家的キャリアを通して途切れることがないのである

すなわち映画や映画スターへの言及が『痴人の愛』を筆頭に初期の『秘密』から晩年の『鍵』や『瘋癲老人日記』まで続いているほか平安朝が舞台の『少将滋幹の母』においてさえ「古い映画のフィルム」が例えの一つとして持ち出されているくらいなのだ谷崎の自伝的小説である『異端者の悲しみ』には若き谷崎がベルグソンの哲学に傾倒したことが示唆されているがベルグソンが映画のメカニズムを援用して人間の思考と記憶の形態を説明しようとした哲学者であることもここで想起されよう

このように見てくると谷崎の著作はその文章表現のスタイルも含めて日本人がアメリカ(西洋)映画をどのように受容したかの通史的なドキュメントの性格も持っているように思われるそのような観点から彼の著作を読みなおすことで近代日本における映像文化の新たな一面が見えてくるかもしれない

参考文献

谷崎潤一郎『刺青秘密』『痴人の愛』『卍』『蓼食う虫』『春琴抄』『少将滋幹の母』『鍵瘋癲老人日記』(以上新潮文庫)『細雪』『潤一郎ラビリンスⅢ 自画像』『潤一郎ラビリンスXI銀幕の彼方』『潤一郎ラビリンスVI 異国綺談』『潤一郎ラビリンスXV 横浜ストーリー』(以上中公文庫)『谷崎潤一郎随筆集』(岩波文庫)『恋愛及び色情』(角川ソフィア文庫)伊藤整『谷崎潤一郎の文学』(中央公論社)三島由紀夫『作家論』(中公文庫)千葉伸夫『映画と谷崎』(青蛙房)河野多恵子『谷崎文学と肯定の欲望』(文芸春秋)中村光夫『谷崎潤一郎論』(講談社文芸文庫)中条省平『反=近代文学史』(中公文庫)尾高修也『谷崎潤一郎 没後五十年』(作品社)増村保造『映画監督 増村保造の世界』(ワイズ出版)近松門左衛門『現代語訳 曽根崎心中』(河出文庫)

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長谷川 功一
Koichi Hasegawa
  • 1966年札幌市生まれ
  • 北海道大学工学部卒業後日本放送協会(NHK)勤務を経てペンシルバニア州立大学修士課程北海道大学大学院文学研究科博士後期課程修了博士(文学)
  • 現在京都情報大学院大学教授専門は映画研究

上記の肩書経歴等はアキューム28号発刊当時のものです